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十階のボタンを押す。
「あらぁ大変ねぇ。そう言えば今日、貴方の部屋の前で変な人見掛けたわよ」
彼はさっさと上階に上がりたかったのだが、扉の内側を覗き込むように立った主婦がそんなことを言い出したので、〈閉〉のボタンを押そうとした指を途中で止め、彼女ののっぺりしたおかめ顔をつくづくと見返した。
「変な人?」
「ええ、二時間ぐらい前だったかしら。大きなコート着て帽子被った人が、貴方の部屋の前でドアノブをじっと見つめてるの。あたし偶然見ちゃったんだけど」
「…………」
「ただ突っ立って、じーっとドアのほうを見てたのよ。変でしょ? で、何か様子がおかしいと思って、思い切って声掛けてみたのよ。そうしたら」
「どうだったんすか」思わず先を促していた。
「その人、あたしに背中向けて歩いて行っちゃったのよ。何も言わないで。顔も見せなかったわ。本当失礼な人よねぇ」
「そうすね」
「筧さん、貴方変なファンに付きまとわれてるんじゃなくって? 困ったことがあったらなんでもあたしに相談して頂戴ね。力になってあげるから。あ、でもその必要はないのかしら。貴方の〈力〉のほうが、よっぽど凄いんだものね。ええと、なんて言ったかしら、超能力じゃなくて、ごめんなさい、度忘れしちゃった」
「いいですよ別に」
「あの超能力みたいなやつ、またうちの子に見せて下さる? ヨシオったらもう一遍見たい見たいってしつこいのよ」
曖昧な返事を残して〈閉〉のボタンを押す。
上昇を始めた鉄箱の中。彼はサングラスを帽子の上に持ち上げると、睫毛のない切れ長の眼を更に細め暫し思案した。好奇心とお節介焼きの塊みたいな主婦のなんともはっきりしない証言だったが、興味をそそられたのは事実だった。思い当たる人物は、彼の交友録中には存在しない。とすると、やはりなんらかの手段で住所を嗅ぎつけた、ファンの一人を彼女は目撃したのだろうか。自分が有名になったのはここ数ヶ月のことだが、その間住所は変わっていない。帰宅するところを尾行された可能性は充分にある。
ハハ、俺も立派になったもんだ。名実共に芸能人の仲間入りか? にしても、出来の悪い視聴者なんざいちころだな。単純なトリック一つで、お祭りみたいに騒ぎ出しやがるんだ。
速度を落としたエレヴェーターの中で、彼は独り北叟笑んだ。
エレヴェーターを降り、左に少し進んだ先の両開きの戸を開けると、再び突風と闇が彼の行く手に立ちはだかった。左右に延びる割合広い外廊下は、マンションの外壁と彼の眼の高さほどのコンクリ塀に挟まれている。天井のライトは外廊下の壁をくすんだ黄色に映し出していた。
彼の部屋は右の区画にあった。鈴の付いた部屋の鍵をバッグから取り出し、部屋扉の前に立つ。闇空は背後にあり、高所の風は地表より一層強かった。悪意ある冷風の横暴に彼の眼は険しく吊り上がっていた。
何か温かい飲み物が飲みてえな。いや待てよ、アルコールで躰の芯から温まるのも手だな。おし、日本酒の熱燗だ。確か、なんかの番組に出たときに貰った地酒が、手付かずで流しの下に置いてあったはず。
鍵を開け、こじ開けるような手つきで荒々しく把手を引いた。ノブの円い握りを捻ったときに、一瞬妙な手応えを掌に感じたが、すぐにそんなことも忘れ去ってしまった。
「熱燗、熱燗」譫言のように語を繰り返しながら、ボストンバッグを床に投げ捨てる。ドアを閉め、内側から施錠する。
室内は外の闇よりも更に黒々と広がる人工的な闇に覆われ、常人なら手探りでしか進めないような状況だった。しかし彼にとっては勝手知ったる我が家のことだ、暗闇に眼が慣れるのを待つまでもなく、靴紐を無造作に解くと闇の先にすっと手を伸ばした。実際には指呼の間にある、電灯のスイッチを押すためだ。
「ああ?」
彼の手がスイッチの数センチ手前で、ふと止まった。
何かが違う。
テレビ番組の収録が夜半にまで及び、真っ暗な部屋に独り寂しく帰宅するということは、これまでにも何度となく経験している。プライヴェートの例も考え合わせるなら、一月の半分以上は真夜中に帰宅しているのだ。今日のこの部屋は、いつもの深夜の部屋とは何かが違った。
音だ。音が聞こえるのだ。普段、この時刻では耳にすることのない音が。
聞こえるか聞こえないかくらいの、ごく僅かな音量だが、それは確かに鳴っていた。強いて挙げるなら、歯の隙間からゆっくり息を洩らしたときの、シーという摩擦音に近い。
「何の音だ?」
音の出所はどうやらダイニングキッチンの方向らしい。
と、玄関の周辺がパッと明るくなった。照明が灯ったのだ。
「おっ」
瞬時に全身が固まった。指が無意識のうちに、スイッチをオンにしたようだ。
自分でやっといて、何驚いてんだ俺は。
恥ずかしそうに口を押さえ、廊下の明かりを灯した。栗色のフローリングがその光を鈍く反射している。
コポッ。
泡の弾けるような音が、同じ方角から聞こえた。
キッチンだな。間違いねえ。
彼は急ぎ足で居間を右に曲がり、台所に向かった。居間を出ると洗面所やバスルームのある短い廊下に出る。その先の台所に至る艶消し硝子の引き戸は、開けっ放しになっていた。玄関と最初の廊下以外、照明は一切点いていない。十畳ほどの居間は廊下の光を受けてうっすら明るいが、洗面所まではそれも届かない。バスルーム前の空間は文字通りの暗闇だ。
ところが引き戸の奥、ステンレスの流し台の横だけが、何故か少し明るい。豆電球の光でないことは明白だ。天井の照明器具からぶら下がった、蛍光色の抓みの発光色でもない。引き戸の敷居を跨いだところで、彼は立ち止まった。
ガスコンロ。
キッチンの光源は火量を弱めに抑えたガスバーナーの蒼白い炎だった。とはいえ炎自体は彼の立ち位置からだと良く見えない。コンロの上に大振りの寸胴鍋が乗せられていたからだ。ただ鍋の下部の薄い鈍色と、照明の黄色い抓みだけが台所の暗闇にぼうっと浮かび上がる様は、見る者に己の居場所を危うくさせるような幻惑感を招いていた。
コンロの音だったのか。けど、なんでコンロに火が?
誰が、とは考えなかった。玄関扉を開けようとしたとき、確実に鍵が掛かっていたということが、彼の思考に抑制を利かせていたのだろう。この室内には自分を除いて、誰も立ち入ることが出来なかった。管理人が無断で合鍵を使うはずもない。だからこそ、彼にはガスコンロに鍋が掛かっていたことが、不思議に思えてならなかった。
外出前、あの鍋はコンロの上にはなかった。当然バーナーの火も消えていた。しかもここ数日、コンロには全く手を付けていなかった。元栓も締めてあったに違いない。
コポッ。
コポコポッ。
今度は続けて、泡立つような音がした。疑うまでもない、ガスコンロの方向からだ。
何か、煮立たせてんのか?
彼は入り口近くの、照明の主電源スイッチに手を伸ばした。指に当たる感触で、スイッチが入ったままであることが判った。バーナーの僅かな光に頼ることもなく、彼はダイニングの中央まですたすたと歩き、テーブルにぶつからないよう前のめりの姿勢で、冷たく発光する照明の抓みを下に引っ張った。
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