最初の真相
1
日は、数時間前に地平に没していた。
ネオン街のきらびやかな光彩からかなり隔たった、高級住宅やら大小様々なマンション群を懐に抱えた閑静な住宅地。北風が声にならない嗚咽を上げ、帰途の最中にある路上の人々を寒々とした気持ちにさせる、そんな夜のことだった。
二、三ヶ月ばかり出番を早まった凩に身を震わせ、一人の男が足早に街路樹の並ぶ舗装道路の上を歩いていた。時折街灯に照らされるその姿は、昼間でもないのにフレームの太いサングラスを着用し、ベースボールキャップを目深に被っているため顔の判別が難しい。小柄な体格に大きめの革のジャケットは少々不釣合いで、ほっそりしたジーンズに覆われた左右の脚はまるで二本のマッチ棒だ。首を竦め、上着のポケットに両手を深々と突っ込んで、着膨れした上体を前に傾いで風力に抗っている。肩から提げた青いボストンバッグが、歩くたびに後ろに揺れた。
アスファルトを蹴る靴音と、ごわごわしたジャケットの擦れ合う音が、耳朶に直接吹きつける強烈な風で掻き消されていく。男は洟を啜り、小さく呻いた。
畜生が。こんなことなら局を出たときに、マフラーでも買っておくんだった。にしたって、まだ九月だろ? 地元に戻ったみたいだな。いくらなんでも寒すぎるぜこりゃあ。
気紛れな天候の悪戯を心中で呪い、更に脚を速めた。電柱から剥がれた何かのビラが宙を舞い、滑稽なダンスを男の前で披露した挙げ句、縋るように足許に纏わりついてくる。と、今度は飲料水のアルミ缶がカラカラと派手な音を立てて転がってきた。
丁度行く手を遮るように静止した空き缶を、男は忌々しげに蹴った。頓狂な音と共に、男の意思とはあらぬ方向へ飛んでいった空き缶は、街灯の届かない闇溜まりに吸い込まれ、消えた。収まりの悪い、大仰に膨らんだバッグを肩に深く掛け直すと、彼は星一つ見当たらない夜空をサングラス越しに睨んだ。呪詛は続く。
タクシー代ぐらい会社で出せってんだ。こちとら重い荷物しょって、朝からスタジオに詰めてんだぞ。あのババア、敏腕だかなんだか知らねえが、足代に関しちゃちっとも気が利かねえ。口開けば小言ばっかりだ。プロデューサーなら、ちったあタレントの苦労も考えて欲しいもんだぜ。それに。
背後でクラクションが短く鳴った。ヘッドライトで出来た自分の影が、前方のアスファルトに長々と伸びている。異常に肩幅の狭い、化け物じみた影法師が路面を舐めるように蠢いているのが見えた。
振り返りもせず、舌を打って道路の端に身をずらす。道を譲ってもらった黒い車体のタクシーが、凄い勢いで排気ガスを噴出したのち、轟音を残して瞬く間に視界から消え去った。
風が少し弱まったようだ。一旦緩めた歩く速度を再び上げる。腹の底から息を吐くと、白い靄みたいなものが眼前に現れた。ぎゅっと眼を瞑る。瞼の周辺がひんやりと冷たい。毎年恒例の異常気象というやつだろうか。異常が恒例になっては世話がない。
それに
林立する中型マンションを何棟か通り過ぎ、肌に帯びる冷気を振り払うように男は背筋を伸ばすと、一際巨大なマンションを見上げた。ひっそりと闇夜に聳え立つ都心近郊のプチ摩天楼は、日付が変わるまでまだ半刻以上残っているにも関わらず、殆どの部屋窓が闇に閉ざされ、点在する僅かな窓明かりは、ビルの全景を背後の夜空から浮かび上がらせるには些か頼りなさ過ぎた。
自分の部屋の窓に眼を凝らしてみる。照明はついておらず、窓は暗黒に穿たれたまま。今日はローテーションの谷間だった。ほぼ日替わりの、そして金銭だけが目当ての押しかけ女房は来ていない。咽喉に当たる風の冷たさに耐えきれず、顎を引いて顔を戻した。
駅や繁華街から遠く離れた山の手の団地地区は、通勤及び帰宅ラッシュ時を除くと概ね人通りも少なく至って静かだ。夜更けになれば尚のことで、この辺りでは庭付き一戸建ての邸宅の飼い犬でさえ、日が沈むと自分の声を忘れてしまったかのように吠えるのをやめ、周囲の静けさに同化してしまう。
だがこの日は別だった。風の音と圧力だけがそうした沈黙を許さず、次々と襲いかかってくる。
おお寒。ったく、何やってんだ気象庁は。聞いてねえぞこんな寒さ。
亀みたく首をジャケットの襟に引っ込め、彼は右の横道に進路を変えた。縦長のS字に蛇行した脇道を小走りで進む。マンション入り口付近の蛍光灯の白い輝きが、暗闇に慣れた眼をチカチカと刺激する。
彼はふと、帰りの電車の中でミーハーっぽい数人の女子高生に取り囲まれ、サインを求められたのを思い出した。サングラスと帽子で相貌は隠していたのだが、ファンの眼は侮れない。表情の判然としない彼の口許に、自然と笑みが零れる。
ま、たまには電車も悪くねえか。
曲がりくねった小径を早足で駆け抜け、堅苦しい白光に包まれた玄関口を潜った。後ろ手に硝子戸を閉めた途端、風の勢いは嘘のように収まり、頬の辺りがぼおっと暖かくなった。
「あー電話番号でも訊いときゃ良かった」
入ってすぐ左手の壁に、二基のエレヴェーターがある。手前のほうは階下に向かって下降中だったが、奥側は扉が開いたままで、いつでも乗れるよう待機状態になっていた。奥のほうへ歩き出すと、手前のエレヴェーターが一階に到着したらしく、チンと澄んだ音がしてドアが開いた。
「あら、
そう言って出てきたのは、顔見知りの主婦だった。二つ隣の部屋に住んでいるサラリーマンの妻で、何かと男の部屋のドアを叩いては、郷里から届いたという茄子やら蓮根を強引に、それも大量にお裾分けするという、あまり有り難くない類の隣人だった。主人の愚痴が始まると平気で一、二時間は喋る。おまけに自分の身体の不調を訴えるその口調は実にパワフルで、言葉の内容とは裏腹に、きっと亭主よりも長生きできるだろう。彼は常々そう考えていた。
「今お帰りですか? まあご苦労様ですこと。やっぱり人気商売の方は服の着こなしが違うわねぇ。うちのアレにも少しは見習ってもらいたいわ本当に。ネクタイもろくに結べないんだから」
おいおい冗談じゃねえ。俺は早く部屋に戻って寝たいんだ。夜中までこんな煩い女に構ってられるかっての。お前の亭主なんざ俺の知ったことかよ。
「甲斐性のない人と一緒になると、本当不幸だわ。煙草なんて喫いたい人が買いに行くべきなのよ。ねぇ、そう思わない? どうして喫わないあたしがこんな時間に買い出しに行かなきゃならないのよ。月給の半分が家賃で消えちゃうんだから、ちょっとは煙草代の節約もしてほしいわ」
キンキンした声で一方的に捲し立てられ、彼は些かうんざりしたが、心情を顔には出さずに、
「そうですね、すんません、今日ちょっと疲れてるもんで」
声を落として言い、視線を合わせぬようそそくさと奥のエレヴェーターに乗り込んだ。この主婦にはどんなに上手に変装しても、どうせ正体バレちまうんだろうな。何故だかそんな気がした。
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