第67話 まず馬を射る
直史や大介の記録に注目しているのは、もちろん瑞希だけではない。
むしろアメリカのメディアなどは、日本では重要視されない数字なども、しっかりと記録している。
皮肉なことにその観点からすると、大介がボール球まで打ってしまう、選球眼が微妙な選手、となってしまうのは前から言われていることである。
四割打って六割出塁する選手に、選球眼が必要なのだろうか。
すくなくともボール球をミスショットしてでも、ホームランを増やしていくべきだろう。
瑞希としてはたまに日本の中継などを見ると、ゾーンが描かれておらず、OPSの表記がないことに、違和感を覚えるようになってきている。
そんな瑞希に対して、日本時代の直史や大介のことを尋ねようと、何人ものマスコミがやってきたことがある。
おおよそ瑞希はそういった人間とは、関わらないようにしている。
そもそも法曹の世界にいる人間とマスコミというのは、かなり食い合わせが悪いのだ。
マスコミは真実を伝えるなどといって、印象操作を簡単に行う。
それはアメリカでも実はたくさん起こっていて、瑞希はその上澄みを見つけるのに時間がかかったものだ。
アナハイムはロスアンゼルス大都市圏の街であって、アメリカの場合は大きな都市にはそれぞれ、マスコミがそれなりに存在している。
メトロズは当然ながらニューヨークなので、その時の伝手などは使えなくなった。
だが行動範囲が違う記者などは、逆につながりを持っていたりする。
また瑞希はこちらに住むツインズなどにも、色々な話を聞いていた。
彼女たちは彼女たちで、色々な方面に顔が利く。
イリヤの関係からニューヨークの芸能や音楽業界にも、知り合いはたくさんいるのだ。
瑞希の選手に対するアプローチは、その選手自身やプレイによらず、環境に対して行われることが多い。
単純にそのパフォーマンスに驚くのではなく、どういう環境が選手を育成してきたか、そういったことに興味があるのだ。
プライベートとプレイは、絶対的に分ける人間もいる。
だが基本的にメジャーリーガーというのは、いや一流のスポーツ選手というのは、目立つのが好きなのだ。
そしてそのプライベートを、同じメジャーリーガーの妻という立場から、瑞希は取材できる。
他の記者にはないアドバンテージだ。
この日も瑞希は、取材をしていた。
メトロズのスタジアムには、まだ慣れていない。
そしてここで直史がプレイするのは、今日が最後になるかもしれない。
そう考えると写真などを、たくさん撮っておきたくなったのだ。
「瑞希さん」
そんな瑞希に声をかけたのは、セイバーであった。
ツインズの考え推測した、セイバー黒幕論を瑞希は聞いていない。
ただ大人になってみて色々な経験をすれば、セイバーがただの親切なお姉さんではないということは分かってくる。
それでも彼女は、本質的には善人なのだ。
なのでお茶にでも、と誘われて特に拒否する理由はない。
一度スタジアムの外に出て、ホテルのラウンジなどで対面する。
なんとなく瑞希は、セイバーの言いたいことが予測できないでもなかった。
セイバーとしても、まずは周囲から攻めていく必要があった。
直史は絶対に、単独で攻撃しても意味がない。
そして直史対して、一番影響力を持つのは誰か。
瑞希か大介であるが、大介の方から攻めるのは無理であろう。
「これで終われば、日本に帰るのよね」
「そうですね」
「五年の約束だったものね」
「……引き止めたいんですね」
「……まあそうなんだけど」
セイバーとしては瑞希から先に話をしてくれたので、そこはありがたいと思っておくべきか。
瑞希としては随分と前から、この予感はしていたのだ。
特に引き止めの説得があるのでは、とはっきり思ったのは、直史が移籍してからセイバーがアナハイムを手に入れた時だ。
セイバーはアナハイムという球団を手に入れたが、その資産価値は一時期に比べると、まだ元に戻ったとまでは言えない。
直史が投げれば絶対に勝つという、あの宗教的確信にも似た空間は、他の誰かで埋められるものではなかったのだ。
セイバーは買った時に比べれば、かなりその価値は戻ってきている。
だが彼女はこれから、アナハイムをさらに高い資産価値にして、そしてやがては売却する。
最終的にはメトロズを手に入れるつもりだが、そのためにはアナハイムを、もっと高くしなければいけない。
直史はアナハイムのフロントにはっきりと、もうMLBで投げるつもりはないと宣言した。
そしてそれに対して、セイバーはこれまで引きとめようとはしてこなかった。
だがいよいよ最後のシーズンが終わろうという時に、やはり引き止めにかかった。
瑞希としては去年、セイバーが引き止めに積極的でなかったのは、意外だと思った。
もしも直史が前言を翻すとしたら、それを成功させるのはセイバーだけだろうと思っていたのだ。
逆にセイバーからしたら、直史をアメリカに残すのに成功するには、絶対に瑞希の同意が必要となる。
それこそ瑞希が言い出せば、まだ直史は大介との対決を望むのではないか。
ただ今のままでは、瑞希が直史にそう問いかけることはないだろう。
「もしも直史君が、あと少しだけMLBでやりたいと言ったら、瑞希さんは了承しますか?」
「私は、そうですね。正直に言えば、まだ投げているところを見ていたいとは思っています」
だが自分が直史、それを告げることはない。
基本的に直史は、一度口にしたことは、それが不可能にでもならない限り、守らなければいけないと思っている。
しかし同時に、人間関係の義理堅さも、忘れているわけではない。
セイバーが、直史に言うならば。
散々高校からプロへと、道を作ってくれたセイバーが言うならば。
もっとも直史としても、セイバーの利益になるようには動いている。
前々から五年で終わりだと、去年のオフにも言っていたのだ。
それを撤回させるのは、セイバーなら可能なのか。
「それで、どう説得したら、残ってくれると思います?」
逆にセイバーに質問されてしまった。
瑞希も前から、これで条件は成立するのかな、と思っていたことではある。
だから答えを持ってはいる。
しかしその答えを、セイバーに与えるのか。
瑞希が与えるということに、この答えは意味があると思っている。
迷った様子の瑞希に対して、セイバーは数枚の紙を差し出した。
日本語で記述してあるそれは、瑞希も何度も見たことがある。
球団との契約において、各種の条件を書いたものであった。
とりあえず最も目立ったのは、その年俸の部分である。
直史は今年で三年契約が終わるので、FA扱いとなる。
そんなFAのピッチャーに対して、出せる金額は相当なものとなるのは決まっている。
さすがの瑞希も驚くほどの高額が、そこには書かれてあった。
さらにプラスした条件などは、本当にアナハイムがこれだけ払って大丈夫なのか、と思われる。
ただセイバーからしてみれば、はした金とまでは言わなくても、許容の範囲であるのだろう。
だが直史は、金で揺さぶりをかけることは出来れも、動かすことは出来ないだろう。
するとセイバーはもう一枚、簡潔に書かれた紙を取り出した。
瑞希は直史の性格をかなり熟知している。
基本的には保守的で、プロ野球などという博打のような世界には、大学時代は全く興味を示さなかった。
それがプロ入りしたのは、娘である真琴のためと、大介に対する義理とか意地とか、そういったものが関係している。
直史は常に冷静に見えるし、実際に冷静であるのだが、冷静なまま熱血なことをする人間なのだ。
その直史の保守性に、これは確かに当てはまるだろうな、と瑞希は思った。
実際に瑞希自身も、こういう方面から攻めるなら、確かに直史は譲歩するとは思ったのだ。
示された巨額の年俸ではなく、安全策を取っていくのが直史の本来の選択。
なので瑞希も、セイバーに自分の考えを伝えることにした。
直史は頑固である。
なので一度した約束を、破ることはしたくないはずだ。
また特にMLBにおいては、年間のスケジュールがハードすぎるともこぼしていた。
それは瑞希も同感で、一緒にいられる時間が、NPB時代よりも減ったな、とは思っている。
頑迷ではない直史だが、果たしてどういった選択をするか。
「あまり期待しすぎない方がいいですね」
瑞希は保険をかけるように、セイバーには言っておいた。
だが、大介との対決をまた見たいなら、アナハイムに戻るのが一番だとは分かっている。
直史の意識が、どの分野にどれほど重点を置いていて、どう判断するか。
エースがどう考えるのか、それはまだ誰も知らないことである。
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