第39話 変化
モートンがアナハイムのオーナーとなった時と比べると、おおよそその球団の価値は20倍ぐらいにはなっていた。
それがこの数日で、一気に30%ほども価値を減じる。
「潮時か……」
そもそもモートンはロスアンゼルスの大都市圏で、様々な分野に投資して資産を形成してきた。
ただそれはサービス業などの第三次産業に偏っていたのは確かだ。
そしてまさか一選手の動向が、このような結果になるとは。
「……ここで売っておくべきだな」
球団の売却を決めた。
もっとも彼自身が、完全に権利を持っていたわけではないのだが。
「それで私を呼んだと?」
「君は前から、球団を欲しがっていただろう?」
セイバーに対してモートンは、率直に言った。
「全てを手放すわけではないが、君が筆頭になるぐらいには、株を売ろうと思っている」
「……う~ん。私に51%以上もらえるんですか?」
「構わない」
それは本当に、球団の最終的な決定が、セイバーに任せられるということだ。
悪いことではない。
ただセイバーはセイバーで、他に色々と資金を出している。
アナハイムを買い取るというのは、自分一人でやるのでは、運用資金が大いに減ってしまうということになる。
金は動かさなければ増えない。
使えば使うほど、金は増えていく。
もっとも個人としての資産を考えれば、貯蓄が必要な場合もあるのは分かる。
投資が出来るのは、余剰資金がある人間だけだ。
なのでセイバーにとって、今の段階でアナハイムを手に入れるのは、やや手に余る。
「私一人では、少し問題が。でも出来るだけ早く動かせてもらうわ」
「長くは待てない。それは承知してほしい」
単純に今の流れを見ていると、アナハイムの価値はまだもう少し下がる。
しかし底値を待っていると、モートンは他に話を持っていくだろう。
セイバーとしてはこのあたりが、手の打ち所だと思う。
彼女の知り合いに資産家は多い。
ただ彼女自身の経済的な基盤は、当然ながらニューヨークにある。
いまやネットさえあれば、本拠地などどこでもいいと考える者もいるだろう。
だがそれでも都市という形がなくならないのは、そこに利便性があるからだ。
新しい価値観では、動かないものがあるのだ。
アナハイムのオーナーになる。
だがそれはセイバーにとって、最終的な目標ではない。
モートンやコールに比べれば、彼女はまだ半分も生きていない。
だからその視線の先は、もっと未来を見ている。
果たしてその未来に、自分の手が届くのか。
別に届かなくてもいいと、最近では思えてきた。
人の人生は、何かの目的を果たすためのものではない。
その過程を楽しんで、もしも目的に達しても、さらに何かをしたくなると思う。
それぐらいに考えておかないと、経済の巨大化に潰される。
完全に世界の大富豪の一員となったセイバーだが、上にはまだまだ上がいる。
それに財力だけでは権力には敵わない。
また金銭関係だけではなく、人間関係も大切なものだ。
人生を豊かに過ごしたいが、ヴィーガンだのLGBTだのSDGsなどには興味がない。
変に思想がまぎれている経済活動は、必ず破綻していくものなのだ。
持続可能な成長とやらが本当に可能なら、その成果だけをいただく。
それでもそれが人類のためなら、セイバーのものとなってもおかしくはない。
こういうことを考えず、ただ自分の快楽のみを満たしている人間もいる。
別にそれは悪いことだと、セイバーは思わない。
その欲望が社会にとってプラスでありさえすれば。
逆にいかに高邁な思想であろうと、それが社会の害悪になることはある。
地獄への道は善意によって舗装されているといったのは、果たして誰であったか。
ともかくセイバーはMLBに興味がありそうな人間に声をかけ、アナハイムの獲得に乗り出すことになる。
ただ今のアナハイムを買収するのは、それなりにリスクもあるのだが。
リスクを恐れてリターンなし。
あるいは損をしても、たかが金と言うべきか。
セイバーはこのリスクを引き受けても、別に破産するわけではない。
そして破産して全財産を失っても、また金は稼げばいい。
一度出来たことなのだから、今度はさらに上手く出来るだろう。
人間の人生というのは、特にこういった財産の形成というのは、何度も失敗してから何度も成功し、そして経験や伝手などを増やしていくものだ。
セイバーもこれまで、半分以上の資産を失ったことは何度もある。
だがそれで、次はどうすればいいのかが分かってくるのだ。
マネーゲームなのだ。
そしてゲームというのは、何度も失敗するたびに上手くなっていく。
勝つために必要な、唯一つの攻略法。
それは単純に、勝つまでやるということだ。
だいたいの人間は何度か負けて諦める。
何度も挑戦するだけの機会を作るのが、そもそも難しいのだ。
セイバーは負けても、再挑戦するためのリソースは残しておく。
だからこそ短期間に再挑戦し、今度は勝つことが出来るのだ。
大切なのは一度でも勝つこと。
一度勝てば二度目からは、ずっと簡単に勝てるようになる。
そのリミットは己自身の寿命。
ほとんどの人間は一度の敗北で、挑戦することは諦めてしまう。
挑戦の方法など色々あるのだし、一度負けたぐらいで、己を信じられなくなるなど、あまりにも脆いものだ。
モートンも今は負けた。
だが傷を最低限にするために、損切りをしようとしている。
負けを小さくすることも、また挑戦するためには必要なことだ。
だいたいの人間はこれが分かっておらず、一度負けたら終わりであったり、二度と挑戦しないようになってしまう。
たかが金、命がなくなるわけではない。
しかし同時に、金というのは命の次に大切なものでもあるのだが。
セイバーは声をかけて、メンバーを集めた。
レギュラーシーズンが終わる前に、彼女はアナハイムの権利の60%を獲得する。
アナハイムの価値はまだそこからも落ち、彼女の資産はいったんは減ってしまう。
ただそれすらも、彼女にとっては準備でしかなかったのである。
勝利は敗北の経験の中にあるのだから。
いまだにギプスで左肩を固定してはいるが、樋口はアナハイム傘下のマイナーチーム巡りを続けていた。
今年アナハイムは、チームを解体した。
シュタイナーという打点マニアに、リリーフのマクヘイルにピアース。
一気に減ったように思えるが、実はそんなことはない。
センターラインは樋口からアレクまで、しっかりと残っている。
契約が大型契約であるため、トレードしにくいというのもある。
だがこの二人を残しているというのは、またすぐにアナハイムが、コンテンダーとなる可能性を残しているのだ。
ピッチャーにしてもFA間近のピッチャーを放出しただけで、どのみち来年は新しいチーム編成が必要だったわけだ。
ターナーがリハビリに入った、ということも聞いている。
ただ目の状況がどうなのか、樋口としてはあまり楽観視していない。
ターナーがいなくても、ポストシーズンには進めるチームを作る。
それはGMなどのフロントの仕事だと思うのだが、樋口としては自分の目で逸材を探したいわけだ。
そんな樋口は、同行者を見つけた。
同じくマイナーを回っている、セイバーであった。
アナハイムのマイナーチームというのは、カリフォルニア州に集中しているわけではない。
AAAはユタ州にあるチームであるし、AAはアラバマ州にある。
なので実際の試合の様子ではなく、試合の映像や数字によって、GMは色々と判断しなければいけないわけだ。
しかしセイバーは、実際のチームの様子をその目で見る。
「アナハイムのオーナーになったそうですね」
「絶対のものじゃありませんけどね。それでも最高意思決定者ではありますが」
「そんなオーナーがなぜわざわざ自分で?」
「映像で寄越されるのは、ほぼ試合のデータぐらいですからね」
セイバーの評価は、フィジカルやメンタルのみにとどまらない。
メンタルに近いのかもしれないが、重要視していることがある。
それはパーソナリティだ。
「別に人格者である必要はありませんが」
そもそもスポーツのトッププレイヤーなどは、性格が悪くても当たり前だろう。
ただ性格が悪くても、チームのために貢献するという意識があるなら、それは重要なことだ。
たとえばサッカーなどは顕著なのだが、若年期から国外のユースに放り込まれるということは多々ある。
そこで生き延びていくのに必要なのが、パーソナリティである。
基本的に外国語のたどたどしい日本人は、そこでまず溝がある。
サッカーは野球に比べて、プレイの止まっている時間が一定ではない。
その中で敏速にコミュニケーションするため、野球よりも意思の疎通が重要となる。
もっともサッカーの場合、戦術的に最適の行動などは、ある程度決まってしまっているものなのだが。
そんなセイバーに同行し、樋口はアナハイム傘下のチームを回ることになった。
もちろんリハビリもしなければいけないため、ずっと一緒というわけではないのだが。
セイバーにとってもこれは、いいことなのである。
データならば彼女は、いくらでも理解することが出来る。
しかし樋口の持っている、プレイヤーとしての感覚には、一目置いている。
おそらく才能などを的確に判断する能力は、樋口はほとんどのコーチやトレーナーよりも優れている。
樋口もまた、本来のフィジカルであれば、あそこまで長打が多くない選手なのだから。
なお、夫が女と一緒に行動しているということで、嫁さんに詰め寄られるのだが、それはまた別の話。
「来年のアナハイムに必要なのは、安定して長打の打てる選手が一枚と、リリーフピッチャー」
樋口の意見にセイバーも賛成である。
とにかくまずは得点力を増さなければ、どうしようもない。
そして勝ちパターンのリリーフがいなくなったため、そこも埋めなくてはいけない。
特にクローザーだ。
今年のメトロズが苦戦していた、最大の要因。
それはクローザーがいなかったことと、若手のクローザーが故障で抜けたこと。
トミージョンは気の毒なことだが、今のメトロズは打線は最強に近い。
ならばリリーフ陣も、やや厚めに取っておいた方がよかっただろう。
樋口などはメトロズ打線を、グラントまで取る必要はなかっただろう、と思っている。
確かにここまで年俸に見合った打撃成績を残しているが、長打は若手のラッセルもある。
また確実性であれば、坂本という抜け目のない選手がいる。
DHで起用してまでグラントに、それほどの価値はあるのか。
「でも結果的には、それが大正解」
肩をすくめるように、セイバーは言う。
クローザーがいなかったことで、逆にメトロズは、クローザーとして直史を取ることになった。
もちろんこれはあくまで、結果論である。
ただメトロズとアナハイムが、共にワールドシリーズまで進出する可能性は、開幕の時点でかなり低くなっていたと思う。
特に樋口としては、先発のローテが足りないだろうと思っていたのだ。
しかしセイバーは、自分の目でマイナーの選手を確認している。
「今年の九月は、色々と試そうと思っています」
来年はポストシーズンへ進み、降下したアナハイムの価値をまた高める。
さらにその先に、彼女の狙いはあるのだが。
樋口はここで、経営的な理念をセイバーから学ぶことが出来た。
それは元々樋口に向いていた才能であったが、特にセイバーはそういうものに通じていた。
もっとも彼女が一番得意なのは、単に数字を動かすだけで、資産を増やすことなのであったが。
「来年のアナハイムは、来年からのアナハイムは、強くなりますよ」
メトロズという王朝を倒すため、セイバーは考える。
ただミネソタが今後数年は巨大なライバルとなるのは、彼女としても避けられない事実であった。
ミネソタはドラフトに成功し、プロスペクトの育成に成功し、またその年俸が安い間は、ピッチャーに資金をかけることが出来る。
打線陣が強力なしばらくの間は、ミネソタはア・リーグでの最大のライバルとなるだろう。
また西地区は、ヒューストンというここしばらくずっと強いチームがいる。
以前にはサイン盗み問題で、全米から叩かれたものだが、さすがに今はもうその時代の人間も残っていない。
ナ・リーグは補強に失敗しなければ、メトロズの一強。
アナハイムが上手くチームを作れば、ミネソタとのライバル関係が続くか。
もっとも直史がいた間は、ミネソタなど敵ではなかったのだが。
先発のエース一人が、完全にチームを導いていた。
直史自身はそんなつもりはなかっただろうが、間違いなくアナハイムは直史のチームであった。
それを来年からは、どういう形にするのか。
「心配しなくても、色々と考えていますよ」
セイバーはNPBに、まだ強いつながりを保っている。
そこからの戦力というのも、計算に入れているのがセイバーであった。
あとは一つ、奇跡も待っていた。
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