第35話 ア・リーグの野心

 トレードデッドライン直前で、アナハイムとメトロズの間で行われた、電撃的なトレード。

 今季はほぼ絶望的なアナハイムとしては、最高のピッチャーを高く売ったつもりであったのだろう。

 それに対する反発は、地元アナハイムだけではなく、アメリカ各地で起こったりした。

 その理由としては、あまりにも商業的過ぎる、というのが建前としての理由。

 実際にはこれ以上、メトロズを強くするなという嫉妬が、他のチームのファンの間にはあったのだ。


 特にその中でも、ミネソタは顕著であった。

 ターナーと樋口の脱落により、アナハイムが今年の脅威にはならないであろうこと、もしなるとしても去年よりは弱いことは、間違いのないことであった。

 そこにさらに補強を行い、MLBトップの勝率を走るミネソタとしては、今年こそワールドチャンピオンという野望は、描いていたはずなのだ。

 メトロズがナ・リーグのチャンピオンとなっても、打撃戦を制することで勝つ。

 武史はさすがに、直史に比べればまだ与しやすい。

 実際のところはそんなはずもないのだが、メトロズが直史を獲得するというのは、確かにルール違反ではないが、フェアではないのではと思われるものであった。


 七月の時点で、ミネソタは75勝33敗と、ほぼ勝率は七割。

 シーズンでは110勝を超えると思われる、圧倒的な優勝候補であった。

 しかし直史一人が入っただけで、メトロズは全く違うチームに変貌する。

 メトロズの最大のウィークポイントであるクローザーの穴が、完全に消滅するからだ。


 昨年のポストシーズン、ミネソタは勢いをもってアナハイムと対決した。

 一昨年の地区最下位からのポストシーズンということで、いきなりワールドチャンピオンというのは苦しいだろうとは思っていた。

 しかし現実はそれよりも厳しく、アナハイム相手にスウィープを食らっている。

 それも第一戦では直史にヒット一本のマダックスで抑えられ、第三戦と第四戦では、逆転を狙ったところをリリーフで抑えられている。

 直史一人によって、完全に封じられたという意識が強い。


 直史のピッチングのスタイルは、MLBが求めるようなクローザーのものとは、あまり合致しないと思われた。

 クローザーは一気に爆発して相手の攻撃を封じ、それを勝ってる試合では繰り返していく。

 だが直史は基本的に、打たせて取るタイプということが出来る。

 もっとも奪三振率が、低いわけではないのも確かだ。


 実績として存在するのは、去年のポストシーズンで、ミネソタを抑えたセットアッパーとしてのもの。

 バッターにとってはマウンドの上に立つ、死神にも似た絶望の具現化。

 悪い予感は早々に当たる。

 直史はすぐに、僅差の試合であっさりとセーブを上げた。


 今年のMLBにおいては、一つ頭の抜けた戦力だと言われているミネソタ。

 だがア・リーグを勝ち抜くだけでも、それなりの厳しさはある。

 中地区では敵なしと言っていいが、西地区のヒューストンや、東地区のボストンにラッキーズ。

 それらとの戦力差は、勝率ほどには離れていないと思えるのだ。


 ただ今年は、ア・リーグの中では運もあったと思う。

 アナハイムの弱体化が一番大きいが、そのアナハイムがヒューストンから勝ち星を奪う。

 また東地区は戦力の揃ったチームが複数いて、抜け出すチームが存在しない。

 勝率で一位を取れれば、ホームのアドバンテージが得られる。

 案外と言ってはなんだが、これがバカにならない。


 ここからメトロズが上げてくるのか、それは分からない。

 だがナ・リーグのチャンピオンに、間違いなく近づいたとは思う。

「サトーは弟もいるからな」

 ロッカールームでミネソタの選手たちは話す。

「106マイルなんて人間のスピードじゃねえ。それに変化球もしっかりあるしな」

「スピードだけなら打てなくはないんだけどな」

 確かにスピードだけなら、機械で再現することが出来る。

 しかし実際は、100マイルのスピードであっても、打てないピッチャーは打てない。

 直史などはコンビネーションで、95マイルのボールでバッターを打ち取っているのだ。


 ワールドシリーズへの道は楽になった。

 だが逆にワールドチャンピオンへの道は険しくなっている。

 こういう時にブリアンは、彼らしく考えるのだ。

「神の与えたもうた試練だよ」

 前向きと言うか狂信的と言うか。

 ただブリアンは間違いなく、人間的に見て善性の人間である。

 年俸の中から少なくない額を、色々な慈善事業に寄付している。

 もっともアメリカの場合、この寄付というのが税金対策として有用であったりするのだが。

 かつては日本であっても、故郷に錦という言葉があるように、地元に還元ずる資産家はいたものだ。

 だがグローバルだのインターナショナルだのワールドワイドだのと言っていると、そんな意識もなくなってしまう。

 全ては古い因習として。


 現在のブリアンは、本塁打数でア・リーグの一位を走り、打率でも一位を争っている。

 打点に関してはホームランの数にある程度比例するもののはずだが、ミネソタは前後の打線も強力のため、意外と伸びていかないのだ。

 過去の三冠王のほとんどは、打率を保つのが一番難しい、と言っていた。

 だがブリアンの場合は、打点なのである。

 もっともこれは、やがてチームが変われば、条件も変わるのだろう。


 ブリアンの思考は、基本的に信仰心が基となっている。

 カトリックの信者であり、禁欲的な精神が強い。

 MLBというショースポーツの世界にいながら、穏やかな面持ちを崩さない。

 それでいてハングリーと言うよりは、自分の置かれた状況を、神の試練だと考える。

 わざわざ与えてくれるのだから、己を信じていれば必ず、乗り越えることが出来る。

 信仰は己に自信を与えてくれる。

 このあたり直史などとは、全く考えが合わないであろう。

 ブリアンが成績を残しているのは、才能と運によるものが大きい。

 この信仰心による努力というのは、立派な運によるものだろう。

 それを神様のおかげとしているらしいが。




 ア・リーグはミネソタが制するのでは、と多くの人が予想している。

 だが東地区で争っているチームは、四位までがあまり差がない。

 そして競い合うということは、消耗するということであるが、同時に洗練されていくということでもある。

 叩けば叩くほど強くなる、鋼のように。

 踏むことによって伸びる、麦のように。

「それでもうちに来て欲しかったなあ」

 東地区二位のラッキーズで、井口はそんなことを言っていた。


 井口が直史の味方として戦ったのは、WBCぐらいである。

 高校三年のアジアカップには、直史は出場していない。

 あとはNPB時代のオールスターぐらいであるが、あれはお祭り騒ぎのようなものだ。

 どうせニューヨークに来るなら、こっちに来ればいい。

 そうすれば大介とも、ニューヨーク決戦が出来ると、井口は考えていた。


 井口もまた、大介には及ばないながらも、充分にレジェンド級の活躍を残している。

 NPBにおいて既に、300本のホームランを目の前としていた。

 MLBではいささか数字を落としたが、それでもクリーンナップに入れるぐらいの打撃力がある。

 タイタンズからラッキーズと、いわゆる名門のチームを渡り歩いてきた。

 しかし高校時代から、その経歴が大介と被ってきたため、中学時代のような怪物めいた称号は得ていない。

 個人としての自分は、MLBレベルでは傑出した存在ではない。

 それでも目指すのは、より高みに昇ることだ。


 野球はチームスポーツだ。

 だが同時に選手は、自分の成績にしか責任を持たない。

 選手を上手く使って勝つのは、指揮官の務めである。

 しかし今、MLBには数人の怪物がいる。

 一人で勝敗を、そして優勝を左右する存在だ。

 それがいる限りは、なかなか他のチームは勝てない。


 戦力均衡が上手く働いていないのだ。

 あれほど上手く年月をかけて、チームを作ったミネソタが、アナハイムにはポストシーズンで一蹴された。

 今年もまた直史が、ミネソタ相手には完封している。

 そしてラッキーズのミネソタとの対戦成績は、あまりいいものではない。

 とにかくあの重厚な打線に、押しつぶされてしまうのだ。

 それを直史はあっさりと、無失点に抑えてしまうのだが。


 フロントの考えなど、井口が知るわけもない。

 ただメトロズは大介と武史、さすがにこの二人を同時に維持できるのは、最初の契約が切れるまでだろう。

 その時に武史をどこが取れるか。

 もっともNPB時代、武史はあまり大介との対戦成績は良くなかった。

 上杉を除けば、他のほとんどのピッチャーはより悪かったのだが。


 ニューヨーク対決が、自分のいる間に実現して欲しい。

 それが井口の考えである。

 MLBという最高峰の舞台で、自分がどれだけ活躍出来るのか、野球の高みに昇ろうとするなら、それは絶対に興味があることだった。

 しかし確かになったのは、MLBという舞台でも、立ちふさがるのは佐藤兄弟に大介と、日本時代と変わらないものであること。

 かつてMLBとNPBのレベルの違いを、NPBは4Aのようなもの、と言った者がいた。

 だが大介と直史、また武史や上杉といった上澄みは、むしろMLBでこそ数字を伸ばしている。

 強く叩けば強く叩くほど、大きな音が鳴る。

 その才能の限界は、井口の知るところではない。




 さて、直史がアナハイムから離脱して、一番その隙を見逃すまいとしたのは誰か。

「ポストシーズンが現実的になってきたな」

 それはやはり、シアトルの織田である。


 ミネソタの一強というのが、今年のMLBの状況であった。

 しかしメトロズの補強により、事情は全く違ったものとなっている。

 アナハイムの脱落、そして中地区はミネソタの草刈場。

 東地区は潰しあいとなったことで、西地区の二位になれば、おそらくポストシーズンには出られるだろうという状況になったのだ。


 大介ほどの派手さはないが、リードオフマンとしては不動の一番となっている織田。

 毎年ヒットを200本以上積み上げているが、それよりは出塁率の高さも保っていることがすごい。

 アレクに似ているようでいて、長打では劣り出塁を重視する。

 そんな一番バッターは、そろそろワールドチャンピオンの称号がほしい。


 一人の選手が、試合を支配する。

 今のMLBの状況は、控えめに言っても異常だ。

 だが織田たちは、もう10年以上も前から分かっていたはずだ。

 甲子園で、あの二人がとんでもないことをしでかしてからずっと。

 ワールドカップ初優勝という舞台で、主力となったのはあの二人であった。

 派手な栄光は大介に、しかし陰のMVPは直史に。

 あれから10年以上が経過して、世界に二人の活躍が流れ続けている。


 どうせ今年のシーズンが終われば、直史はFAとなる。

 どれだけの大型契約を、どこのチームが持ちかけるのか。

 とりあえずあの二人が共にいる間は、ワールドチャンピオンは現実的ではない。

 佐藤兄弟に大介が、それぞれ有力チームに分散することで、MLBは本当の戦国時代を迎えるだろう。

 その時までにはシアトルも、頂点を狙えるようになっておきたい。

 久しぶりのポストシーズン進出は、そのための準備運動になるはずだ。


 メトロズがあのように強化されたことで、今年の行方は決まった。

 普通にクローザーを補強しただけならともかく、加入したのが直史だ。

 プロ入り一年目から活躍していた織田は、シーズン中から夏の甲子園は見ていた。

 去年はあと一歩届かなかったSSコンビが、今年はどう活躍するのかと。

 そして見たのが、直史のでたらめなピッチングだ。

 あれからホームランを打っているというだけで、織田はMLBでは一目置かれているのだ。

(どうにかしてフォアボールでの出塁なんか出来ないかな)

 織田はそんなことを冷静に見ながらも、シアトルがどこまで進めるか、それも深く考えていたのであった。

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