第29話 凶星

「だいたい治った気がする」

 大介がそう言ったのは、骨折してから二週間ちょっとたったある日のことであった。

「……だいたい治ってるね」

 医師はそう診断するしかなく、首を傾げていた。

 当初の予想としては、一ヶ月から一ヶ月半、スポーツ選手なのだから念のために二ヶ月、というのがおおよその見通しであった。

 若ければ治りが早いが、30歳ともなれば代謝は、それなりに落ちてくる。

 だが医学の世界では普通に、常識よりも早い時間で傷が治る人間がいるのは、よく知られていることだ。

 普通なら助からないはずの傷を負って、二週間後にはぴんぴんしている人間など。

 戦場に行ってみると、たまにではあるが確実にいるらしい。


 七月に入ってから、メトロズの調子はあまり良くない。

 そのあたりも考えて、大介は退院を決定した。

 医師としては止めるべきなのだろうが、実際にレントゲンではもう骨がくっついてしまっている。

 ただこの状態では、さすがにもう少し慎重に動きなさいというのみ。

 メトロズのフロントは、呆れながらもチームドクターにも確認した。

 大介の完治はほぼ間違いない。

 それでもしばらくは、守備の負担は求めるべきではないと。


 大介としてもスイングをすれば、なんとなく感覚が違う。

 そのため右の打席でも、何度もスイングしてみる。

 体が自然と反応するのは、左の打席ではフルパワーを出してしまい、確かにまたどこかが故障しそうな気がする。

 なのでしばらくは右で打つかな、と思ったりもした。


 さて、負傷者リストに入っていた大介であるが、この負傷者リストには主に三種類の期間がある。

 野手である大介の場合は、10日間の負傷者リスト入りか、60日間の負傷者リスト入りか、というものであった。

 この二つの違いは、40人枠の使い方による。

 10日間の負傷者リスト入りの場合、ベンチ入りロースターの26人枠から外すことが出来る。

 その間に復帰することは出来ず、またこの離脱期間を延長することは出来る。

 60日の負傷者リスト入りとなると、二ヶ月の離脱となる。

 下手をすれば1シーズン絶望というレベルであり、この場合は40人枠からも外すことが出来る。


 大介の場合は二ヶ月かかるか微妙なところであった。

 復帰できればすぐ使いたいという考えから、10日を延長して、40人枠からは外さないようにしていたのだ。

 単純に怪我から治るだけではなく、戦力として使えなければいけない。

 それでも大介を60日間の負傷者リストに入れなかったのは、今のメトロズの状況を考えれば、素晴らしい判断であったと言えよう。

 大介の成績だけではなく、肉体的な分析まで持っていた、セイバーによる働きがあった。

 高校時代のデータを大介は持っていたので、メトロズは大介を60日間の負傷者リストには入れなかったのだ。


 故障からおよそ二週間、一応骨折した場所にはテーピングをして、大介はグラウンドに姿を現した。

 一ヵ月半とか二ヶ月とか言われていた、復帰までの時間はなんだったのか。

 ただし大介は、右の打席で練習に参加していた。

 また守備に入っても、軽く動く程度にとどめている。

 八月に入るまでには、普通にショートに復帰出切るかな、というのが大介の目論見であった。

 そんな大介に伝わってきたニュースが、またしても行われたトローリーズの蛮行であった。

「いや、これは普通のクロスプレイと言うか、樋口が当たりにいってるだろ」

 送球が逸れたための、仕方のないプレイだったと思う。

 だが大介に続いて樋口と、日本人のスター選手を潰してきたのだ。

 後者は間違いなく事故であろうと、ほとんどの人間は判断したのだが。


 ロスアンゼルスで暴動が起こった。

 西海岸は比較的、人種差別は東に比べれば少ない。

 またロスアンゼルスはそれなりに、東アジア系も多い都市だ。

 そこで暴動が起こったというが、正確にはトローリーズに対する観戦ボイコットなどの運動である。

 いやいや、少しは冷静になれと大介は言いたかったが、そこは大介も私情が入る。


 樋口の故障に関しては、間違いなくもう今季は絶望と言えるものであった。

 ただでさえアナハイムは、ターナーが離脱して得点力が落ちている。

 そこに守備の要である樋口までもが離脱してしまったのだ。

 得点力まで含めて考えて、アナハイムがポストシーズンに進出するのは、またそこからワールドシリーズに進出するのは、どれだけ現実的なのか。

 直史が現在、中四日で回している状態である。

 しかし正捕手がいない状態で、果たしてどうするのか。

 強者と戦いたいという、大介のどうしようもない本能。

 その中でも最も対戦の機会のなかったはずの直史が、わざわざMLBまで来てくれたということ。

 それなのに二人の対決を引き裂こうと、こんな動きが出てきている。


 武史から確認しても、樋口の今季絶望は間違いないという。

 大介の目から見て、今のアナハイムがワールドシリーズまで勝ち残ってこられるか。

 むしろポストシーズンまで進出できたら、なんとかワールドシリーズまではたどり着きそうである。

 直史が中一日で投げたら、可能ではないのか。

 いやそれをレギュラーシーズンでやってしまい、年間60勝とかしかねない。

 この点において、大介と武史の認識は一致している。

「アホなこと言うな」

 坂本はさすがに呆れていたが。




 坂本は直史に対して、特別な敵愾心を持ってはいない。

 自分ではまず対抗できないピッチャーだと、普通に諦めている。

 プロで重要なのは、稼ぐことだ。

 それを考えれば直史一人を打てなくても、それはそれで問題はない。


 坂本には圧倒的な自己肯定感がある。

 なので高校時代は、野球の超名門校に入ったし、気に入らなければあっさりと辞めた。

 そして結局は甲子園に行っているのだから、自分の選択には自信を持っているだろう。

 直史のようにうじうじとした面はない。

 なのでとにかく必要なのは、MLBでも10年以上活動することだ。


 親が金持ちという圧倒的なアドバンテージにより、坂本は変なコンプレックスなどを抱かなかった。

 自分の状況を全力で利用しているのが、坂本の人生である。

 下手に何かにこだわりすぎて、無駄な苦労をする必要はない。

 ワールドチャンピオンも、既に二度経験しているのだから、名誉にもさほどの興味はない。

 かといって成金趣味でもないあたり、坂本は坂本らしいというか。

 自己破産して貧乏になっても、それはそれで楽しんでいける。

 それが坂本という人間であった。


 そんな坂本からすると、目標は普通に優勝である。

 アナハイムは果たして、フロントがどういう方向に舵を切るかと考えている。

 メトロズはこの先、どちらの方向に動くのか。

 補強に走るのか、いったん解体するのか。

 直史がトレード拒否権を持っていることと、おおよその選手の契約期間は知っている坂本である。

 自分がアナハイムのオーナーなら、今年はもう直史で客を呼ぶだけにはしないな、と考える。

 ちゃんとポストシーズンにまでは残らないと、観客動員は伸びない。

 いくら直史が優れたピッチャーでも、アメリカのキャッチャーではなかなか上手く使うことは出来ないであろう。

 ベテランの使えるキャッチャーを、アナハイムは今から獲得するのか。

 しかしそのために出せる選手が、どれぐらいいるのだろう。


 球団経営のビジネスに、どれだけの情熱を持っているか。

 アナハイムのオーナーであるモートンは、エンターテイメント業種などにその主眼を置いている。

 そのためにMLBのチームを持っているというのは、ステータスでもあるのだ。

 坂本はビジネスマンだとモートンのことを捉えている。

 直史には記録を作らせてもいいだろうが、他の選手は放出するのではないだろうか。

 アレクや樋口は長期契約だが、今年で契約の切れる高額選手は数人いる。

 そこをカットしてしまえば、ぜいたく税の条件が解消される。

 一度リセットしてから、また新しくチームを作るほうが、長期的に見れば良さそうだ。

 だが直史がいる最後の年、これを逃せばワールドチャンピオンの機会は、しばらくないのではないか。

 ターナーの復帰がいつになるかで、その判断も変わるとは思う。


 もしもアナハイムが選手を放出するなら、リリーフ陣を一人ぐらい取ってくれないかな、と坂本は思っている。

 今のメトロズはアービングに負担がかかっているし、それに安定感もまだいまいちだ。

 一点を絶対に守らないといけない、ポストシーズンのクローザー。

 出来ればアナハイムから、ピアースを獲得出来ないだろうか。


 昨日までは最大のライバルであったのが、今日からは最高の味方となる。

 MLBでは決して珍しいことではないし、なんなら試合中にトレードが成立して、試合の前後でユニフォームが変わっていたということもある。

 トレードデッドラインは、七月の末。

 それまでにどう戦力を整えるかが、GMの腕の見せ所である。




 グラウンドに戻った大介。

 担架で運ばれてから、21日目のワシントンとの第三戦で、三番DHとして復帰である。

 結局三週間で戻ってきた、不死身の男。

 鉄人などという言葉が野球においてはされるが、大介はさすがに全く故障をしないというわけではない。

 だが肋骨を折って三週間で復帰というのは、やはり異常な早さであった。

 しかもこの試合、先発は武史。

 ワシントンを相手に、第一戦と二戦を落としているので、なんとしてでも勝たなければいけない試合だ。


 そんな試合に、武史が投げる試合に、戻ってくるという大介。

 やはりなんとも、劇場型の人生を送っていると言えるだろう。

 こんなに早く復帰するなら、オールスターやホームランダービーも出られたじゃないか、という意見もある。

 しかし一度出場辞退をしたのは、もう覆すことは出来ないのであった。

 

 大介が離脱したのは、結局17試合。

 これでもまだ充分にホームラン王の圏内にいるというのが驚きである。

 たださすがに自己のキャリアハイを超えることは難しいだろう。

 また打率にしても、果たしてどれだけ戻してくることか。


 一回の表、武史は珍しくも一人、フォアボールのランナーを出してしまった。

 それでも失点には至らないのだから、安定しているとは言える。

 ダブルヘッダーのあった日程の関係で、武史はここで中四日で投げている。

 その影響もわずかにはあるのかもしれない。

 そしてその裏、メトロズの攻撃。

 ステベンソンとシュミットが連続で出塁し、大介の打席。

 右打席に入った大介を見て、スタンドからは大きなざわめきが聞こえた。


 大介が右でも打てることは知られている。

 だがどれぐらい打てるかということは、統計で確かになるほどの試行回数がない。

 よってここでは、歩かせて満塁もまずいので、勝負をするしかない。

 いくらなんでも反対の打席で、同じように打てるはずがない。

 そう考えたワシントンがバカでした。

 初球からゾーンに入ったボールを、しっかりと引っ張っていく。

 レフトスタンドへのスリーランホームランで、三点を先制したのであった。




 大介が右打席で復活している。

 これによって士気は上がったが、武史は平常運転である。

 前回の試合では、やや球数が多かったことに加えて中四日。

 点差によってはリリーフ継投も考えていくべきだろう。


 メトロズは大介が打つことによって、一気に勢いづいた。

 ただ今日の武史は、そこそこヒットも打たれている。

 やはり登板間隔一日の違いが、疲労として残っているのか。

 球数も増えてきて、リリーフの継投を考慮しなくてはいけないだろう。


 ただ打線の方は、充分な働きをしている。

 どんどんと点を取っていって、点差を広げている。

 これなら武史は途中で降板してもいいし、リリーフも勝ちパターンのピッチャーを温存できるだろう。

 七回一失点でリードは六点。

 ほぼセーフティという点差で、武史は後続に後を託す。

 この時点で球数が100球に到達していたため、何もおかしな判断ではない。

 ただどうせなら、もっと少ない球数でも良かったかな、と思う坂本である。


 武史は16勝1敗と、これまた完全なサイ・ヤング賞の候補の筆頭である。

 イニングイーターという点で言うなら、両リーグを合わせても二位のイニングを投げている。

 もっとも直史は、ぶっちぎりの一位だ。

 投げている試合数が、そもそも違うと言える。

 七月の中盤において、既に22勝。

 ただ樋口の抜けた影響がどうなるか、という不安はあるだろう。


 メトロズはここから、確実に勝利をつかんでいけばいい。

 八月には大介も、完全復帰ということになるだろう。

 そうすればまた走力も期待できる。

 何より今は、ショートの守備がほしいのだ。


 六点差というのは、いわゆる安全圏。

 アンリトンルールにおいては、リードしている側が盗塁をしかけてはいけないとか、ボール3の状態からのストライクを打ってはいけないとか、色々な暗黙の了解がある。

 このあたり日本人には、完全に理解できないであろう。

 確かにプロにおいては、六点差というのはNPBでもほぼ安全圏だ。

 ただ一発勝負の高校野球を経験していれば、六点差など安全でもなんでもない。

 たとえワシントンの攻撃が、あと2イニングしかないと分かっていても、充分に逆転の可能性はある。

 野球は九回ツーアウトからという、最後まで油断しないという戒めの言葉もあるのだ。


 事実、メトロズはここから崩れた。

 八回の表に一気に五点を取られて、リードが残り一点となる。

 七回一失点のクオリティスタートを決めた武史としては、勘弁してくれと言いたいところだ。

 メトロズ首脳陣は慌てて、アービングに準備をさせる。

 大介が復帰、武史が先発した試合、これで落としたら采配の問題になる。

 ただアービングにしても、一点差の厳しい場面で使うには、まだまだ信用できないのだが。


 こんなことなら武史に、最後まで投げてもらうべきであったか。

 オールスター明けの初戦は、ラッキーズとの対戦となる。

 オールスターには出るにしても、どうせ投げるのは1イニング程度。

 昔はともかく、今では一人のピッチャーが、上限の3イニングまで投げることはない。

 そのくせ肩は作らないといけないので、やや面倒だとは言えるのだが。


 ともあれこの試合は、アービングに頑張ってもらうしかない。

 ただ初球を受けた坂本は、いまいちボールのキレが悪いのに気づいたのだが。

(七月のこの時期、連戦と暑さで体力も落ちてるがよ)

 このあたり灼熱の季節に試合を行う、日本の高校野球は狂っていると言ってもいい。

 わざわざ暑熱よけのために夏休みを作っておきながら、その灼熱の中で炎天下のスポーツを行うのだから。

 せめてドームにしろという意見はあるのだが、若者が暑さの中で苦しむのを楽しんで見る、老害が日本には多いらしい。

 その洗脳をしっかりと受けて、高校球児は無思考で指導者の言葉を受け入れてしまう。

 アメリカだったら選手から、そして生徒から訴訟が起こされているぞ、と散々言われていることである。

 お前らの常識を押し付けるな、と言いたいところであるが、一応アメリカ様の言っていることは間違いではない。




 アービングの球は、今日はいまいちである。

 正確に言うとここ最近、ボールがあまり来ないのを坂本は感じていた。

 球速自体はそこそこ出ているのだが、キレや伸びがいまいちと言うべきか。

 オールスターには出場しないので、その間に疲労を抜いてもらいたい。

 ただ明日も第四戦があるので、試合展開次第では、また投げてもらう機会があるだろう。

 ここ二日は投げていないので、ひどい連投にはならないはずだ。


 そう思って坂本は、高めのコースを要求した。

 普段のアービングのボールなら、ここで空振りが取れる。 

 しかしアービングの投げたストレートは、明らかに棒球であった。

 狙い済ましたわけでもなかろうが、バッターはフルスイングしてきた。

 スタンドに届く逆転のツーランホームラン。

 武史の勝利投手の権利が、消えてしまった瞬間であった。


 ここからせめて、裏の攻撃で逆転出来ればよかったのだろう。

 だがメトロズは逆転されてから、さらに逆転しかえすというパターンではあまり勝っていないチームだ。

 序盤から圧倒的に点差をつけて勝つか、最初はリードされてもすぐに逆転していくか。

 それも打線が大介に回らないというのだから、ツキの巡りも悪いようだ。

 結局は7-8とわずか一点の差。

 大介の復帰戦は、勝利で飾ることは出来なかった。


 そして問題は、試合後に生じた。

 アービングの今日の調子は、明らかにおかしかった。

 ブルペンでのキャッチャーへのピッチングも、坂本の懸念を後押しした。

 首脳陣はアービングをチームドクターのところへと向かわせる。

 そして判明するのが、靭帯の損傷である。


 剛速球投手が肘の靭帯を痛めるのは、昨今のMLBではもはや当たり前のこととなっている。

 場合によっては高校生の時代に肘をやって、そこからトミージョンで復帰というのも全く珍しくないのだ。

 アービングの状態は、投げられないことはない、というものである。

 だが放っておいても全快はしないであろうし、少し休めてから投げても、今日のようなピッチングしか出来ないだろう。

 メトロズからするとアービングは、まだこれからを期待する新人。

 今年は確かにクローザーとしての役割が多かったが、さっさとトミージョンという命令が出た。


 主砲が帰ってきて、クローザーが抜けた。

 つくづく今年のメトロズは、選手の怪我に祟られている。

 他にクローザーが出来そうなピッチャーは、正直に言うといない。

 手術をしたワトソンが、チームに戻ってくるのはまだもう少し先の話。

 それに彼はリリーフ経験はそこそこやっているが、メジャーでのクローザーの経験はない。


 よりにもよってクローザーの不在。

 また今年のシーズン序盤のように、取られた以上に点を取っていくというスタイルでいかなければいけないのか。

 ただここは若い力の台頭を願うような余裕はない。

 幸いと言うべきか、まだトレードデッドラインには到達していない。

 他の今年は諦めるチームから、トレードで獲得するということは充分にありうるのだ。


 坂本としては、まさにこのタイミングで狙っていけるクローザーに心当たりがある。

 それはアナハイムのクローザーであるピアースだ。

 今年で契約が切れるはずの彼を、アナハイムがもし今年のポストシーズン進出を諦めたとしたら。

 選手の年俸総額で悩んでいるアナハイムは、手放す可能性は充分にある。

 以前にも組んでいたことはあるので、彼なら坂本も組みやすい。

 ただこのトレードが成立するとしたら、アナハイムは完全に今年の優勝は諦めることになる。


 そもそも打線の主力から、ターナーと樋口が抜けている時点で、坂本ならば今年のチームは諦める。

 それでも直史の投げる試合は、充分に観客を集められるだろう。

 今年はもうそれで我慢して、来年以降のターナーの復帰に合わせてチームを作る。

 あくまでも自分ならという考えであるが、アナハイムのオーナーであるモートンは、基本的に球団経営をビジネスとして考えているのだ。




 ひどい話になってきた。

 ニューヨークにやってきていたセイバーは、頭を抱えている。

 メトロズはまだいいのだ。大介はこれから回復し、ワトソンがレギュラーシーズン中に合流するだろう。

 だがそれでも、クローザーがいなければ、ポストシーズン進出も危うい。

 しかしそれは、既にポストシーズンが絶望的なチームから、トレードで獲得できるとは思うのだ。

 たとえばアナハイムのピアースとか。


 アナハイムは打線の主力の二人が抜けた。

 しかも樋口の方は、正捕手である。

 故障の具合も、これが右肩であったら選手生命の危機というレベル。

 今季の間の復帰は、絶望的である。

 実は希望を残した絶望ではなく、完全な絶望というものだ。


 一応はアナハイムのフロントにいるセイバーは、まだわずかにモートンが希望を持っているのは分かっている。

 だがここから七月の残り試合、どのような結果になるかで判断は決まるだろう。

 ターナーほど打てるバッターは、今年のトレードでは手に入れられる選手がいない。 

 それこそ直史を出すというのなら、さすがに可能だろうが。

 アナハイムは今の主力からは、誰も出すことが出来ないのだ。

 もしそれをするぐらいなら、一気にチームを解体してしまう。

 ターナー、樋口、アレクに若手を除いて、一気に放出してしまうだろう。

 まだそれが実現していないのは、直史がいれば試合には勝てる、と思われているからだ。


 単に統計だけの話なら、セイバーはもうアナハイムが、ポストシーズンに進出は不可能だと判断している。

 ただ統計というのは、実際には完全に0の数字は出ないのだ。

 もちろん残りの試合が少なくなれば少なくなるほど、その確率は100%に近くなっていく。

 なのでセイバーとしては、直史をどこかのチームにトレードさせる方が現実的だと考えている。


 メトロズがワールドシリーズまで進める可能性も、それほど高いとは言えない。

 だがワールドシリーズまで勝ち進んでくる大前提で考えるなら、ア・リーグのチャンピオンになるチームは、ある程度絞られる。

 一番いいのはミネソタだろう。強打に加えてピッチャーも駒が揃っており、隙がないチームだ。

 そして次に選ぶとしたら、ボストンであろうか。

 ボストンはセイバーの伝手があるので、上手く交渉が出来るかもしれない。

 それにボストンはプロスペクトがそれなりにいるので、アナハイムとしても来年以降のチーム編成に困らない。


 あとはラッキーズとヒューストンだろうか。

 ラッキーズは直史がいれば、ボストンを抜いて地区優勝までは出来るだろう。

 ただミネソタに勝てるかどうかは、かなり微妙なところだ。

 今年のミネソタは、110勝はしそうなペースで勝ってきている。

 去年はアナハイムにスウィープされたが、それは去年のアナハイムが歴代屈指の強さを誇ったため。

 数字だけを見ればミネソタは、今年のワールドチャンピオン候補ナンバーワン。

 しかし直史が入れば、ボストンなりラッキーズなりも、ミネソタを倒せる可能性はかなり高まるだろう。

 もしもラッキーズに来るのならば、ワールドシリーズでニューヨーク決戦となる。

 それはそれで、ニューヨークの街を大きく盛り上げることになるだろう。


 セイバーも分かっている。

 本当にいいのは、慣れ親しんだアナハイムで、メトロズとの決戦を制することだと。

 だが現実的に考えれば、その願望が成就する可能性は低い。

 主力二人を失って、アナハイムには今年で契約の切れる選手が数人いる。

 この選手を今、ポストシーズンに出られそうなチームに売り払えば、アナハイムは今年のぜいたく税を、逃れることが出来るのだ。

 ターナーと樋口が離脱した今、それが可能になっている。

 ぜいたく税の対象となるのは、九月の時点での選手の年俸総額。

 ただし故障者リスト入りしていて、その年にはもう出られない選手の分は加算されない。

 ぜいたく税は毎年加算されていくものなので、一度でもそれをリセットするのには意味がある。

 選手の獲得などはGMの仕事だが、それに対してさらに指示を与えるのがオーナーだ。

 中にはオーナーを説得するGMもいるが、今のアナハイムは優勝の可能性が薄い。

 セイバーがGMであっても、モートンを説得しようとは思わないであろう。


 直史と大介の、最後の対決。

 相応しい舞台を用意するのは、大変なセイバーであった。

 何も因縁のない、直史をトレードで出すだけの仕事。

 直史の説得という、つまらない仕事が、彼女には課されている。

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