第27話 彼のいない試合
この時期、MLBにおいては両方のリーグを合わせても、突出した勝率を誇るチームが一つだけある。
昨年はリーグチャンピオンシップで涙を呑んだミネソタである。
単純にチームの戦力だけで言うならば、トローリーズも匹敵していたかもしれない。
だがナ・リーグ西地区は、サンフランシスコとサンディエゴが、去年と同じくチーム強化に励んだオフシーズンであった。
コロラドも乱打戦になればそれなりに強く、四チームが潰し合っている。
そのためトローリーズの勝率は、六割には届かない。
東地区ではメトロズが復調してきたところに、大介の離脱である。
そして中地区は、セントルイスとミルウォーキーが上位にいるが、それほど突出した勝率ではない。
ア・リーグであれば東地区が、これまた地獄と言われているが、中地区ではミネソタが一強。
ミネソタはそうそう資金力任せのチーム作りは出来ないが、長年かけて育成した若手が、まだ今後数年は残る。
そこにFAで獲得した選手を合わせて、今年は勝負をかけてきた。
去年のメトロズとアナハイムのような、異次元の強さではない。
それにアナハイムと対戦した時は、直史に完全に抑えられてしまった。
MLB史上初となる、延長に到達しても球数が100球に届かないというパーフェクトピッチング。
そんな屈辱を食らって、アナハイムとのカードは三連敗に終わったりもした。
だがミネソタの幸運なところは、これでもう今年のアナハイムとのゲームを消化したことである。
ターナーが復帰したとして、そのアナハイムと対戦する必要がない。
七試合で三勝四敗と、負け越したことは負け越したが、他のピッチャーならそれなりに打てるのだ。
またミネソタは六月が終了した現在、ブリアンが打率とホームランで、リーグトップの数字にまでなっていた。
ホームランは調子よく飛ばしていたが、序盤はやや打率が上がらなかった。
しかし今は打率もトップであり、ホームランも30本近くまで伸ばしてきた。
打点だけはどうしても、前後の他の強打者と分け合うため、そうそう取れないタイトルになるのだ。
大介のライバルとなる、などと期待しているファンはそれなりに多かった。
だがある程度の見識があれば、それは求めすぎだと分かっていただろう。
確かにブリアンは、ホームランも打率も高い。打点もそれなりに取っている。
しかしこれは今のミネソタが、ブリアンとの勝負を避けても、あまり意味がないと思われているからだ。
五番までは30本を狙っていけそうなバッターが並ぶ。
なのでブリアン一人を、あえて避けてランナーを増やす意味が薄い。
大介の場合は、そうやってもまだ勝負を避けられるのだ。
それでも今年は、ステベンソンのおかげで勝負されることが増えた。
結果が既に41本のホームランで、ブリアンはこれにとても追いつけない。
大介が同じ年、リーグのレベルが違うという言い訳があっても、大介は試合数の少ないリーグで、67本を打っている。
引退までに果たして、四割打てるシーズンがあるかどうか。
ちょっとないだろうな、と思ってしまうブリアン。
MLBの歴史を紐解いても、彼ほどのバッターはそうはいないであろうに。
打率0.369 ホームラン28本 打点64
これにOPSは1.2オーバーと素晴らしい数字だ。
だが盗塁は10個も成功していないし、四球の数も圧倒的に違う。
MLBデビューの直前に、極東の島国からやってきたバッター。
アベレージスラッガーとも、究極のユーティリティプレイヤーというのも、間違ってはいないだろう。
ブリアンの能力は、バッティングが突出している。
だが今年、リーグのトップを走っているのは、メトロズではなくミネソタだ。
比較的新しいチームであり、資金力も特に強力というわけではない。
だがMLBの戦力均衡システムを上手く利用し、この数年で最高のチームを作ってきた。
マイナーからの見知った顔は、打線をつないでいく仲間であり、同時にライバルでもある。
フロントの整備した投手陣は、去年は強い先発を、今年はリリーフを強化した。
あとはアナハイムに勝つだけ、だと思っていた。
だがそれは誤りであった。
勝つべきはアナハイムではなく、直史であるのだ。
去年、一本だけとはいえホームランを打っていたので、勘違いしていたのだ。
ポストシーズンは圧倒された第一戦の影響から、四連敗でスウィープされた。
もっとも去年のアナハイムは、MLBの歴史を見ても、二番目に強いチームであったのかもしれないが。
そしてMLBの歴史で一番強かったであろうメトロズが、今季は不調な立ち上がりから調子を上げてきた。
ワールドシリーズの対戦相手に、相応しいと言えるだろう。
大介の離脱したメトロズは、当然ながら一番痛い状況にある。
そして二番目に痛い状況にあるのは、その大介を離脱させたトローリーズであった。
ニューヨークから逃げ出す時に、ホテルの周囲には暴徒が集まって警察が出動した。
乗っている飛行機に爆弾をしかけた、などという洒落にならない予告まであった。
まさか自分たちがテロの標的となるとは、と呆然した本多であったりする。
なお大介を故障させたプレイヤーは、ペナルティによる出場停止が明けた後も、しばらくはデッドボールの嵐を受けた。
あんなスライディングを今の時代にやるんじゃない、という無言の暴力による警告である。」
流れ弾のようなペナルティは、チームメイトにまで及んだ。
本多は時折失投するピッチャーであるが、それによるデッドボールを与えた時、一発で退場になってしまったのだ。
確かに明らかなデッドボールなどは、今では一発退場にもなる。
だが本多はそこそこ荒れた球を投げる日もあり、エルボーガードで防がれたボールは、そんなにひどい怪我にもならなかったのだ。
やはりスライディングだけではなく、その後のクロスプレイによる怪我というのは、それだけ悪質と見られたのだろう。
もっともそれがずっと続いていると、トローリーズとしても困るのだが。
こんなぎすぎすした空気の中では、乱闘も発生したりする。
明らかにトローリーズには内角攻めが多くなり、デッドボールも増える。
やったのは自分ではないので、選手にもフラストレーションが溜まる。
激烈な首位争いの中、なんとかトップを走っていたトローリーズは、この凄惨なペナルティによって失速。
西地区ではサンフランシスコが先頭に立ち、サンディエゴと二位争いをすることになった。
勝者も敗者も、結局はマイナスばかりが多いゲームとなったのだ。
七月に入ってから、メトロズはまずマイアミとの三連戦の最終戦を行う。
大介が抜けてから組んだ打線は、まだ最適な形とはなっていない。
それでも五点は取ったのだが、相手に六点取られていれば、それは負けるというものだ。
次に対戦するのは、またアウェイでのトロントとの試合となる。
この第一戦には、武史が先発する。
それ自体には特に、文句はない武史である。
だがローテを見ていれば、その次が少し問題となる。
フィラデルフィアとの試合になるのだが、ダブルヘッダーになるのだ。
移動してすぐの、ダブルヘッダーの一戦目。
日程的には中五日の登板間隔である。
だが移動してすぐの試合なので、コンディションをコントロールすることが難しそうだ。
フィラデルフィアは今年、打線だけならそこそこの強さになっている。
打線の援護が薄いであろうというのは、おおよそ確実視されている。
それでも最低限度の点は取ってくれるだろうが。
まずは目の前の試合に投げなければいけない。
トロントは現在、ア・リーグ東地区の三位である。
だがこの地区は一位から四位までが、5ゲーム差にあるという戦国時代。
ナ・リーグ西地区も3チームが争っているが、この地区は4チーム。
一人脱落している、ボルチモアはお察しの空気である。
アウェイのゲームのため、メトロズが先攻する。
大介のいた二番には、シュミットがそのまま一つ前の打席となった。
そして三番には、坂本が入っているという今の打順。
五番のラッセルまでは、かなりの打撃力を持っている。
微妙に打順については、試行錯誤を繰り返している。
ただステベンソンの一番は、固定でいいだろう。
二番打者最強論なら、バッティングのユーティリティー性を持つシュミットが二番でいい。
しかし二番で打点を取るなら、坂本などもありうるのだ。
アナハイムなどだと、アレクと樋口がいるため、ターナーが三番にいた。
バッターの能力と性質、そして揃い方で打順の最適解は変わる。
メトロズの場合は大介が、まともに勝負されたらホームランを打ってしまうので、打順としては少しでも早いほうがいい。
しかし前にランナーがいないと歩かされるため、一番にもいたものだ。
今年のホームラン数は、果たしてどこまで伸びるのかと、誰もが期待していた。
こんな形でそれが、台無しになってしまうとは思われなかったが。
どうにか八月のうちに戻ってくれば、三冠王の可能性はまだある。
規定打席に到達しなくても、その分を全て凡退と計算して、打率を出すのが現在のシステムだ。
さすがに復帰してすぐは、スペックが全快とまではいかないだろう。
大介一人に攻撃を任せるメトロズ打線ではない。
初回に一点を先制し、その裏にトロントの攻撃。
(なるほど、こういう状況だとプレッシャーを感じるんだな)
武史は感慨深い。
去年もほんの少し大介は離脱したが、それは桜の出産に合わせたものである。
武史の投げた試合ではないし、もし武史の試合であっても、そんなにプレッシャーにはならなかっただろう。
長いシーズンの中で、数試合の離脱はさほど影響はない。
だがいくら短く見ても、一ヶ月は離脱が決定した大介である。
援護が少ないと考えれば、それだけピッチャーにも余裕がなくなる。
現在のピッチャーの評価は、あくまで相手打線にどういった数字を残したかであり、勝敗は対象とはならない。
だがかといって、負けても構わないなどと考える人間は、ピッチャーには向いていない。
武史はその点、明らかに向いていないのだ。
武史もまた、防御率が1を切るピッチャーである。
また中央値であったら、1になる。
去年に比べるとやや悪化した数字になるのだが、それでも三位以降と比べて圧倒的な数字であるのは間違いない。
今年もまた、兄弟で両リーグのサイ・ヤング賞を取ってしまうのか。
ほぼそれは間違いないだろうな、とも思われている。
防御率や勝率といった点も、確かに武史は傑出している。
だが一番魅力的なのは、その奪三振能力である。
坂本は今日の武史が、投球練習の段階から、球が走っているのに気づいた。
スピン量が高く、ホップ成分の多い武史のストレート。
序盤で下手に多く使っていくと、長打になることもある。
しかし今日は、上手く指にボールがかかっているのか。
(今日は行けるがか)
坂本の直感は、よく当たるのだ。
一回の裏、バットに当てられること一球のみで、三者三振。
立ち上がりが悪いはずの武史が、その立ち上がりで好発進した。
こういう場合気をつけるのは、無意識にパワーを出してしまい、早めに電池切れになってしまうこと。
だが球数を抑えれば、九回までなら充分にもつだろう。
二回の表にメトロズは追加点がなく、二回の裏のトロントの攻撃。
先頭打者の四番に対し、最後はスプリットを使って空振り三振を奪った。
スプリットの使いどころは、いまだに武史が迷うところである。
自覚はないが、投げれば負担がかかる球ではあると言われる。
実際にトラックマンを使ったところ、肘にかかる回転がストレートや他のムービングよりも、かなり大きそうではある。
フォークほどではないが、スプリットも抜くことによって回転を抑えるボールだ。
その空気抵抗によって、失速して落ちる。
このボールを抜くという動作により、他の球種ならボールにかかる力が、肘などに返ってくる。
肘をひねることによって、この力を上手く腕全体に逃がす。
それでも肘に、負荷がかかるのは防げない。
実戦では一試合に10球ほど。
それでも100マイルオーバーのスプリットなど、他に投げられる者もいない。
そして落ちる球は、高速チェンジアップと二つ使える。
この投げ分けによって、バッターは翻弄されるというわけだ。
緩急を上手く使うことは、パワーピッチャーだからこそ重要なのだ。
二回の裏も、問題なく三者凡退。
この回も確実に一つは三振を奪っている。
三回の表からは、メトロズも打順が二巡目ともなってくる。
ただ下位打線から始まってしまうと、アウトカウントがある状態で上位に回ってしまう。
こういう時にラストバッターに、出塁率は高いバッターを置いておくのはいいことだ。
打率が二割少々であっても、出塁率が三割あればいい。
フォアボールはヒットと同じと考えるべきだ。
ここからステベンソンのヒットと、シュミットのヒットで連打となり、メトロズは一点を先取。
坂本の打球も外野にまでは飛んだが、場所が悪かった。
結局このイニング、先取点の一点のみ。
だが今シーズン武史は、完封を七回も達成している。
この先もう一点ほど取ってもらえれば、問題なく勝利出来るだろう。
またメトロズにとっては、完投してリリーフを休ませることにも意味がある。
大量得点によって余裕がある状態で、リリーフを使うのは難しくなってきた。
僅差の試合であると、勝ちパターンのピッチャーが重要になるのだ。
そんな中で、完投してピッチャーを休ませるなら、先発としては素晴らしい能力と言える。
「あ」
ちょっと力を入れすぎて、デッドボール。
このあたり、本当に残念なところである。
ランナーに二塁を踏ませない。
そう思っていたところ、なんとトロントはバントをしかけてきた。
まだ一点差で、ようやく初めてのランナーが出たところ。
まともに打ってもヒットなど出ないと、そういう判断だったのかもしれない。
武史のボールを打っても、どちらかというとゴロよりはフライになることが多い。
それを思えば、なんとしてでもランナーを進めたいというのは分かる。
だがバントをして、それでどうにかなるものでもなかろうに。
一死二塁。
三塁まで進むなら、確かに得点のパターンは莫大なものになる。
だがここから三塁盗塁が狙えるランナーではないし、ツーアウトにしてまで三塁に送ってくるか。
ここから坂本は、ある意味頭の悪いリードをする。
それは武史のボールに全てを任せるというものだ。
高めのストレートなら、まず打たれないだろう。打たれても高く上がってヒットにはならないはずだ。
低めに投げるつもりで、高めに浮いてしまうのとは違うのだ。
バッターが振ってきても、ボールの下を振ってしまう。
高めぎりぎりと、一つ外れたボール球を投げて、それで打ち取ることに成功。
ツーアウトランナー二塁だと、純粋なヒットがいる。
そしてここで武史には、低めにびたびたとストレートを投げてもらった。
内野ゴロを打たせて、一塁で素直にアウトを取る。
大介の抜けたショートは、守備専門の選手が入っている。
瞬発力は違いがあるが、体格の差があるため、そこそこしっかり守れる。
ここでしっかりとゴロを捌き、スリーアウトチェンジ。
まだトロントは一本のヒットも出ていない。
パーフェクトはともかくノーヒットノーランは、ある程度コントロールがアバウトな方が、達成しやすいという意見がある。
この説の根拠として存在するのが、MLBで通算七回のノーヒットノーランを達成した、ノーラン・ライアンである。
彼は奪三振王として有名であったが、同時にフォアボールも多いピッチャーであった。
ボール球を振らせることは、ピッチャーとしては重要な要素だ。
武史は基本的に、手元で曲がるボールを主に変化球では使う。
ナックルカーブやチェンジアップは、緩急を取るために使うものだ。
もっともこのナックルカーブやチェンジアップは、ストライクと取ってもらえないことも多い。
チェンジアップなどはど真ん中に落とせば、普通に打たれたりもする。
明らかにゾーンを通っていても、カーブはなかなかストライクにならない。
今日の武史は、序盤からストレートを主体で投げた。
ただファールを打たせるのには、やはりムービング系のボールがいい。
手元で鋭く動くボールは、組み立てによっては空振りも取れる。
もっとも武史であっても、このムービング系はミスショットでアウトを取るためのものなのだが。
初回から三者三振というのは、武史でも珍しい。
スピードは105マイル表示が出ていて、しっかり伸びている。
メトロズは淡々とアウトを積み重ねていく武史を見ながら、打線もそれを援護する。
一点を追加したのは、七回になってからであった。
そしてこの時点で、武史はヒットを許していない。
エラーも出ていない現在、出したランナーはデッドボールの一人のみ。
後から思えば惜しいことだが、ノーヒットピッチングは継続中である。
今年はまだ、一度もノーノーも達成していない武史。
当たり前だと言われるかもしれないが、去年はパーフェクト二回にノーヒットノーランを一回達成している。
今年も達成出来れば、二年連続でのノーヒッター達成。
直史は既に、三年連続でパーフェクト達成という頭のおかしなMLB記録を持っているが。
そして八回のトロントの攻撃も終わる。
残り1イニングでノーヒットノーランだが、既に武史が自分でランナーを出してしまったため、守備陣にはそれほどの緊張はない。
普通のエースクラスのピッチャーでも、やったら驚きのノーヒットノーランやパーフェクトゲーム。
だが武史はアマチュア時代から数えても、数度を達成している。
野球社会に生きながら、いまいちその中での価値観を持っていない武史。
前にもやったじゃないか、というのが武史の感覚である。
2-0で残り1イニング。
メトロズの野手陣は、思考が守備の方に寄っていってしまっている。
二点差などランナーが一人出て、ホームランを打たれたら追いつかれる点差である。
だが今日の武史の調子を見れば、その展開は現実的でないとも思ってしまう。
球数もまだ、100球に達していない。
九回の表にも、追加点はない。
そして九回の裏、トロントの最後の攻撃が始まる。
こういうところでやらかすのが、武史であるという認識が世間では大きい。
だが実際のところは、今までにも普通にノーヒットノーランは達成しているのだ。
本人も特に緊張などはしておらず、球数について確認をしたぐらい。
「さてと」
ベンチからマウンドに向かう姿に、緊張の色は全くなかった。
既に何度も達成しているのだから、別に偉業と思うこともないだろう。
それが武史の価値観である。
これがたとえば、自分が他のチームのピッチャーであり、大介のいるメトロズ相手に達成するとなれば、それはすごいなと思うのだ。
しかしトロントはバランス型のチームであり、打線の力はそれほど強くもない。
対戦して苦しい相手であれば、ラッキーズやトローリーズにサンフランシスコといったところか。
あとはアナハイムもやはり、ノーヒットノーランは難しい相手になるだろう。
野球の記録の価値を、変えてしまった人間。
それは日本においては、やはり上杉からとなるのだろう。
上杉の翌年からのドラフトは、日本代表を大量に輩出する選手が増えた。
今MLBにいる織田や本多などは、その代表であろう。
NPBでホームラン王を取った、西郷なども年代は同じだ。
そしてそのさらに一年後に、大介と直史がいるのだ。
打者の記録をことごとく塗り替えた大介。
また手も足も出ないという点では、上杉をも上回る直史。
武史はピッチャーとして大介と対戦すれば、それなりに打たれてしまっている。
またパワータイプのピッチャーとしては上杉の方が強力で、テクニカルな点では直史には絶対に及ばない。
ホームランの価値は、今でも普通に高い。
だがノーヒットノーランやパーフェクトの価値は、直史が一人で極端に下げてしまった。
いや、直史にとってのそれらが、価値を持たなくなったと言うべきか。
そういう間違った前提が、武史の中にはある。
なのでこの九回の裏、味方がエラーでランナーを出してしまっても、集中力が切れてしまうことはなかった。
そしてここから、同点のツーランを打たれるということもない。
トロントは二番バッターなので、長打も打てたのだが。
この最終回であっても、105マイルのストレートが投げられる。
武史の力は、確かにその出力にあるのだろう。
だがこの出力を、持続する力の方が凄いのかもしれない。
直史の場合は省エネのピッチングをする。
しかし武史は、球数などもあまり考えなくても、充分に最終回での最大出力で投げられる。
そんな彼の最後のボールは、ストレートではなくチェンジアップ。
17個目の三振を奪って、ゲームセットである。
デッドボール一個と、エラーによるランナーが一人。
ノーヒットノーランの達成だ。
ただ武史はいい意味で、自己肯定感が低い。
かといって低すぎるわけでもない。
今季初のノーヒットノーランであるが、他にマダックスも一度達成している。
インタビューとしては、当然ながらマイクを向けられる。
だが武史は普通に、チームの状態だけを心配する。
自分の記録よりも、チームがこの先に勝っていくことが大事だ。
なにしろメトロズは、この試合で二点しか取っていないのだから。
日本人は謙虚である、と言うのはよく言われることだ。
だがどこか根本的におかしな直史に比べると、まだ武史の凄さは分かりやすい。
九回104球で、ノーヒットノーラン。
凄いことをしているのだが、武史には自覚が薄い。
武史にとって幸いであったのは、身近にとんでもない存在がいたことだ。
なので調子に乗ることもなく、地道な練習やトレーニングが出来た。
変に自分を過信するのではなく、優れた指導者の言うことを、その通りにやる。
なのでもう大学に入る前には、完全に雛形が完成していた。
今年の武史が投げる目的は、直史と大介のためである。
二人の最後の勝負となる年、決着をつけてもらわないといけない。
二人とも自分にとっては、特別な存在である。
そして世界でも、二人にしか見えない世界があると思っていい。
これは上杉でも、干渉してはいけない部分だと思うのだ。
七月に入って、最初の試合を落としたメトロズ。
なんとか大介が復帰するまで、勝率五割は保っておきたい。
それに成功したならば、おそらくどうにかなると思うのだ。
ポストシーズンに進出すれば、先発ピッチャーの価値は高まる。
アナハイムほどではないが、圧倒的なピッチャーを保有しているのは、メトロズも同じことなのだ。
トロントとの試合が終われば、次はまたフランチャイズに戻っての連戦となる。
必要ないかもしれないが、その間に大介の見舞いにも行こうと、武史は思っていた。
大介が復帰するまで、いくら早くても数週間。
武史はその間、一つの試合も落とさないつもりで、しかもそれを当然のことだと思っていた。
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