第8話 散策し求める生活
初めて名前を呼ばれた。千春は、ニールに呼ばれたときとは違う、胸の奥底からくすぐられるような疼きを感じていた。
名もない感情にただただ困惑して、千春の時間は止まったように体が動かなくなる。目の前でレクサが手を振っても、ピクリとも動かない。
「おい、どうした? 俺は間違ったことを言ったつもりはないのだが――」
戸惑いを見せるレクサは、目線でニールに助けを求める。
「はぁ……貴方は鈍い、もしくはタラシですかね。それとも彼女が初心……とでも言っておきましょうか。どちらでも構いませんが、ご安心を。今は何も間違ったことはしていませんので」
「そうか」と納得した素振りを見せながら、「だったら何故、固まっている?」と聞く。
「それはそうですね……彼女が自らが置かれた現実を改めて実感したせいでしょうね」
「はあ……?」
全く納得していない返事をしたが、ニールの言葉は千春にとって図星であった。
勝手に婚約者という立場に立たされたのだが、面と向かって本人に言われるとこっぱずかしくなる。それが顔に、態度に現れた。
「え、えっと、その。なんでも、ないですよ! そう、何でも!」
とっさに我に帰った。ヤカンのように顔を赤く染めた千春は唐突に言うものだから、レクサはさらに訳がわからず首を傾げた。
これでは切りがない。ニールは話を戻す。
「チハルさん。糸。でしたよね。探していたものは」
「そうですっ! このカーテン、あと少しで完成だったんですけど、刺繍糸が足らなくなってしまって……」
「あいにく、その色の刺繍糸はもうなかったはずですので、日が昇ったら街へ行ってみてはいかがですか? もちろん、レクサ。貴方も一緒に」
にこやかに。そして平坦に。
ペースを崩さないニールの提案に千春だけでなく、「何故俺が」と言わんばかりの顔でレクサまでもが時間が止まるのだった。
☆☆☆☆☆
夜が明け、青空が広がった頃。千春は初めて城の外の地を踏んだ。
朝を知らせるかのように部屋にやってきたニールが用意した丈の長いシンプルな紺色のワンピースに袖を通してみれば、柔らかく包み込まれるような着心地で身体に馴染んだ。一晩経ってパサついた髪を隠すように、ヘアバンドをこしらえる。修繕の他にも使っていいと言われていたので、白い絹の生地とレースを縫い合わせて作った。
急ピッチで作ったとはいえ、悪くない出来だ。ワンピースの色ともマッチする。
その一方で、隣に立つレクサは相変わらずの鎧姿。どうやらこれが普段の格好らしい。その隣に立つ者として、恥ずかしくないように身なりだけは何とか取り繕えた。
「あのー、街はどちらに?」
せっかくのお出かけ。ファンタジーの世界における、街並みに期待していたのだが、城を出て目の前にあったのは風に吹かれれば飛ばされそうな錆びており、くすんだ色をしたトタン制の家らしきもの。ひとつやふたつではなく、ずらりと並んでいる。
信じたくはない。
ここが城下街だとは。
「これが今の街だ。瘴気の影響もあって、どこも変わりない。人だけでなく、物も朽ち果て、代用品で対応している。ほら、糸を買うのであろう? こっちだ。置いてくぞ」
「待ってください。行きます、行きます」
レクサを追いかける。街並みに似合わない鎧姿に気づいた人々がガヤガヤと騒ぎ立て始める。
どの人も、街並みと同じくすんだ服を着ていた。それどころか顔がやつれ、色も悪い。栄養失調。日本ではあまり見かけない姿に、胸を痛めた千春に、レクサが言う。
「瘴気が不作をもたらし、食料供給に影響が出ているのだ」
「ああ、理解はできました。けど、納得はしたくないですね」
「そうだろうな。俺も早く元の活気を取り戻したいと思っている」
レクサはどこか悲し気であった。
そうして二人で話しながら歩いていると、嫌でも街人の話が耳に入って来る。
「レクサ様だわ。全員の首を切った……」
「では隣は噂の――」
視線を感じる。しかし、見てはいけないような気がして聞こえていないふりをするが、気になるワードに肩が動いた。
『首を切った』
それは何を意味するのか、考えたくはない。レクサがそんなに非道な人には見えない。自分を助けてくれた人が、命を奪ったとは。
「あの者たちの話は間違っていない……幻滅したか?」
「はひっ!?」
数歩先を歩いていたレクサが足を止めて振り返った。
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