第2話 新天地の生活


「んんっ……」



 開けた視界に入るのは、汚れのない白い天井。顔の向きを変えてみれば、高そうな生地のカーテンがかかる窓から明るい光が差し込んでいる。

 千春が横になっていたのは、ふかふかの白いベッド。体が深く沈みゆき、肌触りのよい生地が優しく肌をなでる。心地よさにもう一度瞼を閉じてしまいそうになったのを、一瞬視界に映った人物の声によって止められた。


「目覚めた……だと?」


 驚いたような声をだしたのは、どこかで見覚えのある男だった。まだはっきりとしない目を細めて男を見つめる。ベッドサイドに立っている長身の男。歳は千春と変わらないぐらいか。灰色の鎧を身につけ、腰元には剣がある。そんな彼の長くて美しい白い髪から、白刃のような琥珀色の瞳が千春を捕らえた。とっさに千春は体を固くする。


「そんなことがあって……いや、理が異なるのか? それでもあの傷からの回復は一体どう理由をつける。時間か、それとも時空、治癒系の魔法?」


 男は顎に手を当てて、ぶつぶつ言い続ける。言語はわかる。だが、単語の意味が千春には理解できず、苦い顔をしたまま、体を起こす。その間にもジロジロと見られており、千春は蛇ににらまれた蛙のようになっていた。


「まあいい。後程調べるとしよう。お前、名前は?」

「い、諫早千春で――」

「変な名前だな」


 最後まで聞かず、千春の声に重なるよう男は言う。


「おい、ニール」

「はい。レクサ様」


 男の背後にもう一人、別の男がいた。黒くて整えられた短髪に糸目、同じような鎧を身につけているその人物は背筋をまっすぐに、いかにも部下というような姿勢で返事をする。


「こいつの調査はニールに一任する。一通り情報収集できたところで報告しろ」

「承知いたしました。たみにはなんと説明いたしましょう?」

「民?」

「はい。レクサ様が彼女を連れ帰る姿を多くの民が目撃しております。故に噂が立っているのです――レクサ様が婚約者を連れ帰ったと」

「ふん、くだらない。瘴気が迫っている昨今、そのような話をしている余裕などなかろう。民への説明はお前に任せる」


 呆れたように言うと、男は部屋から出て行った。千春はその背中を黙って見送ったのだが、足音が聞こえなくなったところでふと我に返る。


「えと、私は……?」


 どうしたらいいのか。そもそもここは何処なのか。助けを求めるように、残った糸目の男に聞く。


「紹介が遅れました。先ほどのお方がこのツヴィリンゲ国の王子・レクサ様です。わたくしは側近、ニールと申します」


 お見知りおきを、と丁寧に頭を下げるニールに千春もベッドの上から頭を下げた。名前を覚えるように心の中で名前を繰り返す。――白髪の王子・レクサさん。側近のニールさん。

 しかし、頭は混乱している。ツヴィリンゲ国という名前に心当たりはない。それに、二人の身なりが千春の暮らしていた世界には見ないものである。不安になる千春の気持ちを汲んでか、ニールは真面目に話す。


「現在、世界各地で瘴気しょうきと呼ばれる邪悪な空気があらゆるところから湧き出しています。瘴気を吸い込むと体が蝕まれ、すぐに治療せねば死に至ります。多数の死者を出しておりますので根源を絶つべく、レクサ様が調査していたところどうやら異界へと迷い込んでしまわれたようなのです。そこでチハル様が瘴気を帯びた魔物に襲われていたと伺っております」

「瘴気……? 魔物?」


 単語を繰り返すと、記憶が蘇る。

 疲労が貯まった体を無理矢理動かして帰宅しようとしていたところを、得体の知れない存在に襲われた記憶が。思い出せば強い不快感と吐き気がこみ上げてきて、口元を手で覆う。だが、吐けるものが何もなくてただ気持ちが悪い状態が続くのみだ。

 見かねたニールが背中をさする――なんてことはせず、糸目をぴくりとも動かさずに、間をあけて話続ける。


「魔物を倒したら瘴気に包まれた、その後貴方と共に国に戻っていた……そうおっしゃっておりました。覚えはありませんか?」

「……背中を刺された記憶なら、ありますけど。あんなの……」

「見たところ、衣服は汚れていましたが傷は塞がっておりました」

「見たんですか?!」


 千春は負傷した部位に手を当てる。痛みはない。それに着ていたはずの衣服は、くたびれたものではないことに今気づいた。病衣のようなものだった。いつの間にか着替えさせられていたのだ。となると、自分の着替えを誰かが行ったことになる。まさかニールさんが?

 慌てたのは千春だけで、ニールは表情を崩さない。何をそんなに慌てているのかわからないといったように、飄々としている。


「傷が癒える……貴方、治癒魔法は使えますか?」

「使えるわけありません! 魔法なんてファンタジーなものは」


 冷たい対応に怒ったわけじゃない。だが、理不尽な現実に苛立ったのだ。千春が少し強めに否定した目の前で、ニールは微笑を浮かべながら右手人差し指を立てる。その先には蒼く揺らめく炎があった。いつぞやのテレビCMで見たことのある姿に驚きと笑いが混み合い、気持ち悪さが飛んで奇妙な顔を浮かべる。


「はて、その表情はどう受け取ればいいのでしょう」

「……見なかったことにしてください」


 両手で頬を押さえ、顔を隠す。年甲斐もなく恥ずかしさが後からやってきていた。

 興味がないのか、面倒なことはしたくないのか、ニールは特段追求することはない。


「話を戻します。レクサ様の話からすると、貴方は別の世界の住民だと考えられます」

「なるほど?」

「レクサ様が行って戻ってきたことから、貴方も元の世界に戻ることができる可能性はあります。瘴気にのみこまれ、戻ることができれば、ですが」


 ニールはこう言いたいのだ。『元の世界に戻れるかもしれないが、死ぬ可能性もある』と。それをくみ取った千春は苦虫を嚙み潰したような顔をする。

 死にたくはない。まだまだ人生長生きしたい。だけど、生きて元の世界に戻ったとしてどうなる。仕事に追われる生活を送らなければならないのか。その生き方でいいのか。

 自分の生き方を考えると、なんとしてでも元の世界に戻りたいという気持ちはなくなっていた。


「……嫌です」

「はい?」


 千春の小さな呟きはニールに届いておらず、聞き返される。


「嫌なんです。あんなに人間らしさを失う生き方は。戻らなくていいのなら、戻りたくありません」


 まっすぐとニールを見て言いきった。出会って間もないが、その目に言葉に嘘はないととったのかニールは短く「わかりました」と言った。


「我々に協力していただけるのなら光栄です。貴方について調査すべきことがありますので」

「私にできることなら。助けてもらった身ですから」

「ご協力感謝いたします。レクサ様より、こちらの部屋を自由に使ってもらって構わないとのことなので、他に必要なものがあればお伝えください。あと……」


 千春が借りていたワンルームマンションよりも、この部屋は広い。

 ベッド、ドレッサー、クローゼットにソファーとテーブルなど一通り暮らせるようなものが揃っている。後で見て回ろうと決めた。


「ここはツヴィリンゲ国の城であり、貴方がここへ連れてこられた場面を民が見ております。なので、貴方の立場を決めておかねばなりません。そこで」

「そこで?」


 王子ということだけあって、厳しい目があるのだろう。あの冷たそうな反応をするレクサがどうやって千春を連れ帰ったのかはわからないが、見られている以上、何か関係があると疑われるのはわかる。協力すると言っているので、何を言われても受け入れるつもりだった。でも。


「レクサ様とご結婚されていることにいたしましょう」

「は?」


 とても満足そうにニールは言った。一番楽しそうで、口角を上げている。側近の発言とは思えない言葉に、戸惑いを隠せない千春は何度も「え?」と繰り返した。


「レクサ様は民への説明はわたくしに任せるとおっしゃられたので、そういうことにしておきましょう。あれだけ婚姻を否定してきたお方がやっと身を固めたとなれば、さぞかし民はお祭り騒ぎになって活気づくこと違いありません」

「そんな勝手な……」


 千春にとっても、レクサにとっても。ニールの勝手な行動で決められていいものなはずがない。だが、ニールは止まらずに言う。


「従者すら出入りが難しい城に踏み入れた以上、そうしておけば楽なんです。諦めてください」

「ええ……でも、レクサさんは――」

「ああ、大丈夫です。そういうことに関してはかなり鈍感なので。というよりも、うぶなので」


 ははは、と笑うニール。千春は彼に不信感しか抱けない。


「側近がそういうことを決めていいんです? 王子なんですよね? というか私の意見は?」

「王子です。まぎれもなく。それと幼馴染なんですよ、一応。ああ、貴方の意見は聞いてないですよ? 婚姻関係ってことにしておいた方が、彼の面白い反応が見られそうな気がしますね。ああ、楽しみです」


 想像で胸の高鳴りが止まらないかのように、ニールは満面の笑みを浮かべた。その調子を保ちながら、ニールは軽い足取りで部屋を出て行く。がちゃりと閉じた扉。残された千春からは「無茶な……」と誰にも届かない声がむなしく散っていった。

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