第1話 社畜の生活
体が鉛のように重かった。
与えられた仕事をこなす日々。ひとつでも間違えれば、さらに仕事が増えていく。加えて後輩の育成。わかるまで教えて、独り立ちできるようにしなければならない。上司の顔色を伺いつつも、悩む後輩にアドバイスをして、社外への連絡に……まさに猫の手を借りたいとはこういうことか、と
時計の針が二つ、テッペンまで来たときにやっと会社から出ると、満月が輝いていた。
今日で何徹目だったのだろうか。外の空気を吸ったのはいつ以来だろう。ふと頭をよぎったが、千春の頭は考えることを放棄した。
ブラックどころではないこの会社で働き始めてからもう、七年。入社したての頃は徹夜をこなせる体力もあったけれども、三十手前の今、そう簡単にはいかない。疲れはとれない、食欲も落ちる。髪の毛はパサパサに。肌はガサガサだ。
エナジードリンクと栄養剤、コーヒーでドーピングして、かろうじてもらえる昼休憩の間に仮眠をして。
くたびれた服。みっともない姿になってしまっているけれど、仕事を続けたことを国をあげて盛大に褒めてほしいと馬鹿気たことを想像するも、すぐに前を向いて駅へと向かう。
こんな生活を送りたかったわけじゃない。こんなはずじゃなかった。
好きだった服を着る暇もない。可愛いものに囲まれて過ごす時間もない。
やりたいこと、やりたかったことを投げ捨てて仕事の忙殺される生活で、体は重く、頭が痛い。一歩足を進めるのに、体力がかなり削られていく。それでも何とか最後の力を振り絞って、フラフラしながら歩く。
終電には間に合う。間に合わなかったらタクシーを拾ってでも、絶対帰る。その決意だけは強く持っていた。朝よりもずっと人の少ない駅前通りを歩いていたところ、綺麗な男性が千春の方へ向かってくる。
日本人離れした真っ白な髪。見上げるほどの背丈。夜の街に映える姿。一瞬見えた整った顔の男性。眉間に皺をよせつつ、速度を早めて千春の横を歩き去って行く。
その圧倒的な存在感に、足を止めて振り返り、その姿を目で追ってしまう。
社内の男性といえば、ふくよかな体型もしくは毛髪の薄い人が多い。若い世代の離職率が高いこともあって、自然と年配者が多くなっていた。そんな人々と比べれば、すれ違った男性は雲泥の差がある。もしかしたらモデルなのかもしれない。だとしたら、ラッキーだ。それだけで、枯渇していたはずなのにどこからかエネルギーが湧いてきた。
「えっ……!?」
背後からからどすっと衝撃を受けた。
続いて左の腰がひどく痛み、ドクドクと体から流れ出ていくものを感じる。
次第に視界がぐらつく。歯を食いしばっても耐えられない痛み。片膝をつき、痛みを受けた箇所に手を当てる。すると、熱い液体があふれ出ていた。
それが自分の血だとわかった直後、全身に力が入らなくなって体は地面についた。
痛い。熱い。寒い。痛い。
何が起こったのかと振り返ってみれば、そこには得体のしれない何かが月の光を遮るようにそこにいた。人間の姿をとっていない、大きく黒いヘドロのような物体が千春の背後から襲ったようである。
「嘘、でしょ――」
ただでさえ疲労で体力がない身。抗う力も、助けを求めることもできず、千春はゆっくりと瞳を閉じていく。
最後に見えた景色は、変わり映えのない月だった。
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