第9話 瞋恚の焔

 シンが牢に入れられた頃、ヨンもまたアルと共に宮中に戻っていた。

 戻る前にヨナからヨンの姿に戻っていたが自室で再び黄庁おうちょうの官吏の衣に着替え、軍部に忍び込んだ。


 軍部ではあちこちで仮面の男が牢に入れられた話が囁かれていた。

 お蔭でヨンは探りを入れるまでもなく、それらの噂話を聞いて回るだけである程度の情報が集まった。


 仮面の男がたった一人で盗賊を倒したという噂は軍部どころか宮中に広まり、仮面の男が正式に将軍になるのではと囁かれている。

 噂には尾ひれが付くもので仮面の男の強さと残忍さが誇張されていた。

 軍部が森に到着した時には既に盗賊全員が倒された後で誰も目撃していなかったにも関わらず、人の動きではなかった、鬼のように残忍に殺したと噂し、仮面の男ではなく、既に『鬼将軍』と呼ぶ者が増えていた。


 既に『将軍』と呼ばれる理由は強さだけではない。

 玄試げんしの時に将軍を一瞬の内に倒したこともあるが今回も将軍が気を失ったまま仮面の男に単身連れ帰られたことにも起因する。

 森の中で将軍の座を賭けて拳を交えた結果、またも仮面の男が勝ち、今度こそ本当にその座を手に入れたのだとあたかも事実であるかのように噂された。


 香月楼で想定していた通りのこの状況に危機感を募らせたヨンは将軍の部屋を訪ねた。

 扉を軽く叩くと「急用か?」とぞんざいな返事が返って来た。

「忙しそうなところ悪いが」とヨンが前置きをすると慌ただしく扉が開き、その場にひざまずいてこうべを垂れた。

「一介の官吏にそのような態度は不自然だ。それより中に入っても良いか?」

 その言葉で将軍は立ち上がり、「勿論です」と片手で中へ促した。


 真夜中になろうかという時刻であったが煌々こうこうと灯りがともり、部屋の中心に置かれた机の上には書物や地図が煩雑に置かれている。


「斯様な有様で申し訳ございません」

「いや、こちらが突然、しかも斯様な時刻に来たのだ。体の方は大事ないか?」

「はい。気を失うなど己の不甲斐なさに恥じ入るばかりです」

 そう顔を曇らせながらコン将軍はヨンに奥の席を勧め、自分も向かいに座った。


「早朝に軍議が開かれると聞いたが?」

「はい。今回の盗賊討伐の指示系統が通常とは違ったものでしたのでその原因究明が主ですが……」

 そこでコン将軍は歯切れが悪くなり、渋い顔をした。

「私の将軍としての資質も問われることになりまして新たに将軍を立てるか否かも協議されることになりました」

「あの仮面の男か」

「はい。あの男の強さは認めざるを得ません。常人の動きとは思えませんでした。それと……」

 言い淀むコン将軍をヨンは「構わん。気兼ねなく話せ」と言って促す。

 少し逡巡して見せたがコン将軍は意を決した様子で口を開いた。

「あの男を将軍にしてはいけません」

 そう言ってすぐ将軍は「誤解のないようにこれは自分の地位を守るために打算で申し上げる訳ではございません」と弁解した。

「分かっている。なぜそう思った?」

「盗賊を皆殺しにしたと噂されていますが全員生きていました。盗賊も私と同様、気を失っているだけで獣の血を撒いて殺したように見せかけていました。誰よりも早くあの場に辿り着き、その上手練れの盗賊達を殺さずに倒すのは不自然でしょう? それに気を失う前、あの場にまだ他に誰かがいました。近衛部の者でも軍部の者でもありません。不審な点が多すぎて……」

 コン将軍もまたヨンと同様の疑問を持っていることを知り、ヨンは将軍を訪ねた理由を明かすことにした。


「では秘密裏にあの者の素性と盗賊達がどうなったか調べてくれないか?」

「それは私より暗司部あんしぶの方が適任では?」


 暗司部とは玄庁げんちょうの部署の一つで諜報活動を主とする。

 王直属の部署であり、国内外の情報収集が活動の主である。

 全ての命令が王を通してのみ行われ、その構成員は暗司部内部でも全てを知らされていない。

 例え将軍であろうとも直接彼らに命令を下すことはできない独立した部署である。


「恐らく既に暗司部も動いていると思う。だが、私が調べていることは父にも兄にも知られたくない」

 ヨンの言葉にコン将軍は眉をひそめた。

「どちらかがあの男を引き入れたとお思いで?」

「いや、それはないと思う。だが、周りにいる者は違う。玉座とは呪いだと父が言っていた。あの座は常に血を欲して座る者を孤独にする、と。呪いに打ち勝てる者は少ない。生き残る為に兄は誰も信じなくなった。私は兄を救いたいのだ。兄の呪いを解くには兄に信用されねばならない。こうして身分を偽って嗅ぎ回る犬を誰が信じるだろうか」

「そのようなご自分を卑下する言い方は……」

「またが起こらないよう宮中の全てを知っておきたいのだ」

 ヨンが悲しそうに目を伏せるのを見て、コン将軍は「承知致しました」と答えた。


「忙しい時に悪いな。何か分かったらアルに伝えてくれ」

「部屋まで送ります」

「いや、いい。一介の官吏を将軍が送り届けてはマズイだろう? アルが迎えに来てくれる頃だ」

 そう言ってヨンが部屋を後にするとコン将軍は机上の地図に目を落とした。

 都の地図と西の森の地図。

 そこには幾つか墨で印が付けられていた。


 翌朝の軍議は黄庁おうちょうで行われることになった。

 コンが玄庁に入ってから初めてのことである。

 しかも朝議が行われる場所、つまり玉座の前である。

 軍議は通常玄庁で軍部の各部隊長以上が参加する。

 そこに王と世継ぎ、そして彼らの護衛、書司部しょしぶの書記官が黄庁から来る。

 そこで議論され、決定したことが再度黄庁で財司部ざいしぶ吏司部りしぶで吟味され、最終決定が下される。

 迅速さを求められる内容の場合は軍議にそれぞれの部の長が呼ばれることもある。

 だが、玄庁の人間が黄庁に出向くことはない。

 戦をしていた時代は朝議の場で軍議が開かれるのが常だったようだが、平時でこのようなことは一度もなかった。


 それ故、その場に集まった者達は皆困惑していた。

 理由はそれだけではない。

 玉座には気怠そうな王の姿があり、傍らには空席が二つ。

 そこには本来世継ぎの第一子のヨウと第二子のヨンが座すはずだった。

 だがそこに二人の姿はなく、書記官の席には顔に黒い頭巾を被った者が座っていた。

 その者が纏っているのは玄庁の衣で黒地に黒糸で蛇が刺繍がされている。

 つまり暗司部の者である。

 顔を隠しているとはいえ、暗司部が公の場に姿を現すのも初めてのことだった。


「まず昨日の盗賊討伐の一件について」

 全員が集まったのを見て唐突に口を開いたのはその暗司部の者だった。

 声音は低くかすれた声であったが中性的で男性のものとも女性のものとも受け取れた。

 広い室内に声を張り上げている訳でもないのによく通り、不思議と聞きやすい。

 書記官が進行役をするのも初めてのことだ。

 その場の王を除く全員がこの異様な軍議にざわめいた。


「陛下」

 堪らずコン将軍は声を上げる。

 この場の説明を求めようとしたがそれを察して暗司部の者が立ち上がって遮る。

「ご質問がおありなのは分かっております。ですが今回は議論をするつもりはありません。決まったことをお伝えするだけです」

「これは軍議ではないのですか?」

「暗司部からの報告を朝議の場をお借りして申し上げているだけです」

 その言葉で場は更に騒めいた。

「ご清聴頂けますか?」

 その一言は妙に低く場に響き、水を打ったように静まった。


「昨日の盗賊討伐の一件ですが命令系統が通常と異なったせいで危うく近衛部が全滅しかけました。おまけに都の近衛部が全て動員されたことで有事の対応ができないという事態にも陥りました。この由々しき問題が起きた原因は黄庁の官吏が賊より賄賂を貰って行ったことだと判明致しました。故にその官吏は即刻捕らえ、処分を近衛部に任せることに致しました」

 暗司部の者が話している間、静まり返っていた場が再び騒めき始めていた。

「さらにこの一件で迅速に動き、近衛部全滅を防いだ功績を立てた者が近衛部にいると聞いております。この者に褒賞として将軍の座を与えることが決定致しました」

 そこで場は大きくどよめいた。

「これにより現将軍は副将軍へ降格、我が国にはなかった軍師の階級を新たに設け、現副将軍に与えることに決定致しました。特権及び待遇は副将軍と同等と致します」

 報告は以上です、と締め括って暗司部の者がその場を退席すると動揺の声が上がった。


「陛下ッ」

 その中からコン将軍が声を張り上げた。

「此度の人事、私の不甲斐なさが招いたことで降格に不服はございません。ですが、あの者を将軍にするのはお考え直し頂けませんか。素性の分からぬ者を将軍に据えるのは部下の者も素直に従わないでしょう」

 コン将軍の訴えに王は前のめりになって見下ろした。

「誰を将軍に据えるかまだ名を明かしていないが?」

「宮中での噂は陛下のお耳にも入っているはずです。確かに噂通りあの者の武芸は抜きんでており、それだけで言えば将軍となるのも当然でしょう。ですが、本当に実力だけで将軍に据えて良いものでしょうか。軍を率いる為の資質も問うべきではないでしょうか」

「確かに将軍の言うことにも一理ある。が、それはそなたにも言えることだ。これまでの将軍は実力のみで選ばれて来た。資質を問うたことなど一度もない。それをなぜ此度は持ち出す?」

「……確たる根拠はありません。ただ、あの者の仮面から覗く目は暗く、賊と同じように見えました」

「賊と同じ、か。寝首を掻きに来たか否か確かめるのが先だと言いたいのか?」

 王の言葉にコン将軍が力強く頷くと王は玉座に背を預け、「そうなのか?」とコン将軍の背後に向かって問うた。

 全員の視線が入口の扉に向けられる。

 コン将軍も振り返るとそこには両脇を衛兵に固められたシンの姿があった。

 官服を纏っていたが襟と袖口などに金糸が使用された将軍用のものだった。


「わしの寝首を掻きに来たと言われておるがどうなのだ?」


 その場の全員の注目を浴びる中、王の真っ直ぐな視線を受け、シンは静かに口を開いた。


「そうだとすれば私はとんだ間抜けでございます。噂されて目立っては寝首など掻けましょうか」

 シンの答えに王はハハッと膝を打って笑った。

「それはそうだ。事前に計画を教えてやる刺客は普通はいない。堂々と狙いに来るならば余程の自信家か阿呆だ。お前は前者ではないのか?」

 フッと笑いを収めて冷たく睨みつける王の表情にその場が凍り付く。


「私が陛下を狙う理由は何でしょう?」

 当の本人は臆することなく平然とそう問い返した。

 無言で眉間に皺を寄せる王に更に続ける。

「堂々と狙う程の憎しみ、恨みを向けるに充分な理由が陛下におありなのでしょうか?」

「こやつっ」

 両脇にいた衛兵が鞘に収まったままの剣でシンの膝裏と首裏を小突いてその場に跪かせる。


「昔から悪いことが起こると全て王のせいにして来たからな。暴君でなくとも王の政治が悪いせいだと言われる。余の何がそなたに仮面を着けさせたのか是非とも教えてくれぬか?」

「……私にも分からないのです。何が原因で誰の所為で仮面を着けねばならなくなったのか。初めは怨みもしましたが、今は私を支えてくれた人達の為にも真相を暴くよりも私のように傷つく者が増えないようにと思って玄試を受けました。今は過去を嘆くよりも武芸に精進することで悲劇を防ぐことを糧に生きております」

 シンの言葉に王は目を細め、しばらく沈黙した後、

「コン副将軍と共に捕らえた官吏の処分を決定し、今日中に報告せよ」

 そう言って立ち上がり、騒めく朝議の場を後にした。


 残された官吏達の憶測が飛び交う中、指名されたコン副将軍は真っ直ぐに跪いたままのシンに歩み寄り、「戻るぞ」と声を掛けて部屋を出た。


 兵舎へ向かいながらコン副将軍はシンを追い出すと心に強く誓った。

 シンの仮面の向こうの目を見てそう決めたのだった。


注釈)タイトルの読み:シンイのホムラ:激しい怒り。

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