第5話

 朝は少し早めに学校に来るようにしていて、今はまだ人通りの少なく静かな時間帯。ゆっくりとしか階段を上れない身だから、人が少ないうちに上っておく作戦だ。


 朝一番に階段の前に行くといつものように体育教師の山下先生が待ってくれている。挨拶を交わすと手を借りて立ち上がりゆっくりと階段を一段ずつ進む。


 山下先生は結構勢いを付けて力一杯に持ち上げるから勢いが余ってしまいそうで少しヒヤッとする。佐野原さんがいかに丁寧だったかが身に染みて分かる瞬間だった。


「おはよう! 颯汰。昨日は悪かったな」


 背後から声を掛けられたがあえて振り返ったりはしないで,挨拶を返しながらまた一段上る。


「おはよう。健吾。良いのか? バスケの練習に行かなくて」

「行こうと思ったら颯汰を見つけたから、声を掛けてあげたんだよ」

「昨日のことは気にすんなって、ひとりになっても、問題ないよ。そんなことより健吾、朝練サボりたかっただけだろ?」


 恩を着せるような物言いの健吾だったが、俺に話し掛けていることで、周りからは健吾は不自由な俺を助けているように見える。実際は話をしているだけだが。これにより、健吾は朝練に参加できなくても仕方がないという空気が出来る。簡単に言えば利用しているらしい。


 気分が悪いと感じることはない。むしろ、どんどん利用してくれとさえ思う。俺も日頃世話になっているんだから、このくらいはなんともないし、支え合っている様に感じられる。


「だって、朝練に行ったら腹へるもん。午前の授業に支障が出る!」


 全国の部活に勤しんでいる学生に謝罪をするべきなのではないだろうか。腹が減るからと言って朝練をサボっていたら、殆どの人が部活からいなくなる。それに、健吾はサボったりしているくせに本番では周りの部員の3倍は活躍しているのだとか。

天才肌のこの男は自分では周りと違うことを理解していないようで「たまたまうまくいっただけ」と言って、自慢したり、鼻にかけたりすることは一切しないから人気者である。


「まぁ、好きにして良いんじゃないか? ただ試合に負けても俺の所為にするなよ」

「しないよ。それに負けて悔しがるほど、俺は本気でやってないから」

「そうかい」


 健吾は小さく息を吐いて笑い、俺の前に立ち止まってしゃがんだ。


「ちょっと聞きたいことがあるから、早く行こうぜ」


 それは急いでいるときにのみ許される行為だ。自分でできることは自分でやるという心の中にある掟を破ってしまうことだから、普段は絶対に断るが、健吾は一度決めたら基本的に折れることはないから、諦めて2階までおんぶして貰う。


「それで聞きたいことってなんだよ」


 机に教科書やノートを押し込みながら、前の席に座っている健吾に急がせた理由を問いかける。


「そうそう、今朝聞いたんだけどさ、昨日の放課後は山ちゃんいなかったんだろ?」


 振り向いてニヤけているから、言いたいことはなんとなく理解出来たが、ほんの少しだけの希望を持って続きを聞くことにした。


「じゃあ、あれだな。さては高ちゃんにお願いしたなぁ~!」


 期待を裏切らない反応に大きくため息が出てしまう。首を横に振って、違うと伝えているのに一向に聞き入れてはくれず、暴走はどんどん加速していく。


「高ちゃんの胸はでっかいからな。ちょっとバランスを崩したふりをして飛び込んだら最高だろうな? お前……。やったのか?」


 この暴走はそう簡単に止めることが出来ない。可能な人物はひとりだけだから、その救世主が来るまではなんとなくで話を誤魔化す。


「健吾が想像しているようなことにはなってない!お前そろそろいい加減正気に戻った方が良いって!」

「なんでそんなに隠そうとしているんだよ。大丈夫だって、俺しか聞いていないんだから、で? どうだった」

「それ以上は辞めておけって、俺はお前を思って言っているんだって」


 暴走すると視野が狭くなるのは仕方がないが、友達の忠告ぐらいは聞いても良いと思う。今の俺の言葉が最終警告だった。そこで辞めていれば、傷は浅かったかもしれない。


「そういうのはいいの! 俺が聞きたいのは、高ちゃんのおっぱ……痛ってええええええええええ」


 突然の痛みにもだえて言葉を続けることは出来なかったらしい、頭をさすってたんこぶが出来ていないかをチェックし始めた。


「おはよう。春宮君」


 健吾の頭に強烈のチョップを振り下ろしながら、いつものように大人びた笑顔で挨拶をしている志田さん。この人が唯一健吾の暴走を止めることが出来る。いつもこんなふうに制裁を食らっているのに、なぜ健吾は学習できないのだろうか……。


「志田さん。おはよう。朝から健吾を止めてくれてありがとう」

「こちらこそ、いつもごめんね。このアホが暴走ばっかりして」


 頭に衝撃を受けた張本人はすぐに状況を理解したみたいだが、特に慌てた様子もなくいつもの日常という感じだった。


「一葉。おはよう! 朝っぱらから叩くこともないだろ」

「それは健吾が悪いよね。また、高橋先生の胸の話をしようとしていたんでしょう?」

「いや、それは、颯汰が本当に高ちゃんにお願いしていないかをチェックしようとしただけだよ」


 ずっと違うと言っているのに聞いてくれなかったくせに、志田さんが現れた瞬間に冷静になり始めた。


「だから、何回も言っているだろう。高橋先生にはお願いしてないよ」

「じゃあ、誰に手を借りたんだ?」


 それを聞かれることは明白だったが、出来れば言いたくは無かった。志田さんは大丈夫だと思うが健吾は確実に騒ぐ。それはもう盛大に。


 ただ言わないという選択肢も存在していないみたいで、志田さんまでも少し興味ありげに答えるのを待っていた。


「佐野原さんだよ」


 多くは話たくはなかったから、2人には名前だけを伝えると、俺の机は大きく揺れた。健吾が驚いて足をぶつけたことが原因だ。


「おいおい! 颯汰さ。佐野原結美がうちのクラスでなんて呼ばれているか知っているのか? 」

「いや、知らないよ。知っているわけないじゃん」


 ついこの間まで名前も知らなかったんだから、渾名なんて知っているはずがない。


「『孤高のプリンセス』って呼ばれてるの。佐野原さんは凄く社交的で周りの生徒にもすごく気を遣っている。入試もトップだったって噂。運動神経は抜群でいろんな部からの勧誘を受けるほど。それに、あの明るい性格と容姿。プリンセスと呼ばれることも納得できるでしょう?」


 健吾が自慢げに話そうとしていた内容を志田さんが代わりに教えてくれた。昨日本人が言っていたことと今聞いたことは殆どが一致していたから納得がいったが、『孤高』がついているのは分からない。


「でも、孤高という感じはしなかったけど」


 首を傾げて志田さんに伝えると、彼女は頷いてから続ける。


「佐野原さんは学校やクラスでは普通。でも、授業が終われば、そうではなくなるの。いくら遊びに誘っても、部活の勧誘をしても、100%拒否して全力で下校。放課後に彼女を校内で見つけることは難しい。そんな彼女はきっと私達には想像も出来ないような高みにいる。そんなことを誰かが言って付いたのが『孤高』なんだって」


 適当にできるだけ興味がない素振りの相づちを打つ。昨日聞いてしまった佐野原さんの家庭事情を考えると『孤高』なんて付けられるのは、きっと望んでいるものではないのではないだろうか。それでも、佐野原さんは周りに本当のことを伝えていないなら、他人が余計なことを吹聴することは間違っているだろうから、何も言わないで黙っていた。


「佐野原ってあんまりさ、積極的に放課後、周りと関わるやつじゃないから、ちょっと意外だよな。日直の仕事があったら少し残るらしいけれど、それもすぐ終わらせて帰るし、この前、女子グループに「5分だけ話そう」って言われても、逃げるようにして帰って行ったし」

「健吾は随分と佐野原さんに詳しいみたいね……」


 声のトーンが一段低くなった志田さんに気が付いていない健吾は自慢げに語り出す。


「クラスメイトの動向はバッチリ把握しているぜ!」

「はぁ、それさ、ラインを超えたらストーカーだからね……。自分の彼氏がストーカーとか、最悪だから辞めてよね」

「はいはい、大丈夫だって、そこまで踏み込んではいないから」


 健吾のことだから、大きな問題になるようなことはないだろうけれど、志田さんは不安で仕方がないだろうと思う。でも、幾ら止めたところで健吾が素直に辞めるとは思えないから、そこに関しては諦めるしかない。良いやつではあるから本当に人が嫌がることはしないはずだ。


 そろそろ生徒達も教室に集まりだし賑わい始めてきた。俺達3人のグループ以外も集まってホームルームまでの時間を潰しているらしい。


「ところで、これ重要なんだけれど、佐野原はさ。上手だったか?」

「……」

「……」


 この質問に他意がないことは分かってはいるが、健吾の口調と表情がどうにもいやらしくて思わず無言になった。志田さんも同じことを思っているのか、怒ることも出来ないらしい。


「だからさ! お前のことを立たせるの上手かったか聞いてるの! 」

「お前さ! わざとやってるだろ!」


 他意はないと思っていたがあれは間違いだったらしい。恥ずかしさに任せて声を大きくすると健吾はさらに笑みを深くして顔を近づけてくる。


「どうした? 俺は佐野原の介助が上手かったかを聞いただけだぞ? それ以上に深い意味なんてないよ」


 完全にしてやったりの表情を浮かべている健吾を見ているとイラッとしてしまうが、大げさに反応してしまった時点で俺の負けは決まっていた。どうしようもない苛立ちを抱えていたが、救世主が手を差し伸べてくれた。というより、振り下ろした。


「また、そうやって春宮君をからかうのはやめなさい」

「痛いな。いいんだよ。颯汰にはちょっと免疫を付けて貰う必要があるんだって、このくらいのネタで赤面されてたら将来が不安だ」


 そんな心配をされる意味が分からない。俺だってTPOをわきまえてくれていれば、過剰に反応をすることはない。さすがに志田さんの前で悪乗りするほど肝は据わっていない。


「ところで、春宮は基本的に同性にしか、お願いしないじゃん。私が手を貸そうかって聞いても絶対拒否るじゃん。どういう風の吹き回し?」


 不思議そうに首を傾げているが、そもそも、介助を異性に頼むことなんてあり得ない。例え仲が良い異性でも、お願いをするのは恐すぎる。だったら、同性の人にお願いしに行く。身内であれば状況によるけれど。


 どうして昨日は佐野原さんに頼ってしまったかと言われれば……。


「ほぼ無理矢理? 」

「何言ってんの? 妄想の産物か?」


 痛い人を見るかのような視線がとても刺さったが、自分自身理解出来ていないのだから、こうやって伝えるしかなかった。ただこのまま痛い人扱いされるのは嫌なので、昨日の流れを説明した。


「というわけで、佐野原さんの動きは素人ではなかった」

「颯汰、その発言に他意はないよな?」

「あるわけないだろ」


 健吾はつまらなそうにため息をつく。また碌でもないことを考えているに違いない。放っておいた方が良いだろう。


 志田さんは説明によって全てが腑に落ちたようで、俺の肩を叩いた。


「良かったじゃん。健吾以外にも信用に値する相手が見つかって」


 確かに介助をして貰うのは、信用できる人にお願い出来るのはベストだが、佐野原さんにお願いすることはもうないだろう。彼女には何も返すことは出来ない。


 健吾とは双方にメリットがある支え合いの形だ。佐野原さんには一方的な迷惑にしかならない。


「そうやって、颯汰は俺のことを捨てて、今日からは佐野原にお願いするんだろう!」


 浮気を問う女のような口調で大男が迫ってくるのは恐怖でしかない。


「私の話をしているの?」


 その声に俺は上半身を捻り後ろを確認する。


 長くスラッとした脚。それは女子の平均身長を余裕で超えていることを象徴している。視線を少し上げると満面の笑みを浮かべるプリンセスがそこにいた。長く黒くつやのある髪が流れるのにも目が奪われる。きっと、誰もが見とれてしまうだろう。これは俺だけではなく。男子なら誰だってこうなる。


「おっと、噂をするとなんとやらだな。丁度、いま、佐野原の話をしていたんだよ。昨日は颯汰に手を貸したんだろう。颯汰がべた褒めで大変だったんだよ」

「それは嬉しい! 昨日は滅茶苦茶拒否されたから、私嫌われているのかと思ったよ」


 何気なく3人の輪に入ってきた佐野原さんは嬉しそうに笑っている。やっぱり、コミュニケーション能力が高いよなと思わされながら、2人のやりとりを見つめていると『孤高』という言葉はイメージが出来なかった。


「どうしたの? 春宮君。私の顔を見つめて、もしかして……。好きになっちゃった?」

「っ……!」


 完全な不意打ちだった。横から顔をのぞき込まれた瞬間。顔は火を上げそうになるほど熱くなり、慌てて佐野原さんから顔を背けた。


「颯汰には刺激が強すぎたな。こういうのにはめっぽう弱いもんなぁ」


「勿体ないことをしているぞ」とでも言いたげな健吾の顔に少しムカッとしてしまうが、何も言い返すことができない。


 そもそも俺が佐野原さんを好きになることは許されない。自分がどれだけ恋い焦がれる存在に出会っても、もう自分の好意は伝えることはない。真実を知り拒絶されることには耐えられないから。


「そうなんだ。春宮君は耐性がないんだ。じゃあ、私がこうやって絡みに来れば、いつかは耐性がつくかもね!」

「おお! 佐野原、それはとってもいい考えだ!」


 健吾と佐野原さんはふたりでよからぬことを思いついたかのような悪そうな表情を浮かべていたが、俺は熱を持った顔を冷ますのに精一杯で止めることは出来なかった。


 志田さんは一度だけ健吾の名前を小さな声で呼ぼうとしたが、途中で諦めていた。


「もうこんな時間だ! そろそろ席に行くね。じゃあ、春宮君! 今後は絡みに行くからよろしくね!」


 それだけ言い残して佐野原さんは自分の席の方へ戻っていく。途中ですれ違う生徒にもしっかりと挨拶をしながら。


 その様子をチラッと見つめるとまたすぐに視線を外す。佐野原さんの言葉を思い出すとまた顔が少し熱くなってしまう。自分でも何故こんなことになるのかは理解出来る。俺は孤高のプリンセス佐野原結美に恋をしたのだと。


「まぁダメだけれどな」


 誰にも聞こえないような小さな声で笑い飛ばすことが精一杯だった。


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