第4話

 授業は特筆する出来事は起きず、下校時間が訪れる。普段は健吾と一緒に帰っているからすぐに階段を降りて家に帰るが、昼休みに言われたように今日は久々に一緒に帰る相手はいない。


 階段を降りるためには山下先生の力を借りる必要があるのだが、山下先生は上の階のクラスを受け持っている。階段から降りて職員室に向かうところを捕まえる算段でいたから、普段より少しだけ時間を持て余していた。


 クラスメイトは少しずつ数を減らしていたが、まだ残ってこれから遊びに行く計画を立てている女子は結構いる。暇を持て余しすぎていたからか、その会話に耳は吸い寄せられた。


「これからカラオケ行くけど行く人~?」


 いかにもギャルっぽい一人がカラオケに行くことを提案しているようで、その言葉を待っていたかのように他の生徒達は食いつきだした。パッと遠くから見ると陽キャと呼ばれるタイプの人が集まっていて実に眩しいものだった。


「折角だからさ-。結美ちゃんも行くー?」


 クラスでも人気の高いチャラチャラしている男子が日直の仕事をこなしていた佐野原さんに声を掛けた。周りの女子は名指しで佐野原さんを誘ったことが面白くなかったようで一瞬表情を曇らせる。


 佐野原さんは何も気にした様子はなく、キレイにした黒板を見つめて満足そうに頷いている。そして男子の方に振り返ると笑顔で告げた。 


「無理かな。それじゃ!」


 元気にきっぱりと男子の誘いを断って、日誌を手に取り教室から飛び出していった。


 男子の方はまさか断られると思ってもいなかったんだろう。何が起きたのかを理解することに苦しんでいるようだ。それをフォローするようにカラオケを提案した女子がべったりと腕にくっついていった。木にしがみつくコアラか何かだろうか。


「マサト! いいじゃん。あんな付き合いの悪い女誘わなくても」

「そ、そうだな! 行くか、カラオケ」


 気を取り直した男子は複数の女子を周りに侍らせて帰って行った。


 一瞬にして身に纏う空気を変えて、表情まで作り上げることが出来るみたいだから、やはり女子は恐ろしい。


 いつもこの教室は一歩間違えればドロドロな争いになりそうな出来事が起きていることを知り、恐ろしいものを見てしまった気持ちになる。明らかに男子生徒をあの場にいた女子全員が奪い合っているように見えた。男子生徒は佐野原さんを狙っているようだったけれど。


 クラスメイトのことをあまり気にしたことがなかったが、こうして見ていると面白いものなんだと思う。


 新しい発見をしたところで、鞄を車いすの後ろに掛けて山下先生を捕まえに行く。

 ここに来て初めて自分の失態に気が付いた。普段はしない人間観察は俺が思っていた以上に時間を奪って行ってしまっていたようだ。


 もう数分階段の前で山下先生を待っていたが、一向に降りてくることがない。そして、一つの仮定が頭の中に生まれる。


「やべぇ、もう降りて行っちゃったか」


 最悪だ。このままでは、誰かに山下先生を呼んできて貰わなければいけない。わざわざ呼びに行って貰うのも申し訳ないし、山下先生にまたここまで来て貰うなんて迷惑だろう。


 どうして人間観察なんてしてたんだよ。少し前の自分に文句を並べたくなる気持ちが大きなため息になって溢れた。


「なにをため息なんてついてるのさ!」


 後ろから明るい元気な声が聞こえる。『落ち込んでいる場合じゃないぞ』とでもいいたげな明るい口調。流れる空気は涼しい風と一緒に爽やかな匂いも運んできた。

 

「佐野原さん? なんでこんな所に?」

「そんなの帰るからに決まってるじゃん!」

「いやでも、マサト君の誘いを断るぐらいには急いでいるんじゃ?」

「まぁ、急いでいないわけではないよ? でも、明らかに困ってそうな人を放っておく程、急いでいるわけじゃないよ」


 佐野原さんの言葉に何かが腑に落ちた。根本が優しさで出来ているんだろうと彼女が選んだ言葉から理解して、少しだけその優しさに身構えてしまう。


 急かすように困っていることを聞き出そうと近づいてくる佐野原さんに腕に力を込めて半歩分だけ車いすを後ろに下げる。


 その行動が気に入らなかったのか少しだけほっぺを膨らませて不貞腐れていた。


「そんなにあからさまに避けられると傷ついちゃうな~」

「べつに避けているわけじゃないよ。その、異性が近づいてくることになれていないから反射的に……」

「反射なら仕方ないか……。でも、傷ついたのは本当なんだよね!」


 傷ついたと言いながら表情は一切落ち込んでいる様には見えない。新しいカツアゲの派生か何かかもしれない。脳内は現状を理解するために殆どのリソースを使用している。どれだけ頑張っても金銭で解決するしか打破できる方法が思いつかない……。今晩の夕食が少し質素にはなってしまうが、許して貰うしかない。


 車いすの後ろにぶら下がっている鞄から財布を取り出そうとしたが、佐野原さんは別にカツアゲをしようとしていたわけでは無かったみたいだ。


「傷ついたからさ。なんでため息をついていたのかを教えてよ」

「え? そんなことでいいの? お金とかじゃなくて?」

「春宮君は私のこと、そんな酷いことをすると思ってるんだ。なんかそっちの方がショックだ」


 冗談を抜きにして項垂れる姿には雨の降り注ぐ幻が見えそうなほどで、本気で落ち込ませてしまったという罪悪感が生まれる。自分の考えが浅はかであることを痛感した。


「ごめん……。別に佐野原さんがそういう人だと思っていたわけじゃないんだよ」

「じゃあ、なんでため息なんてついていたの?」


 ため息の理由を言うまでは解放しないという強い意志を感じさせる声に、全てを伝えることにした。


「それってさ、現在進行形で困っているってことだよね。階段を降りないと家にも帰れないんだから」


 落ち込んだ表情はどこヘやら、いつものように元気ハツラツとしたものに変わっている。百面相か何かですか。


「まぁ、そのうち誰か先生が来るから、そうしたら、山下先生を呼んで貰うよ」


 別に急ぐ用事があるわけでもないからここでゆっくり待つつもりでいた。何時になるかは見当も付かないけれど、別に急ぐ理由もないし、待っているのは周りの人達より得意だと思っている。


「そっかー、もういない山下先生を呼び出すなんて、春宮君も結構やるねー」

「えっ?」

「「えっ?」じゃないよ。今日はもう山下先生はいないよ。さっき、職員室にいったらね、見当たらなかったんだ。山下先生に用事もあったんだけどさ」


 佐野原さんは日直の用事で職員室に行ったらしい、突きつけられた現実に慌てて別の案を探る。担任の高橋先生に頼るという案は一瞬過ったりもしたが、すぐに却下する。高橋先生はどう見ても力があるようには見えない。お互いに危険が伴うからだ。別の男性職員を呼んで貰うのがベストだろう。


 手を借りたことのない人にお願いするのは不安はある。立ち上がることが出来ればゆっくりと自分のペースで階段を降りていけばいい。とはいえ、立ち上がるための動作は相手と呼吸を合わせることが一番大切。力が強いだけでは上手くいかないこともあるし、呼吸が合わないと立ち上がるのにも時間が掛かったりする。


「おーい。春宮君! 聞いてる?」


 脳内緊急会議に夢中になっていたから佐野原さんの声を無視する形になっていた。覗き込むようにして顔を近づけてきたことで、脳内緊急会議は中止される。


「っ! びっくりした! ごめん。考え事をしてた」

「私で良ければ手を貸すよ。それなりに力はあるし」


 佐野原さんの申し出に頭の処理は追いつかなかった。同級生の異性にお願いすることではないだろう。健吾ですら、最初は誰かに付き添ってもらって立ち上がる練習をした。あれは中1の頃だったか、何度か失敗を繰り返した後に息が合うようになって、今では洋介兄さんの次に息が合う相手になってくれた。


 初めての人に手を借りるのはやっぱり不安がある。自分が怪我をする分には良い。ただ、もし怪我をさせてしまったら申し訳ないし、相手を精神的に傷つけてしまう可能性がある。だから、佐野原さんにお願いすることはできない。


「いや、さすがに慣れていない人にお願いするのは危ないからさ」

「ああ、そういうことか! だったら安心しても良いと思うよ? 得意なんだよね。立ち上がるのを手伝ったりはしてきたから。たぶんそこら辺の素人よりは安全だと思うけれど」

「でも……」


 佐野原さんの言うことが本当だとしても躊躇はしてしまう。これは危険だとか安全だとか、そんな問題じゃない。それはもう滅茶苦茶恥ずかしい。異性に対する耐性が皆無な俺にはレベルが高すぎる。ちょっと近づかれただけで顔が沸騰しそうになるのに。


「いいから! 恥ずかしいとか思っているんでしょう? じゃあ、目を瞑ってても良いから。私のことを野村君だと思って飛び込んできて」


 佐野原さんは俺の前に立ち、両腕を差し出してくれている。健吾だと思えといわれた所で無理だ。


「上手くいかなそうだったら辞めるから、安心してね?」


 佐野原さんはそう言って、少し腰を低くする。その動きを見るだけで彼女の言葉通りに慣れを感じ取ることが出来た。


 小さく優しい笑みが姿勢を低くしたことによって、先程よりも近くに見える。佐野原さんは誰が見ても可愛いと頷いてしまう容姿にクラスでは明るく天真爛漫な人だ。


 健吾が以前そんな風に評価していたことをなんとなく思い出し、それは間違いじゃない。ただそれは言葉で聞いた想像の産物。改めて目の前でそれを認識したとき。自分の心で初めて言語化された。『滅茶苦茶可愛い』


 そんなことを考えている内に半ば強引に俺の脇の下に佐野原さんは腕を通してくる。その動作があまりにも自然だったからか。車いすの足台から足を下ろし、体を前屈みにしていた。


 その瞬間、今日一番に佐野原さんに接近していた。肩の辺りに顔が近づいていて、呼吸をするとフローラルな香りが鼻腔を擽ってくる。目を瞑っていても良いと言っていたが、さすがに恐いから目は閉じられなかった。それが正しかったのかは分からない。

 

「それじゃあ、『せーの」でいい?」

「う、うん」


 もの凄くぎこちない返事しか返せないほどに、自分の体は緊張していた。佐野原さんは完璧な対応で手を貸してくれている。手際の良さは健吾を上回っているかもしれない。


「せーの!」


 佐野原さんがかけ声に合わせて、体を全身の力を使って持ち上げてくれる。それに合わせて自分もできる限り力を込める。


 自分でも驚くぐらいあっさりと立ち上がっていた。地面に両足を着けて自力でバランスを取ると、佐野原さんは支えてくれていた腕を引き抜き一歩後退した。


 息をゆっくり吐いて自慢げな笑みを浮かべている。


「ね、言ったでしょ。得意だって」


 両方の手を腰に当てて自慢げに胸を張っている。実際、佐野原さんの動きは文句の付け所のなかったし、俺とのタイミングの合わせ方も完璧で丁寧だった。素直に感謝をして、ゆっくりと階段を降りるための一歩を踏み出す。


「佐野原さん、そのごめんね。手を煩わせてさ。助かったよ」

「上手くいって良かったよ~! 春宮君は思っていたより力があったから全然楽だったよ」


 一歩を踏み出して、また一歩足を動かすがその歩調は凄く遅い。それこそ下の階に行くのに5分くらいかかるペースだ。佐野原さんはきっと心配してくれているんだろう。俺のペースに合わせて付いて来てくれる。


「その、俺に合わせてたら、時間が掛かるからさ。先に行っても大丈夫だよ」


 用事があると言っていた佐野原さんにこれ以上迷惑を掛けてはいけないという一心で、やんわりと先に帰ることを勧めた。


「いいの。ちょっと遅くなっても大丈夫だし、なんとなく、春宮君とは話をしてみたかったんだよね」


 横に並ぶ佐野原さんは足下を見つめながら、俺より一段先を降りている。どこまで、佐野原さんは優しいんだろうか? きっと今の言葉は俺に気を遣わせないように選んでくれたものなんだろう。


「そうなんだ、俺なんて何も面白いところはないよ」

「そんなことはないと思うけれどね。十分面白かったよ。さっきの照れていた表情とかね。めっちゃ顔が赤かったし」


 3段先で振り返って、お腹を抱えて思い出し笑いをする佐野原さん。俺はそんな笑う彼女に追いつくために一段を確実に進める。


 笑う表情は窓から差し込む夕日をバックにすることでなんだか煌びやかに見えて、その子と一緒に時間を過ごしていると思った瞬間。心臓を小さく締め付けられるような苦しさを覚えた


「仕方ないだろ! 俺はあんまり人と関わらないんだから。ところで、なんでさ、マサト君だっけ? あの人の誘いを拒否したの?」


 俺達のクラスにもどうやらグループ分けみたいなものが存在しているらしい。今日佐野原さんを誘っていたのはクラスで一番大きいグループだった。平穏にクラスで生きていくなら、そのグループに従っていると良いと健吾が言っていた。


 俺はどこのグループにも属していないと思っていたが、どういう訳か志田さんと健吾という周り公認グループにオマケとして認められているらしく、それなりに安全なポジションを獲得しているらしい。知らぬ間に。


「うーん。あんまりさ。周りに言ってないんだけどさ。私の家は母子家庭なんだよね。それで、遊んでいる余裕は無いの」


 背を向けて一段降りながら漏らした声音は明るいものだったが、振り返る瞬間の表情は少しゆがんでいるようにも見えた。


 なんだか触れてはいけない話題を振ってしまったみたいだ。確かに家事を親の代わりにやるとなると生半可な努力では両立は出来ないだろう。それに学業も並行するなんて、体が二つないと成立しないような気がしてくる。


 春宮家は基本できる限りの家事は俺の仕事だが、力仕事は全て洋介兄さんにお願いしている。それでも、学業と両立できるようになるまでに結構な時間を費やすことになった。全てを1人でとなると体を壊してしまっていたと思う


「なんか、ごめん。でも、佐野原さんは凄いね。俺なんてひとりじゃ何にも出来ないから、尊敬するよ」

「だって出来ないことばっかりだよ。ただ、出来ることが目立つだけ、勉強とか運動ってさ。わかりやすいじゃん。点数になったり、成功か失敗かで判別されたりするからさ。私は出来るように見せるのが得意なだけなの!」


 この場の空気を気にしてくれているのか、明るい声が響いてくる。1階に先に到着した佐野原さんはこちらの様子を伺うように振り返る。残り数段をゆっくりと降りていく。


 階段を降りた先には俺の車いすが置いてある。2階用と1階用、二台の車いすが校内には置いてある。いちいち車いすまで運んで貰うのは手間が掛かると言うことで母親が用意してくれた。


 1階用が普段から乗っている車いすで電動でも動かすことが出来るタイプのものだ。普段はあまり使わないようにしているが、坂道では重宝してくれる。


「春宮君! 車いすに座るのはひとりで出来るの? 出来ないなら手伝うよ」

「それは大丈夫。遅くなっちゃったよね。ごめん」


 1階用に用意してある車いすの存在に気が付いたのか確認してくれた。本当に慣れているんだと感心してしまう。手を貸すが自分でできることは自分でやるようにすることはとても大切なこと。それを分かっているから俺がどこまで出来るのか一つずつ確認しながら接してくれた。


「よし、ここまで来ればもう大丈夫だね! じゃあ、私は先に帰るね。バイバイ! また明日!」


 佐野原さんは俺が頷いたのを確認して、廊下を走って帰っていく。その背を視線で追いかけてしまっている自分を押さえ込み残りの階段を降りて、車いすに勢いよく腰を下ろす。


 人が殆どいない廊下で一度一息ついて先程までの状況を振り返る。自分ではどうしようもなかったから、佐野原さんの力を借りられたことはラッキーだったとしか言いようがない。だけど、思い出してしまう。あの近寄ったときの香りと温もりを。元気に話し掛けてくる声も、お腹を抱えて笑う可愛らしい表情も焼き付いてしまっていた。


 でも、俺は佐野原さんの手を煩わせるだけの存在。自分の中にどんな感情が芽生えてもそれに目を向けてはいけない。またあの時と同じようなミスをしないように。心の中で言い聞かせて、家に帰ることにする。


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