第4話

※性描写を含みます












 大紀が、ケンちゃん、と口走った。

 おそらく昔の男だろうと思った。間違えて呼ぶなんてよくある話だ。それだけ自制心をすっ飛ばせるというのが羨ましくもあった。

 大紀は己の口走った名前に動揺し、それから顔を真っ赤にして、泣きながら謝った。俺は彼が泣き出した事実の方によほど驚嘆して、何が、と突き放すような態度をとった。大紀はそのことにさらに傷ついたようだった。

「……オレの過去とか、どうでもいいですか」

「どうでもいいってことはないけど」

 汗の滴が浮いている。鎖骨を滴って、腋の下へ流れていく。匂いの濃い部位。汗腺があるのだから当たり前だ。男の汗の匂いは、他のいろんな体液と混ざってわからなくなる。生々しい性行為の最中であることを物語る独特の感覚に、五感はやや疲弊していた。感覚も消耗するのだ。過積載の情報量に惑わされて処理が遅れる。

「昔の男だったら気にしなくていい。これだけ生きてたらそういうこともあるよ」

「気にしてほしい。嫉妬して、ぐちゃぐちゃに余裕なくしてくれたら」

「嫉妬が何かの愛情の指標だと思ってるのか?」

「オレは少なくともそうだけど」

「ふぅん」

「ちょ……なん、あ、なんれっ」

 がり、と乳首に噛みつく。くだらないことを言ってないで今に集中したらいいのに、という気持ちで。ただ大紀は少なくとも、体の快楽に感情をついていかせることがうまくできなくて、辛い思いを全然逃がせていなかった。頭を撫でる。撫でる手に大紀がキスをして、汗ばんだ額を擦り当てる。愛に飢えている、という表現がこれほど似合う図を知らなかった。

「他のやつなんてどうでもいいくらい愛してるよ」

「ホントかよ、マジあてになんねえ」

「泣かないでくれ」

 そう言いながら、泣かれると結構そそる。とは言わない。

 そんなことを言った日には、きっと大紀はもっと精神的に不安定になるだろう。ざわついた心で俺に依存して、どんどん頼りなくなっていく。まるで世間の、彼に載せる評価の全てを逆に振り払うみたいに。優秀なD課程の学生である彼は、その気になればきっとこの道で食っていける。本人はまだ進路に迷っているが、旧帝大の研究者のポストがかなり真実味を帯びてくるのだ。この若さにして殆ど奇跡的と言っていい。実家の話はしないが、きっと優秀な息子を親も誇りに思っているだろう。その反動のように頼りなく、不安症で、依存癖なところがあって、どこまでも恋愛に関しては不器用な男から次第に目が離せなくなっている。季節が変わって、年が改まって、より深みに嵌っていくのが自分でもよくわかった。

 だから今更、別の男がいたからと言って、何も悔やむようなことはないのだ。そういうことだってあるだろうと軽く流すことができる。俺だって忘れられない名前の一つや二つある。ただ、俺がそれを口にした瞬間、大紀をどれだけ傷つけることになるか想像が及ばないわけではなかった。


「理人さんて結婚してたよね?」

「どっかで聞いたか」

「なんとなく? 初めてきたときはスルーしたけど、一人で住む部屋じゃないでしょここ」

 布団に包まりながら大紀が沈んだ声を出す。お前が沈んでどうする、と思う。こういうところのある男だ。俺よりも傷ついて、俺よりも感情をあらわにする。俺のことでも。俺は労うように大紀の頬に自分の頬を重ねて、大丈夫だよ、と言葉にしないまま伝える。シャワーは浴びたし、服も着ているのに、さっき終わったセックスの温度感がまだわずかに残っていた。

「別れて長いんじゃね。女っけ全然ない」

「名探偵だな」

「それっきり?」

「それきりだった」

「仕事辞めちゃったの関係ある?」

「あるかもな。全ての物事には関係が生まれる。気にしてないように見えても不調の大きな原因となっていたりする。トラウマなんて簡単なもんじゃない」

 自分たちの仕事で最も禁忌とされていたのは、「つらさ」の理由づけを一面的に行ってしまうことだ。実際はそんなに簡単に理由付けできないから、じっくり時間をかけて立ち直るのを支援する。そういう意味ではまだまだ自分の場合は治療途中と見做してもいい。心身の疲弊は実際目に見える形となって、何年も経ってから俺の生活を蝕んだ。気をつけていたはずだった。それでも急に立てなくなるし、眠れなくなる。昨今の状態は良いが、良いと思っている時に限って大きめの発作が出る。爆弾を抱えて生きているようなものだった。

 人は呆気なく死ぬ。何か恨みの矛先を設定するよりも早く、あっという間にこの世から消えて無くなることがある。学生の頃に結婚した同じ医者だった妻は、若くして不慮の死を遂げた。全く事件性のない、ただの不幸な死。少なくとも初めて「愛した」人だったし、実情として初めて己の領域の内側に招き入れた存在でもあった。そして、それ以上に俺を愛した人だった。彼女自身もこの世のすべてに愛されながら、親や弟を、俺を泣かせて旅立った。あの時にいっしょに「愛らしきもの」は死んだはずだったのだ。愛を殺すことで心もつられて壊れてしまった。愛する矛先を何一つ持てないまま、俺は十年以上をひとりで生きた。部屋すら引き払えないまま。

「忘れられない?」

「多分な」

「たぶん、って」

「あの時に好きだった気持ちはあの時のもので、今から考えたら違うのかもしれない。逆に今そうだと思うものは、あの時のそれと全く違うのかもしれない。時間が違えば、同じ個体でも違うことを考える。結論を出すのは難しいよ」

「医者のくせに文系みたいなこと言うね」

「医学部は国語の試験があるんだ」

「マジ?」

「小論文だったかな。もう忘れた」

 頭が痛くなる。痛みを和らげようとして大紀の手を借りた。大紀は俺の話を聞いて、もっと機嫌を損ねると思っていた。愛した人の話なんて聞きたくないと機嫌を損ねる気がしていた。だが、彼はあろうことか、俺の頭を優しく撫でる。拍子抜けするほど優しく。

「もっとシンプルでいいんだよ。理人さんがそうしたいと思ったらそうすればいい。したくないなら無理しなくていい」

「そうかもな」

「かも、じゃなくて。なんか、全体的にオレの声って届いてないよね? 理人さん頭いいからかな」

「保険をかけて喋るのは癖なんだよ。全部取っ払うのが怖いのかもしれない」

「もっとバカになりなよ。オレら、多分色々考えすぎ」

「考えずに愛し合ったことがない。大紀こそずっと色々考えてる」

「馬鹿じゃん。ちゃんと頭使って考えてる奴が昔の男の名前なんか呼ばないって」

「聞かせてくれ。昔の男の話」

「最低だったよ。……最低だった、マジで。別れ際」

「いい男だったんだな」

 大紀の顔を見ていたらわかる。大紀はまた顔をくしゃくしゃにして、涙を堪えるように眉間にシワを寄せたが逆効果だった。大紀はきっと、本心ではまだその男のことが好きなのだろう。わかる。わかってしまう。それを聞いて怒るどころか、信じられないほど穏やかな自分の心に少し申し訳なくなる。大紀が傾けるような熱量の心で、こいつのことを愛してやれたらよかった。それは俺の知らない心だ。知ってみたい、知ることのない熱さ。

「ヤダわ。オレが好きなヤツ、いっつも同じ笑い方する」

「本当に?」

「理人さん。オレのこと、時間かかっていいから、ちゃんと好きになって」

「もう結構好きだと思うよ、俺は」

 まだ足りないと言われるのを恐れている。恐れる程度には大紀のことを手放したくない。それは本当だ。でもこれが俺の精一杯なのだ。俺は縋るように大紀の背を抱きしめた。泥のように眠る気配がすぐそこまで忍び寄っている。もっと愛して、もっとそばにいてと言外に示されるたび、俺は何か大紀に申し訳のないような気持ちになって項垂れる。好きに際限はないし、愛は死ななかった。でも、これでいいよ、もう十分だよと言われるだけの愛情を、おそらくはずっと彼に示すことができない。寂しがりな掌が愛を求めて開かれる。その手を取る資格は、果たして俺にあるのだろうか。

「難しい話やめよ。プレゼントのこととか話そうぜ」

「クリスマスの?」

「そ、何がいいかなって」

 こういうときにウキウキと俺のことを考えて楽しめる大紀のことが好きだ。好きだが、同じ生き方が出来ない。それでいいじゃないか、いいはずなんだ。俺は自分の肩口に鼻を埋める大紀を、心の底から可愛いと思った。まるでウサギでも抱き上げるように、曇りなき心で彼の背を抱いた。



***



 佐々城理人。カードのサインをする手元を思わず凝視する。さりげなく担当販売員を交代した。普段ならあり得ないことだ。知り合いだから、と通すと部下はなんの疑問も持たなかった。嘘は言ってない。俺は飲食物の販売員に不似合いなクレジットカードを丁重に返却し、佐々城様、ともう一度呼び掛けた。佐々城さんはばつの悪そうな顔をした。ラッピング中のため、そそくさと引き上げられないのを明らかに悔いていた。

「また会いましたね」

「こういうのって職権濫用じゃないのか」

「売場販売員にはままあることです」

「本当かよ」

 半分は本当だ。ただ売場責任者が出てくることは滅多にない。僕は気まずそうにカードを引っ込める佐々城さんにクレジットカードの控えを渡して、贈り物でございますか、と再び繕った。

「メンズのフレグランス」

「客のプライベートに踏み込まないでほしい」

「差し出がましいことを申し上げますが、お使いのものは現在廃盤になっております。こちらは確かに同名の商品ですが、元の香りとは似ても似つかない」

 彼は目を見開き、それから何かを察したように不機嫌な表情を浮かべた。頭の回転が早い。何か思い当たる節があったのかもしれない。こっちだって別に喧嘩を売ったわけではないのだ。どうしてこんなみっともないことを口走ったのかは自分でもよくわからなかった。ただラッピングの済んだ品を佐々城さんが素直に受け取らなかったので、僕はそれを紙袋に入れた。時計を見る。そろそろ休憩に入る時間だった。

「お時間少々よろしいでしょうか。これから休憩に入りますので」

 佐々城さんは僕を睨んだが、あえて気付かないふりをして続ける。ラッピングしたフレグランスが、他人に渡す香水が今のものと同じかどうかなんて、ある程度の確信がないと言えないことだ。僕は単純に興味があったのだ。僕をいつまでも好きでいていいかと問うた大紀がどんな男と縁づいたのか。それが全然知らない男ならともかく、狭い世間の中で完結する滑稽さを笑いたかった。

 職場の普段は行かないフロアに有名なパーラーの支店がある。昼休みで終われる話かどうかはこの際どうでもよかった。僕は社食でも利用するみたいにそこのエリアに踏み入って、伝票は自分に、と顔見知りの責任者に託けた。

「どういうつもりです」

「深い意味はないですよ。単純に気になったんです」

「今はアルバイトの元医者がこんなところで生意気にも買い物してるのを?」

「それもあるし……その香水、使ってる男を知ってますよ。よーく知ってる」

「くだらない。もう終わった話なんだろ」

「仰る通りです。先日、もう会わないと決めたばかりで」

「じゃあ俺にも大紀にも関係ないんじゃないですか」

「そうですね。でも、あの子とあなたはうまく行かないと思いますよ。まずあなたオープンリーじゃないし」

「……そもそもゲイっていう自認すらなかったんだが」

 運ばれてきた季節限定のフレーバーソーダを傾けたのは佐々城さんだった。少なくとも話を聞こうというつもりにはなったらしい。僕はメロンソーダのクリームを溶かし、攪拌しながら大紀のことを話題にした。

「あいつは僕やあなたと違う。半端な気持ちで付き合ってやらないほうがいい」

「自分が失敗したからって随分急ですね」

「あなた既婚者だったでしょ? 大紀に言いました?」

「そもそも終わったことをいちいち恋人に開示する義務があるのか」

「それが嫌っていう人もいる。女と寝る奴なんて絶対無理だって」

「浮気してるわけじゃない。あんたは何がしたいんだ。いい歳して嫉妬か? 悪質だぞ」

「別にどうなろうが知ったことじゃないんです。でもあの子が泣くのは可哀想だ。根本的に振り向かない男に入れ込んで」

「大紀はそんなことまであんたに言ったのか」

「見りゃわかるよ……だって大紀の匂いを嗅いで探したんじゃないでしょ。ラベルと名前だけ見て、もう使ってるやつなら無難かなってプレゼントに選ぶような男、絶対あの子のことを愛してない」

「じゃああんたが」

 佐々城さんはそう言いかけて黙った。僕はなるべく、佐々城の言葉を引き出したかった。きっと大紀は躍起になってこの人から愛の言葉を引き出そうとするに違いない。報われないのに、言葉にさせたくて必死に足掻くだろう。それが可哀想と言わずに何だと言うのか。僕は攪拌しすぎて原形を留めていないクリームソーダを勢いよく吸ってから、なるべく毒気のない笑顔を作った。

「僕はあの子のことが大事でした。でもすれ違った。価値観のズレを必死で恋愛感情で修復し続けて、それでダメになった。今だって大事です。でも恋人には戻れない。戻らないほうがあの子のことを大事にできる。だからあの子には、あの子のことをちゃんと好きになる男じゃないと嫌です」

「エゴだな」

「エゴですよ。この期に及んで理論で言い負かそうとしてるあなたよりはマシです」

「恋愛なんてどうでもいい。自分自身のことすらどうでもいい。忘れてしまった、もういい年なんだ。それ以外の価値観で人を大事にしても良いはずだ」

「それは大紀を幸せにすると思いますか?」

「俺が幸せだったら大紀も幸せだろ。そういう子だって俺よりも静海さんのほうが知ってる」

 甘いクリームの裏に毒が潜んでいる。彼は僕の主治医だった。主治医は患者のことを適切に把握している。知らなければ治せないからだ。腹が立つ。胃がねじ切れそうなくらいムカついて、でも知り合いの店で粗雑な振る舞いのひとつもできない僕は非常に臆病だ。僕は重いため息を吐いて外を見た。高層型百貨店の、足元に広がる無数の路線を見た。新幹線に在来線。どこかとつながって、どこへでも行ってしまう繋がり。僕は彼にとって価値のある経由地でいたかった。それだけなのだ。

「愛以外の関わり方だってある。愛してなくても寝ることだってできる」

「世の中にそういう人がいるってだけでしょ」

「試してみてもいいよ。今日は大紀も休みだし、家に帰って実践すればいい」

「は……?!」

「体調が悪いってことにしてここから運び出そうか?」

 僕は絶句し、それから正気に帰って佐々城さんの手を払った。危うく伝票を持っていかれるところだった。僕がわずかに怒気を込めて佐々城さんを睨みつけると、冗談だ、と全然冗談を言いそうにない顔で言った。

「俺は大紀を大紀の価値観では愛してないに等しいかもしれないが、俺の価値観ではちゃんと愛してる」

「伝わらない愛なんてあってもなくても一緒ですよ」

「まだ言うか。静海さん……無理しないほうがいい。俺と同じでしょう、あなたは。誰でも愛するって……あなた診察室でそう言ってた。逆でしょう」

「何年前の話です?」

「大紀に愛されるのが怖くなった。一緒だよ、俺も同じ。あんな若くて綺麗な子が、俺のこと好きでどうしよって、そういう気持ち。それでもあなたは何年も向き合ったんだろ。あんた俺と似てるんだよ。大事にしろよ、あいつまだ生きてるんだから」

 僕は攪拌しきったソーダと取り残された。佐々城は言うだけ言って、振り返らずに店を出て行こうとする。またあのブラックカードで嫌味にもここの支払いまで持とうとする。ばか、その人に払わせるなよ。僕は慌てて会計係に詰め寄る。五階のフロアにつけといて、あと今日早退するから、とかなんとか口走った。そんなの通るはずがない。後でお叱りならいくらでも受ける。ただこの男は、今逃したら絶対、一生ここのルートに戻ってこられない。

 桜通線の乗り場に向かうエスカレーターを走る。人の波にぶつかって足止めを食らった佐々城さんは渋々振り向いて嘆息した。諦念と打算が渦巻いているような気がして、僕は余計にイライラした。

「静海さんは戻れよ。フロア仕切ってんだろ」

「……ちゃんと早退してきます」

「わかった。俺も逃げない」

 延べられた手の意味は説明するまでもない。僕は彼の手を取り、そして何かを観念した。その妙に馴染む体温は、忘れたはずの恋人の肌に似ていた。



***



 多分、足りないのは本当のことだ。

 理人さんがくれる愛情と、ケンちゃんがくれる情熱が、ちょうど半分ずつあればいいと思った。でもそんな都合の良いことが成り立つなんて望んでいなかった。恋愛に100%はない。オレだって選り好みしてる。口説かれても女にはついていかないし、男であったとしても若くて小綺麗な男を甘やかすことは出来ない。いつもそうだ。だからいつも足りなかった。足りないものを自分自身の恋愛感情で補っていた。好きなら別にいいやって。足りてないなんて贅沢言ってる場合かよって。


「大紀、わかる?」

 体の中心を奪われて揺さぶられる感覚に、上も下も見失ってしまう。尻の上の部分に毛が当たるから、わかる。ケンちゃんはそこの部分の毛が少ない。入れられてるモノなんかでわかるはずない、そこまで器用じゃないし。でも撫で方が違うから、オレの頭を撫でていくのがケンちゃんだってことはわかった。

「あぅ……」

「僕に頭撫でられたらいっちゃうんだよね。誰に抱かれててもそうなの?」

「俺も同じことしただろ」

「ああ、それは僕だけなんだ」

 手のひらの圧を頭皮が覚えていて、その強さで押されて、髪を撫でられると勝手に体が反応する。いかに強がりを言っても、どれだけ生きていくのにケンちゃんのことを体が覚えているか思い知らされる。ちょっと悦の入ったケンちゃんの声、ひさびさに聞いた。縋るようなセックスを求めていた頃には到底聞き得なかった声音だった。

 オレは自宅で論文と闘っていたのだ。そこに急に理人さんが来て、隣にいた人のことが一瞬誰かわからなくて、そんな自分に少し安心したような、失望したような気がした。わけもわかんないままベッドに連れて行かれて今このざまだ。なんで二人が一緒にいるのとか、なんでこの流れでオレは抱かれてんのとか、聞きたいことは山ほどある。山ほどあったけど、今でなくてもいい。質問はするだけ興醒めなのだ。乗ってるときの研究と同じ。理論だけで、仮説だけで押し通すべき段階もあるってことを、オレはもう知ってる。


「佐々城さん、大紀はね、僕のことが大好きなんだよ」

「知ってる」

「でもね、佐々城さんに愛されて、佐々城さんの愛が心地よくて、こんなになってる」

 理人さんがより奥を押し当てるように腰を突き出した。感覚は鈍いが、より暴かれている感覚が強くなって羞恥に身悶えてしまった。違う体に、この三年知らなかった体に、愛と恋がぐちゃぐちゃにされて全部塗り替えられてしまうみたいだった。多分それは、理人さんにとっても同じだと思う。

「あいしてる」

「ひあっ」

「すごい声だね」

「へんなこというから」

「変か?」

 おかしい。今までになかった熱は、オレの心をめためたに原型なく溶かしていく。理人さん、ケンちゃんにあてられてるのか、少しいつもと違う。オレはケンちゃんがオレを撫でる手を取って、指先を口に含んだ。いつもそれが擽ったくて嫌だってケンちゃんが言ってた指だ。頭がどうにかなりそうで歯を立てる。ケンちゃんは指の腹をオレの上顎に押し当ててゆるゆると、それこそ中を暴くみたいに揺らした。たまらない。

「大好きな男に愛されて幸せ?」

 オレは頷く。ケンちゃんとこんなに心が繋がったのも、理人さんにこれほど熱をぶつけられるのも初めてだった。オレは理人さんに穿たれながら身も世もなく極まって、太腿の下を重く濡らした。情けなくて恥ずかしいけど、やめてほしくなかった。


 理人さんはナマでなんか絶対しない。でもコンドーム越しでもそのつよさがわかってしまう。叩きつけるような律動がいちばんわかりやすくて、オレはまた身を捩った。聞いたことない音が自分の体から出てる。恥ずかしいけど、もっと溺れてみたい。己の好奇心旺盛さが嫌になる。オレはケンちゃんの指に吸い付きながら中で極まって、腰が立たなくなってベッドに倒れ込んだ。頭がおかしくなる。糸を引いた唾液がケンちゃんの指から伝ってシーツにまたシミを作った。

「抜けた」

「大紀とんじゃってるから。センセ、ちょっと休憩させてあげよ」

「は? なんで先生……」

「かわいい」

 ケンちゃんは突っ伏したオレの頬に軽いキスをして、それから脱力する理人さんにもっと深いのをかました。理人さんはコンドームを外して完全に警戒を解いていて、突然奪われた唇と、入ってきた舌に明らかに混乱していた。そのままケンちゃんは理人さんを組み敷いて、腰を押さえつけて萎えたチンコをしごく。そう、こういうとこちょっと雑で、オレは好きだけど絶対やめたほうがいい。理人さんはおっとりしてるけどプライドの高い人なので、雑に扱われたことがプライドを傷つけていたらと思うと心配になった。

「ほんとにするのか」

「大紀が嬉しそうにみてる」

「嬉しい……?」

 わからない。ただ、他の奴らだったら絶対に許容できないキスも、彼らなら何故かもっと見ていたいと思ってしまった。理人さんの生えかけのヒゲをケンちゃんが邪魔そうに押し込んでまた唇と舌を奪っていく。両方オレが知ってる味のキス。オレともしてほしい。でも今は指一本動かねえしムリ。オレは肩で息をしながら、愛しい男たちが抱き合う様を見ていた。

「佐々城さん、抱かれたことあるんだっけ。大紀?」

「……経験は浅い」

「じゃあ僕ともしてみませんか」

「ちょっと待てなんでお前、昔の患者となんて、ッ」

「いまは元患者でしょ」

 理人さんの萎えかけのをケンちゃんがなんの躊躇いもなく口に含む。理人さんは叫びそうになるのを噛み殺して耐えていたから、思わずガクガク奥歯が鳴っていた。たぶん、されたことないんだ。オレもしないし。思わず舌なめずりをする。今度、オレもしてやりたい。たぶんケンちゃんにされたから、オレも見よう見まねで近いくらいできると思う。患者って言ってた。そういうことか。混乱したままの頭がちょっとだけ落ち着き始める。変なところで点と点ってつながるもん。フラフラの頭を押さえながら、なんとかオレも体を起こした。

 理人さんの掠れた声が低く響く。オレにされる時もそう、いつもだめだって言う。理性的な人だから、自分を縛って余計に性感を高めているのかもしれない。背徳感で気持ち良くなっちゃう人。ぜったい、前の奥さんは理人さんのこんな姿、知らなかったと思う。知らせなかっただろう。可愛い人。自分の可愛さを人に見せることさえ躊躇う可愛さが、オレにここまで愛情を抱かせてるってこの人は知らない。

 理人さんは真っ赤になって何度も頷いた。恥じらうように両手で顔を覆って、もう無理だと呟く。オレと同じ。オレももう、無理。どっかおかしくなる。オレは理人さんの横まで這っていって、頬をつねって鼻に噛み付いた。まるで犬みたいだ。生えかけのヒゲが刺さって痛い。お風呂に入れてやりたい、終わったら湯を張って、お互いの体を洗って…そう思いながらケンちゃんを見上げると、許可を求めるようにオレをじっと見下ろしていた。そんなの、今更どうこうするわけないじゃん。

「ケンちゃん、オレの理人さんだから、大事にしてよね」

「もちろん」

「いやじゃないよね、理人さん」

「静海さん」

「僕も好きです、佐々城さん」

「なんで、いまそんな」

 ケンちゃんは誰とでも寝るけど、好きとは滅多に言わない。あ、ほんとに理人さんのこと好きなんだ、気に入ったんだな、と思うと心の奥がざわざわして、同じくらいオレは気持ち良くなってしまった。理人さんの手を握ったまま身を乗り出してケンちゃんにキスをする。さっき理人さんにしてたみたいに糸を引く深いやつ。理人さんの苦いのがまだ残っていて、後を追うようにぴちゃぴちゃと舌を絡めた。

「大紀」

「ケンちゃん、もっとキス」

 寂しいって言わない理人さんが可愛い。彼氏の前で別の男に突っ込まれて、告白までされて、あたふたしながら甘イキして。可愛すぎてぶっ壊したくなる。オレのことあんなに好き勝手抱いといて、別の男見てるとか、かわいすぎ。ふざけんなって思う。

「理人さんのばか。ケンちゃんが終わったらオレがめちゃくちゃにするから」

 オレはケンちゃんから離れて理人さんの横に寝転ぶ。ぎゅっと理人さんのことを抱きしめながら、耳を齧って肌を引っ掻いた。生温い。こんなのじゃ満足できないのに、とオレはだんだんイライラし始める。だらだらと、調子の悪い噴水みたいに気持ちが溢れてくる。きゅっとしまった根本はさっきより萎んでるみたいで、もう出ないっていうのももしかしたら嘘ではないかもしれない;

「大紀、うれしい?」

「ケンちゃんその顔むかつく」

「なんで」

「付き合ってるとき、そんな楽しそうに笑わなかった」

「そーかな。僕もしかしたら、見てる方が好きなのかもしれない。ふたりがしてるの、こうやって」

「馬鹿言うなって。今してるのはケンちゃんでしょ。何余裕ぶっこいてんだよ、腹立つ」

 ゴメン、と心にもない謝罪をしてケンちゃんは理人さんのいちばん奥まで穿った。刺激が強くて息ができない理人さんの腹をゆっくり摩ってやる。オレのこと抱きしめようとするけど、涙目になって動けない理人さんは可愛い。腹の奥から爆発しそうなくらい興奮した。なんならちょっと限界を何度か超えたから、ケンちゃんには絶対バレたくないと思った。

「全然余裕ないよ……理人さんよすぎだから、ほんとに」

「僕も好きだ」

 理人さんはケンちゃんに腰を揺さぶられてまた歯を食いしばった。結構、弱いのかもしれない。これも新たな発見。オレは理人さんの震える傍らでぎゅっと彼の手を握って、力が抜けるのを感じながら自分も弾けるのを堪えきれなかった。ヤバい、オレもこの中ではたしかに若い方だけど、何回こんなになるんだ。体勢が悪かったから理人さんの腰とお腹を避けきれなくて、理人さんのと混ざった。頭が悪くなりそうな気持ちよさで、耳を齧りながらふやけた声でりひとさん、と繰り返した。



「ケンちゃん、ねぇ、休まないで」

「むちゃくちゃだ、もう」

 支配的な物言いが好きなのは知ってる、この何年間もずっとやってた。でもほんとはたぶん、上位でも下位でもいいからとにかくいっぱいにされたかったんだなって、ズレたメガネの下で涙目になってるケンちゃんを見ながら思う。理人さんはさっきのお返しと言わんばかりに容赦なくケンちゃんの頭骨を揺さぶる。同じ行為なのにリードが違うと意味合いが全然変わるのが面白い。まるではじめてみたいにオレのを飲み込んで、ケンちゃんは何回も極まってた。あんなにカッコよく決めてるのに、男に抱かれてグズグズになってしまうケンちゃんもやっぱり可愛い。甘やかしてくれる年上の男なのに、抱かれるときは恥と外聞も投げ捨てて甘やかされてくれるのも、ある種の包容力と言えるかもしれない。大好きだ。やっぱり忘れられない。恋は順番じゃないんだ。都合良すぎて絶対、他の人には言えないけど、オレは理人さんもケンちゃんも大好きなんだ。選べたりしない。選べるようなものじゃない。

 どっちもずっと愛し合っていたい。同じ熱じゃなくても、同じ思いじゃなくてもいい。ただオレとこうしててほしい、オレの前でこうしててほしい。さっきケンちゃんが言ってたことも少しだけわかる気がした。

 どうせ婚姻もできない国で、オレらがどんな結論で一緒にいたって、構わないと思う。オレたちは誰かに許されてここにいるわけじゃない。だれが許さなくたっていい。こんなに満たされて、こんなに愛し合ってることが間違ってるはずない。

「静海さん、上向いて」

「あ…?」

 理人さんは逆流しないようにちゃんとケンちゃんに上を向かせる。そういうところもなんだか、理人さんらしくてかわいい。こんなに爛れたことしてるのに、なんだかひとつひとつが真面目で丁寧だ。ケンちゃんは綺麗にセットしてた髪がぐちゃぐちゃになるのも厭わず、蕩けた目元で萎えかけの理人さんに噛み付く。集中しろよ、こっちに。皮膚の表面の薄皮をつねると、暴れるみたいに足が宙を泳いだ。

「ひどいぞ、大紀」

「べつに」

「俺にはしないでくれよ」

「やんないよ、理人さん肉少ねーもん」

「僕だってべつに……」

「ケンちゃんまた。何回め?」

「……大紀、静海さんにはかなり強気だな」

「理人さんは可愛いけど、ケンちゃんはなんか、むかつく」

 後ろ手に回された腕をつかんで、がり、と整った指先を噛んでやる。それがまた良かったみたいでケンちゃんの腰がしなった。別れてからのほうがなんだか、容赦のなさでヒートアップして盛り上がってしまう。幸せになれないセフレ、しかも彼氏公認。それくらいの立ち位置が実は最適解な気がする。いいところを知り尽くしてるって便利なものだ。

 ケンちゃんはオレに貫かれながら目を閉じた。絶対抱かれ慣れてないような見た目で、実は結構ネコの経験が長い人なのだ。理人さんもゆくゆくはこうなっちゃうのかもしれない。オレだって抱かれるのはきらいじゃないけど、サービス精神が勝っちゃうことはよくある。こんなに良さそうな顔されたらオレだって、そうしてやりたくなる。たぶん、ケンちゃんはオレに対して同じことを言うのだけど。

「ケンちゃん、派手」

 前後不覚っぽいケンちゃんにキスしようとして、その口元を理人さんに奪われる。全くの不意打ちでオレはなす術もない。疲れ切ったケンちゃんもぼうっとオレらを見上げて、嫉妬してる、とふわふわした声音で言った。

「嫉妬すんの理人さん」

「……わからん」

「してるでしょ、僕にもキスしてよ大紀」

「んー」

「はい、佐々城センセに返す」

「だから先生はやめてくれって…ん」

 ケンちゃんはしっかり理人さんとキスして、びちゃびちゃ見せつけるように舌を絡めた。なんでそういう煽るようなことすんの? この大人ヤダまじで。剥き出しのお尻をもう一度たたいてやる。仕返しだ。オレの理人さんなのに。

「いったぁ、大紀DVはやめなよ、診断書書いてもらうよ」

「だから俺は今や医師免許持ってるだけのただのアルバイトだと何度」

「DVじゃなくてSMですー」

「合意のないSMはDVですー」

「やめろやめろ、いい大人だろ」

 理人さんが宥めるようにオレの頬にキスをする。甘ったるくて子どもみたいで、それでも理人さんからのキスだった。オレは舞い上がった。ばかみたいに単純。理人さんはちゃんとケンちゃんの頬にも同じようにキスをする。乱れた髪を整えてやるように、ひとふさだけ落ちた前髪を後ろに撫で付けた。その所作があんまりやさしいから、オレはやっぱりこの人のことが心の底から愛おしい、と思ったのだった。

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