第3話
食事の宅配サービスを頼んだら、持ってきたのが昔の主治医だった。
そもそも普通の医者はウーバーのバイトなどしない。普通は。心療内科医って食えるんだろうか、と受診していた時も薄ぼんやりと失礼ながら思っていたが、まさか本当にそうだとは思いもしなかった。
「は」
「あの、引取を」
「ええと……佐々城先生ですよね?」
佐々城さんは露骨に嫌な顔をした。そんな顔をするならこんなリスキーなバイトをしなければいいのに。聞いてはいけないことを聞いてこっちが悪いみたいだ。良い迷惑である。僕は佐々城から中華丼とその他色々な料理を受け取り、そして溜め息を吐いた。重い息を漏らしたのはお互い様だった。
「もう医者はやめたんで、忘れてください」
「えっ。やめるとかあるんですか」
「そりゃあるでしょ、仕事ですよ」
「そうだけど……」
自分もかつて転職を勧められた。過労がたたって心身に不調を来たし、心療内科を受診していたのだから当然と言えば当然なのだが、仕事のストレスとは裏腹に自分自身は接客の仕事が好きだったのもあって無視した。今も同じ会社、同じ店舗にいる。ただしバイヤーは外されて、今はフロアの責任者。それはどうでもいい。かつての主治医と再会したことで色々と思い出してしまって、僕は思わず佐々城を部屋に招き入れていた。
「……入っちゃったじゃないですか」
「そうですね」
「困りますよ」
「すみません。いや、懐かしくって。元気でした?」
「なぜ俺の方がカウンセリングを受けているんだ」
「僕のこと覚えてますか?」
佐々城はしばらく首を捻り、恐る恐ると言った風情で口を開いた。外来でも病棟でも腐るほど人を診るだろうことはわかっているが、覚えられていないのも腹立たしい。静海です、と名乗って壁際に追い込んだ。身長は幾分かあちらの方が高いが、体格差と言えるほどのものでもない。
「静海さん。えーと、百貨店のバイヤーの、激務の」
「バイヤーはやめました」
「やめたんですね。よかった」
「今はフロアの責任者です」
「職場を変わってないんですか?」
僕は答えなかった。答える代わりに佐々城の、小綺麗ながらも威厳のない立ち姿を見ていた。丸まった背もそうだし、厭世的な目つきもそうだ。パソコンの前で患者の話を聞いているのかいないのか、常に無表情で無機質なあの頃の主治医とは随分違って見えた。そして何より、あの頃はつけていた指輪がなくなっている。仕事柄こういうのにどうしても敏感な方で、見た目で人を判断するのは良くないことと知りながら、ここまで忌憚なくやってしまう己が少し恐ろしい。
「個人情報なので」
「いや自分で喋ってましたよね?」
「佐々城さん、指輪どうしたんですか」
佐々城さんは黙った。黙って、それから身動ぎをしなくなった。あの頃はかけていたメガネがなく、隔てるものもなく視線がかち合う。世の中を嫌っている人間の目だった。大学病院のドクターを辞めたというのはどうやら本当らしい。そして僕は、こういう世の中のことが嫌いな人間の目にとても弱い。
「個人情報です」
佐々城はそう言って帰ってしまった。あれきり。僕は中華丼を食べながら実名SNSを検索したりもしたのだが、佐々城さんのページはついぞ出てこなかった。僕は諦めて、すっかり冷めた中華丼を咀嚼したのだった。
大紀はいつもセックスの後で深く寝入る。おそらく普段が不眠症気味だから、何も考えずに快楽を貪った後くらいしか熟睡できないのだと思う。
無防備な大紀は、スマホをケーブルに充電してそのまま、通知画面にもメッセージを表示する仕様のまま変更していない。おかげで誰とメッセージをやりとりしているか丸わかりなのだ。だから見るつもりはなくても、大紀が誰の家に昨夜泊まって、何をしそびれて、次がどうなのかを全て知るところとなってしまった。
世間は広いようで狭い。それでなくとも同じ街に住んでいるので、おそらく知り合いの知り合いくらいの範囲内で全ての交友関係がつながってしまう。僕や大紀のようにセクシャルマイノリティと言われる立場の人間も昔に比べれば随分と公にその存在を認知され、政権与党がうんと言わなくても世論としてはすでにそうした人間を好奇の目で見ることが野蛮な行為だと認知されつつある。僕は女性と関係を持つこともあるし、であれば純然たるゲイというわけではなく、アクティブな行動にも全く興味がない。ゲイの団体からしてみれば最も気に食わない類の志向の持ち主だろうけど、こういうのに正解はないと思いたい。クローゼットとオープンリーが分かり合うこともなければ、トランス女性と生来の性別を重んじるミサンドリストが相容れることも難しい。主義と主義が和解するのは個人と個人が分かり合うのとは違うのだ。大紀はどちらかというとオープンでアクティブな方なので、よく僕とこういう話をしては喧嘩になっていた。しかし佐々城さんもゲイだったのか。失礼な物言いになるが、そういう風には見えなかった。ということは、彼もまたかなりクローズドだと判断していい。大紀とうまくやっていけるのだろうか。あの指輪は、てっきり既婚者だと思っていたが、違ったのだろうか?
僕は大紀と三年ほど付き合っていた。まだ彼が修士課程の学生だった頃、共通の知人を介して知り合ったのだ。大紀は年上の男性でないとだめで、僕は結婚を前提として付き合っていた女性と破局したばかりで相当参っていたので、始まりからやけに勢いづいていた。柄にもなく添い遂げるのかもしれない、と思ったりもした。だが、この年になって三年も付き合っていればわかる。人生設計や、重んじるものや、価値観の相違は時に、好意や性欲を簡単に凌駕していく。
大紀は女性を、世の中の半分を占める生き物を、己の内側に入れることを頑なに拒んだ。特に攻撃性が高いわけでもないし、誰かと実際にトラブルになったとかでもない。しかし僕を抱きながら、僕に抱かれながら、臆面なく口にする女性への忌避感情が次第に目に余るようになって、でもそれは他ならぬ大紀を育んできた人生経験、感性そのものなので、表面上の優しさで取り繕っても全く意味がない。恋人でいることを最初に断念したのは僕の方だった。大紀がどれほど傷付いたかは知っている。何せ、別れ話をしてから半年、僕らの関係は一向に進退を持たなかった。博愛主義というのでもなく、ただ女性を相手に仕事をすることの方が圧倒的に多い職業を選んだが故に、ゲイだからといって女性が全ての範疇のそとに置かれるような価値観の人間と生涯を共にすることがどうしてもうまく想像できなかった。その線引きがセクシュアリティの故にあるものだとどうしても思いたくなかった。僕は強欲だが、同時にそれ相応の美学も持ち合わせていた。男でも女でも愛するということは、男でも女でも何かの「理由」にはならない。好きな女ができた、なんて言ったら大紀が一番傷つくだろうことはわかっていたのに、都合よく理由に使う程度に僕は性悪だ。それでも何度だって大紀は食い下がった。
女の身代わりでもいいから抱いてほしい。ケンちゃんがその女とちゃんと幸せになるまでたまにこういう間柄でいてほしい。愛するって苦しいことだ。大紀にどう言ってやったら、どういう態度を突きつけてやれば正解だったのか僕もわからない。大紀のことは大事に思ってるけど、でもそれって恋愛感情かというともう違う気がする。恋愛感情を利用して性欲を解消するだけの付き合いなんて、僕がもう少し若ければ絶対に断っていただろう。歳を取るというのは心底恐ろしいことだった。
「ケンちゃん、オレ帰るわ」
「起きた? もう夜だよ、泊まってけば」
「いや。だらだらしててもいいことないし」
「荷造りする?」
「あんまモノ置いてねーから。邪魔だったら捨ててよ」
「また取りにきたら。いつでも」
「そういうのナシにして。オレもうケンちゃんには会わねーって決めた」
「そう」
愛されて満足する。愛されてることに少し安心する。そういう大紀の顔が見たくて、受け入れていたのは僕だ。
僕は大紀の頭を撫でた。大紀は少し居心地悪そうにやんわりと手を避けて、ありがと、と呟いた。こっちのセリフだと思う。ありがとう、とは何に対するありがとうなのかいっそわからなくなる。
「大紀、幸せになりな」
「かっこつけすぎじゃね?」
「カッコつけたいよ。別れ際がダサかったら永遠にダサいって思われるから」
「そうやって毎回カッコつけてきたの。クソ野郎じゃん」
「別れる男なんてクソ野郎くらいに思っといた方がいいよ。じゃあね」
カッコつけてるくせにクソ野郎、って方が嫌いになれる。大紀は何も言わずに部屋を出て行った。僕は手も振らなかった。エレベーターの前に向かって、通路を曲がる大紀の背中を見送っただけだった。
「きらいになる」、少なくともその言葉が大紀の口から出てきたのは収穫だったが、その言葉を口にした人間がかつてちゃんと「きらいになった」例は歴史上に幾つあるのだろう。あまり期待はしない方がいい。ただ、大紀の幸せを願っているのは本当だ。その役目は僕に担えるものではないが、ちゃんとした、ちゃんと彼のことを好きになってくれる男が、ふんだんに愛して初めて成り立つものだ。僕の役目じゃない。僕ではその役目に対して圧倒的に不足している。
部屋に戻って、鍵をかけてから食材が一切ないことに気づいた。外に出る気力も元気もなくて、僕は食事の代わりにタバコをゆっくりと吸った。人のくる部屋では吸えない煙を、心の奥底まで行き渡らせるようにじっくりと燻らせた。
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