第2話

 恋人ができた。

 そう言っても差し支えないと思う。多分。

 明け方、オレが目を覚ますころ、佐々城さんは無意識状態でオレの髪を撫でていた。恐る恐る、でも少し雑な所作で。うまく寝付けなくて疲れの取れてない、十一年上の人は昨日、オレが代打で入ったバイトの後で口説き倒した人だ。

 ここまでの展開は予測してなかった。いいとこ、連絡先交換してメシでも行くような仲になれたらと思ったくらい。オレは年上の男が好きで、これまで付き合ってきたのも大体年上の男ばっかりだったけど、佐々城さんは中でも最年長だった。オレは自分が歳を取るごとに、理想の「年上」を捕まえるのがどんどん難しくなっていることに気づいていた。

 いい男は大体、世の中が放っておかない。オレも男だからこういうことは言いたくないけど、男のほとんどは自分を選ぶ側だと思っていて、怠惰で傲慢で意地悪だ。そうでない男から順番に「選ばれて」いくから、一人の男はだいたい「あまりもの」である。二十代なら遊んでるとか仕事がとか言い訳できるけど、四十手前になるとそうもいかない。それだけ無防備でいられるほど、世の中は甘くない。いい人間ほど一人ではいられない。望む望まないにかかわらず。

 佐々城さんは、無防備で無垢そうに見えて、きっとすごく遊んでいる人なのだろう。そう思うとオレも焦って、なりふりかまっていられなかった。オレは佐々城さんのことを好きだと言った。それは本音だ。でもまだ恋じゃなかった。多分今もまだ、ギリギリのところで踏みとどまっている。好きだと何回も言葉にして、自分に言い聞かせている段階。本当にこの人のことを好きになった方がいいと、己を催眠状態にしようとしている。


 佐々城さんの腕の中を抜け出して、だだっ広い家の中を散策した。でも面白いものは何も見つからなかった。女の痕跡とか、使用済みのコンドームとか。コンドームがいっこもない家って、使い果たしたか縁がないかのどちらかで、佐々城さん自身は縁がないと言ってたけどオレは確実に使い果たしたんだな、と思った。そういうとこちょっとだけイライラする。隠さなくていい。別にどっちでもよかった。まだ好きになり切る前だから、引き返せる。

 オレは卓上のメモに「また連絡する」とだけ書き残して、借りたパジャマを洗濯カゴに突っ込んで家を出た。オートロックの部屋にはもう戻れない。忘れ物を意図的にしてくるような真似はできなかった。なんだかそれは、試しているみたいで嫌だと思った。水たまりを避け、地下鉄の駅に降りる前にメッセージを送ることにした。今日は平日、オレみたいな学生や佐々城さんみたいなフリーターと同じように、客商売の奴も休みの日だ。昼飯時に会いたい。会って話したいことがある。馬鹿みたいな長時間の通話履歴ばっかり並ぶトークルームに、スッと冷えたような言葉をぶつけるだけでオレは泣きそうになった。

 栄の大通りに面したスタバは、オレの職場からも相手の職場からも近くて、よく待ち合わせに使っていた。でも今日はそこじゃなくて、もっと南のエスニック料理の店にした。こっちのほうが相手の家からは近い。三週間連絡のなかった相手と会うのに、いつもの店、なんて虫が良すぎると思った。

「何食う?」

「蟹のカレー。おいしそう」

「いいね、エビとかも良さげ」

「トッピングにできるよ」

 時計が新しくなっている。眼鏡はそのままだが、タイピンも新調している。一度家に戻ってスーツを脱いできたので、思いっきり学生と知れるカジュアルな装いのオレに、思いっきりサラリーマン、しかも見た目にやたら拘ってる風の男が向かいあって、かなり状況としては変な感じだ。大人になると余計にそうだが、社会的立場というやつはまず見た目に表れるのだ。大事な話をするつもりだったのに、オレはずっと相手の時計ばかり見ていた。

「話って?」

「ああ……早速そっから行く?」

「うん」

「恋人ができた。だからもうケンちゃんとは会わない」

 大人だった。オレよりはるかに。静海建剛は、オレがそう打ち明けた言葉を、まるで大切な壊れ物でも扱うかのようにじっくりと受け止めた。反論もないし、詰る言葉もなかった。ただ淡々と、メニューを手に取りながらオレの言葉を待っていた。

「続けて。聞いてるから」

「……怒らねえの」

「なんで怒るの。大紀に恋人ができたんでしょ。ものすごくいいことだよ、それは」

 じわ、と心の周縁を砂糖菓子みたいに溶かす声。オレはこの声に弱かった。メニューを閉じて、ケンちゃんは微笑んだ。ギラギラしてる時計は多分、店で扱ってる商品だ。自分自身が広告塔で、自分も愛用してるからどうですかって薦める手法。主観に寄り添うのがこの人の仕事だ。そうやって出世して今の地位がある。仕事みたいに接して欲しくなかった。でも仕事みたいに、仕事以外でもオレのことを甘やかすケンちゃんのことが、たまらなく大好きだったのはオレの方だ。

「よかったね。おめでとう」

「引き止めてもいいんだよ」

「ばかだね。会わないんでしょ、もう。その人のこと好きになった?」

「なれそうな気がするんだよ」

「じゃあ、僕に会ってちゃダメじゃない」

 そう言いながらケンちゃんはオレの指をなぞった。関節の部分を撫であげて、爪先をギュッと掴んだ。好きな触り方。本当は、いろんなとこ触られるより、手とか指とか、そこだけでいい。オレの搦手を知っているケンちゃん。大好きだった人。今はもう誰のものでもない、一人を選んだ大人の男がオレのことをめちゃくちゃ大事そうに見ている。泣きそうだ、と思った時には遅かった。木製のテーブルに大粒の涙がぼたぼた落ちた。

「っ、も、ダメ……ダメだって、オレ、ケンちゃんのこと好きでいたら、ダメって」

「うん」

「あの人のこと、好きになるから……ちゃんとケンちゃんのこと忘れるから、嫌いになるから、会わない」

 会わない。決めたことだ。恋人ができたから、もう会わない。ちゃんと好きになれそうな人を好きになる。好きになって、幸せになるのだ。

 なのにどうしてこんなに涙が出るのか、自分でもよくわからなかった。オレは注文を取りに来る店員の前でもだばだば泣いて、ケンちゃんが代わりに注文を済ませてくれた。蟹のクリームカレーにエビをトッピングして。海鮮が好きなオレの好みをドンピシャで当ててくる、サービス精神の塊みたいな人だった。オレはこの人のことが大好きだった。好きすぎて、自分ばかり好きになっていることに気付くのに時間がかかった。

「大紀。ご飯食べ終わったら、家まで送っていくよ」

「いい……オレ本当、頭ぐちゃぐちゃで、何するかわかんねえよ」

「いいよ」

「また、ケンちゃんのこと、無理やりするかも」

「今日はそのつもりで来てるから」

 ケンちゃんは俯いたオレの髪を優しく撫でた。強すぎない、弱すぎない、オレが好きな力加減で。最後だ、きっとこれが最後なんだ。オレの初めての男で、心以外の全部をくれた男は、相変わらず心以外の何でも、惜しみなくオレにくれる。

 佐々城さんのことをちゃんと好きになる前に、裏切る前に、オレはケンちゃんを忘れたかった。最後のセックスは思いっきりしょぼくして、今度こそ幻滅して、心の底からこの人のことを忘れ去りたかった。誰のものでもないめちゃくちゃ遊んでる男。佐々城さんとは違って、全然隠さないそれもまた、言いようによっては誠意と言えるのかも知れなかった。

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