Alternativ; Tri

juno/ミノイ ユノ

第1話



 三十九回目の誕生日は、恋人の腕の中で迎えた。初めてのことだった。

 シーツに涎が垂れる。頬に伝うのが冷たくて、ティッシュを取ろうと腕を伸ばしたら掌を掴まれる。図体がでかいわけでもないのに、やたら体の使い方がうまい男だった。俺は自由を制されて、抜け出そうとしたのではない旨を伝えるのも億劫になり、再び脱力した。

「オレが取ってあげる」

「口周りが……」

「わ、すご」

 いちいちコメントしないでほしい。涎の垂れた口の端を恋人は丹念に拭い、ついでにキスしていった。これはセックスの後の気の利いたピロートーク。嚥下障害の治療中では決してない。

「ひげが生えてる」

「いいから」

「ええなんで? 可愛い」

「可愛くないよ」

「理人さんうそつきだね」

 うそつき。心底嬉しそうに、大紀は呟いた。恋人に嘘をつかれるのはそんなに嬉しいことなのだろうか。恋人、の項目にあるものがあまりに少ないせいでよくわからないが、大紀が幸せそうなので自分は彼のされるがままになっていた。大紀は口のついでに耳や首の筋肉まで余すところなく触って、きれいだと言った。おそらくこの男にかかれば、俺の全てを指して何かと褒めちぎるに違いない。

「理人さん好き」

「ん」

「オレもって言ってよ」

「俺も大紀のこと好きだよ」

 好きだと思っている。でも、俺はいつも大紀に先を越される。大紀が先に俺のことを好きだと言うものだから、好きって言って、とねだらせることになる。誠意がない行為だとわかっていた。先に好きだと言ってやることが上手なら、こいつにこんな顔はさせなかった。

「理人、理人さぁん」

「重いな」

「マジ? ほんと最近運動不足なの、わーってんの」

「研究室と仕事が忙しいんだろ」

「それもあるけど、ジム解約しちゃったからさ」

 こっから太る一方かなあ。二十代の若者にとって、肥え太ることはどこか絵空事だろうに妙に真剣な声音がおかしかった。俺は宥めるように大紀の頭を撫でて、大丈夫だよ、と言おうとしたが、なんだかそう口にした方が空虚な気がしてやめた。何も言わずに、柔らかい髪を撫で続けていた。




 三十九歳の俺と、二十八歳の恋人。本来なら同じ世界の住人ではない。

 大学院で研究を続ける安浜大紀と、しがないアルバイトである俺が出会ったのは、友人の代行で大紀がうちのバイト先にヘルプで入った時のことだった。ひどい雨の夜、その日のシフトに入っていた学生がバイク事故を起こした。当然出勤に間に合わない。シフトに穴を開けるわけにいかないからと代理で寄越したのが大紀だった。聞けばその学生の知る、最も暇で最も信用のおける人間ということだった。

「安浜くん経験は?」

「バイトとしては初めてですが、大学でたまに指導してます」

「学生指導?」

「理系科目なら多分大丈夫です」

 言葉に嘘はなかった。大紀は実に優秀で、このままうちに入ってほしいと教室長がこぼしたくらいだった。薄く茶色がかった前髪を清潔に流し、サイドを短くした今風の髪型がよく似合っていたが、スーツはいかにも普段着慣れていなさそうな若者だった。雨も上がった退勤後、俺は大紀を夕食に誘った。深夜までやってるチェーンのラーメン屋で、レギュラーでなくてもいいから職場に籍を置いてほしいと打診した。

「めっちゃぐいぐいきますね。でもオレ、一応本業が大学にあって、バイトもしてるんで」

「バイト。何してるの」

「リンゴのケータイ売ってます」

「あれってバイト募集してるのか」

「半分契約みてーな感じっすね。偶然ワク空いてたし、ああいう仕事って器用だと重宝されるから」

「卒業後もそっちに行く気?」

「わかんねえっす。この辺で大学院とかいってたら大体、みんなクルマつくる仕事に行くし」

「確かにな」

「佐々城さんは社員さんじゃないっすよね? バイト?」

「休職中で、バイトを掛け持ちしてる」

「ほんとの仕事は?」

 ぐいぐいくるのはほぼ初対面の大紀も同じだった。持ち前の好奇心の強さはその大きな目によく現れていた。芸能人とか、探偵とか、しょうもない嘘をつくことも思いついたが、なぜかその好奇心の塊のような目に見られているとつまらない嘘がつけなくなった。俺は財布の中から角の折れた、もう滅多に人に渡さない名刺を取り出した。大紀は同じ大学だとはしゃいで、それから深いところには踏み込まずに名刺を返してきた。しばらく持っていただけなのに、名刺からは淡く何かのフレグランスの匂いがしたが、疎い俺にはそれが何なのか全くわからなかった。

「それもう使わないんでしょ?」

「使わない。ここの職場自体はやめてるし」

「そっか。んー、いや俺結構迷ってるんすよ、だって俺が今日ここでお疲れっしたーって帰っちゃったら、佐々城さんとこのあとってないですよね?」

「なんで俺とこの後?」

「いや、正直いうと、めっちゃタイプなんですよ」

 俺は思わずラーメンを啜る手を止めた。彼はさらっと言ってのけたが、まあまあな衝撃ではあった。こういうアルバイトなので確かに身綺麗には心掛けているが、かと言って流石にもう三十代も後半になって好意を真っ直ぐ向けられると戸惑う。

「みた感じ独身っぽいし。オンナいる人はそういう無茶な転職しないでしょ」

「そうだけど……」

「その年の男の人で、マトモで、人のもんじゃないのは珍しいから。いいなって思ってました、校舎で見た時から」

「……ありがとう、でいいのか」

「ウッス。もし良かったら今度デートとかしましょうよ」

「デートに誘われるのなんて初めてだ」

「マジ? もしかして童貞?」

「いや……」

 なんと答えていいものかわからず言い淀んでいると、青年はスマホを取り出した。意図はさすがにわかる。俺は一旦箸を置いて、彼の手元のQRコードを読み取った。だいき、と平仮名で書かれたアカウント名の後ろに大学院生らしくアルファベット表記のフルネーム。好意があると伝えられた上で連絡先を交換するのは人生で初めてだった。

「付き合う前が一番楽しいですよね」

「付き合う前提で話してないか?」

「さすが、鋭い。満更でもないなって思わせるんで、大丈夫っす」

「なんで俺?」

「いやー。ゲイってごちゃごちゃ理屈つけて選り好みしてる暇ないんで。好きだなって思ったら動くだけっす。マジでダメな男って案外いないっすよ」

「そんなもんか」

「だってオレが今こうやって好きって言っても佐々城さん全然怒ってないし」

 確かにそうだった。怒るどころか、好きだと伝えられてからの方が断然、青年を見るのが心地よくなった。

 食べ慣れたラーメンの味までなんとなくいつもと違って感じた。オキシトシンでも出てるような、妙な高揚感だけがあった。


 人が来ると想定していない部屋だが、マンションを処分するゆとりもなくそのままずるずると住み続けている。

 一瞬、部屋に入った時に安浜が身構えたのがわかった。ここまできたら後には引けないと腹を括ったようでもあったし、やや怯えたようでもあった。

「随分緊張してるな」

「一人暮らしなのにやたら家広くて」

「ああ、元は一人じゃなかったから」

 元は、ときっちり強調しておく。ソファに座った安浜はキョロキョロと周りを見回して、所在なさそうにクッションを手にとった。俺はバリスタマシンを起動させ、モカのカートリッジを選ぶ。安浜はバイト先の職員控室でバリスタマシンを見てはしゃいでいた。コーヒーはおそらく嫌いではない。

「まあ、そうか。そりゃそうだよな」

「何が」

「佐々城さんみたいな男は普通残ってないんだよ。ゲイだったら男がいて、ヘテロだったら女がいるほう。しかもお医者さんでしょ。こりゃまいったわ」

「免許持ってるだけのただのヒトだよ。臨床から離れて何年になるか」

「しかも謙虚だし。オレ、マジで好きになっちゃいそう」

「そうか」

 気の利いた言葉が返せないのはわざとではない。それでも安浜は、俺がそうやって発展性のない返答をするたびに嬉しそうな顔をするのである。むしろ、俺が率先して家に招いたときは罪悪感とも後悔ともつかないような微妙な顔をしていた。根の部分が真面目なのだろう。

「佐々城さん。オレ、遊びじゃなくて本当に、あんたのこと好きになっちゃうかもしれない」

「……まあ、俺は別に困らないけどな」

「本当に? 男と付き合ったことある? 結構しんどいよ、やっぱ」

「医者やめてフリーターやってるのよりは根掘り葉掘り事情聞かれないだろ」

「そりゃそうかもしれないけど」

「安浜さんこそいいのか?」

 俺で。安浜はその言葉に一瞬怯んで、しかし何が、と強い声音で打ち返した。年齢。社会的立場。情の無さ。明確に訳ありの四十手前の男。そして極め付けは、我ながらどうかと思うこの熱の低さである。口説かれているのにこの芯の響かなさは、きっと口説く側からすれば空虚この上ないはずなのだ。そうやって何度も非人情を、不義理を責められてきた。どれだけ熱を帯びようとも心の奥が冷えたままなのは、俺が結局はそういう人間であるというだけの話である。

「結婚してないよね。子どもとかいないよね」

「してないし、いない」

「誰のものでもないなら、オレのものになってほしい」

 そういう意味では安心してくれていい、俺は誰のものでもない……下手をすれば自分すらも扱いあぐねている。そう返答する代わりに、安浜の唇に噛み付いてやった。バリスタマシンの高圧で抽出する音を聞きながら、若い男の唇を堪能した。同じ生き物のはずなのに柔らかく何の味も匂いもしない。プレーンで淀みがない。安浜は迷っていた。迷っているのがわかった。口説いたのは自分なのに、まるで俺に奪われるようにじっとしていた。

「……やっぱ実は遊んでるんじゃない?」

「さあな」

 とんでもない。キスなんて大昔の、今はもう記憶にも薄い結婚式以来だった。俺の唇はあのとき、今の安浜のように柔らかかっただろうか。また答えのない問いを頭の中に投げかけてしまった。こういうところがきっと俺は、心療内科医に向いていなかったのだ。


 安浜との初めての夜は、何の準備もしていなかったから結局、お互いの体に触れるのが精一杯だった。

 段取りなしでセックスまで漕ぎ着けられる世の中の大人たちはおそらく手際も良いし、事前の準備を怠らない人種だと思う。実際、俺の家にはコンドームすらなかったし、ローションやら挿入用の潤滑剤やら、足りないものがあまりに多すぎた。安浜はスーツの前を寛げて、緊張して硬度を欠いたそれを撫であげて「今日は無理かも」と不安を口にした。それで、ゆっくりと擦ってやった。まるで処置だ、と思いながら。安浜はきっと俺のことを非常な遊び人だと思っただろうし、否定するのも肯定するのも曖昧にして、事が終わったら風呂に入らせてやった。何も間違っていない。間違っていないが、正しくもない。俺はいつになく浮かれていたが、それはおそらく正面から好意らしきものをぶつけられたことに対する承認欲求の解消が感覚としては一番近かった。安浜は可愛い。後輩にしても可愛かっただろうし、同僚としてもきっと可愛げのある人間だ。そういう、うっすらと好意を持った人間に好意を向けられる情動は、恋愛の初期段階として何も不思議なものではない。実に自然な営み。

 俺はすっかり冷めたコーヒーを飲みながら安浜が風呂から上がるのを待ち、眠そうな安浜をシーツに寝かしつけて、それから風呂に入った。くったりとした陰茎は刺激を与えられなければそもそも勃つことすら少なくなって、若い頃みたいに持て余すことも少なくなっている。安浜は俺に刺激を与えたがったが、それはなんとなく次に先延ばしにした。嫌だったわけではない。ただ、そうした行為の最中で、安浜が「されたい」欲求を剥き出しにしたので分かりやすかったのだ。

 俺は冷静だった。安浜の痴態を目の当たりにしながら。きっとそれが露見するのが嫌だったのだ。欲は欲でもって応えなければならない。そうして欲をぶつけ合うことが恋愛の一作法として罷り通っている。であれば今夜の俺は非常に無作法であり、人でなしと言える。人でなしであることをバラしたくなくて、献身的な年上の男のふりをしたに過ぎない。

 年数を数えると、もう十二年にもなる。十二年もの間、俺は一人でこの二人用のマンションのローンを払い続けている。誰のものでもない暮らしは実に豊かだった。誰かのものになることを、拒んできたわけではなかった。ただ誰も俺に見向きもしなかっただけなのだ。

 事情を知るものは遠慮したし、事情を知らないものは俺に何の興味も抱かなかった。十二年が経つ。そうして初めて、そのどちらでもない人間がこの家に踏み込んだ。それだけで俺は幸せだと思った。この世界に生きている保証がひとつ培われたような気がしたのだ。

 風呂から上がると安浜は眠い目を擦りながら、しかしなんとか俺が戻ってくるのを待っていた。スマホの充電を勝手に繋いでいる非礼を詫びて、そのまま寝返りをうった。ダブルベッドもそのまま。ダブルサイズに広く寝るのに慣れた俺は、隣で縮こまる人間の存在感に、その夜はうまく眠れなかった。


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