第13話 野球しようぜ(7)

「ケラ子!そこから離れろ!!」

 学校の50m走の時よりはるかに速く、僕は走った。

 ケラ子の後ろにいた影が一瞬怯み、後ずさるのが見えた。手前のケラ子はまず僕の顔に怯え、次に後ろの陰に驚いて、ぺたんと尻もちをついた。

「この野郎!」

 走った勢いで飛びつき、茂みの奥に押し倒した。体毛の感触に、獣の匂い。

 野犬のような体躯の生き物は、身をよじり、前足で僕の頬をわずかにひっかいて、そのまま僕の両手から抜け出した。

 僕も、頬の怪我を気にする余裕などなかった。野犬とにらみ合いながら、ケラ子に向かって「みんなのところまで逃げろ!」と怒鳴った。

 だが、背後のケラ子が離れていかない。大声で泣き叫ぶばかりだった。あるいは腰が抜けているのかもしれない。

 とにかくケラ子をこの場から引き離したい、という僕の意図を読んだかのように、野犬は一瞬の隙を突き、僕の横を抜けてケラ子のほうに駆け寄っていく。

「ケラ子!」

 もうだめかと思ったとき、ケラ子の前に、短剣を構えた男子が立ちふさがるのが見えた。

 クリスだ。

 野犬は容赦なくクリスにとびかかっていたが、クリスはそれを冷静にひらりと躱すと、グラウンドの草刈りで見せた高速の連撃で押し返した。

「ユウタ!その子を早く!!」

 まるで勇者だ、と思いながら、僕はケラ子を背負ってグラウンドのほうに走り始めた。ひ弱な僕には十分重かったが、立ち止まるわけにはいかない。


 それなりに距離が取れたかと思ったその時、背後で野犬の雄たけびが聞こえた。

 前方から駆け寄ってきていたトシキが「クリス!」と叫ぶのを見て、振り返ると、そこには複数の野犬に囲まれたクリスが片膝をついていた。

 野犬が他にいたことにも驚いたが、クリスが明らかに青い顔をしていた。さっきまでのポーカーフェイスとはえらい違いだ。

 まるで、野犬の声に慄いているように見えた。

「くそっ、トシキ!ケラ子を頼む!」

「バカ、素手でつっこんでどうする!」

 トシキの言うとおりだ。僕一人加勢に戻ってもどうにもならない。

 だからといって、クリスを見殺しにするわけにもいかない。

 そのとき、完全に取り乱した僕らの横を駆け抜けて、野犬の群れに向かう奴がいた。

 メルだった。

 彼はクリスのもとに駆け寄り、取り囲む野犬の中心で、大きく長い雄たけびを上げた。

 すると、興奮していた野犬たちがとたんに落ち着き、穏やかな表情になった。

 野犬たちはみな剥きだした牙を収め、静かに森の奥に帰っていき、やがて見えなくなった。

 僕たちはおっかなびっくりしながら、森の近くでうずくまるクリスを回収し、グラウンドに戻った。


「ユウタ、ほっぺた大丈夫か」

 トシキの父親の郷太が、心配そうに聞いた。

「うん、かすり傷だよ」

「獣の爪にやられたのなら、病気が入るかもしれん。アランを呼んでるから、少し待っとけ」

 騒ぎの中で、大人たちが僕らの助けに入る様子はまるでなかったように感じていたが、改めて見ると、いつの間にか弓を背負っていたり、剣を携えたりしてる人がたくさんいた。ある程度の備えは初めからしていたのかもしれない。

 ふと気づくと、ケラ子が僕のシャツを引っ張って泣いていた。

「…にーちゃ、痛くない?」

 こんなにしおらしい妹の姿を見たのは、初めてかもしれない。

「ケラ子、もう勝手に離れちゃだめだぞ」

 ケラ子はだまって頷いた。

 お兄ちゃんミッションコンプリート、って感じがして、少しうれしかった。


 アランが来て、傷口に魔法をかけてくれた。

 治療の間、トシキとチャドが僕の顔を見ながら

「ウネウネしてるな」

「うん、ウネウネしてるねえ」

 と言っているのを聞いた。

 僕も鏡で見たかった。


「そうだ、クリスは」

 クリスの様子が気になっていた。

「クリスは、もう帰ったよ」

 メルが少し困った顔で言った。

「あいつ野犬に囲まれた後、少しおかしかったけど、どうしたんだ?」

 イドが代わりに説明してくれた。

「クリスは、魔物の雄叫びが苦手なんだ」

「雄叫び?」

「なんか本能的なものらしくて、聞いただけで体が固まって動けなくなっちまうんだと」

 合点がいった。あいつの父親は、戦闘を好むように見えなかった。

 自分の習性を認めたくなくて、あんなに鍛えてるんだろう。


「クリス、ヨウタのこと、すごいって言ってたよ」

 イドからの突然の賞賛に、僕は正しいリアクションが取れなかった。

「はい?」

 それを皮切りに、みんなで口々に僕をホメ始めた。

「いや、俺らも正直ビビったよ。まさか正面から突っ込んでいくとかさ」

「武器も何もないのにさ。何考えてんだよ」

「うちの親父もびっくりしてた。一番弱そうなやつが一直線にって」

 いや、ただ夢中で…って、一番弱そうってどういうことだトシキ。


「でも、最終的にことを収めたのはメルだろ」

 メルに水を向けると、メルが照れ臭そうに頭を掻いた。

「メルって、奴らを言葉が通じたりするのか?」

「え?ああ、いや、あれは」

 メルが口ごもった。

「え、違うの?」

「あれは、イヌ科の間で通じる合言葉みたいなもんでさ」

 メルは恥ずかしそうに説明した。

「あいつらの一匹が下ネタを叫んだときに、こっちがより下品な下ネタで返すと、見逃してくれるルールになってんの」


「…え、そうなの!?」

 僕らは顔を見合わせた後、腹がよじれるほど笑った。

「どれだけレベルの高い下ネタかましたんだよ!あいつらすごい神妙な顔してたぞ!」

「イヌ科!イヌ科ローカルだから!!」

「余計気になるわ!!」

「メル先生!メル先生と呼ばせてください!!」

 ケラ子はポカンとしていたが、これくらい構わんだろう。

 野犬の下ネタ合戦で動けなくなってしまうクリスのことを考えると、そっちは少しだけ不憫に思えた。


 ひとしきり笑ったところで、守衛のロビンがやってきた。

「おう、楽しそうだな。落ち着いたか」

「あ、ロビンさん。けがはアランさんに治してもらいました」

 ロビンは僕の頬を触り、けがの様子を確かめた。

「きれいに治ったようだな。さておまえら、残念なお知らせだが、ここはしばらく封鎖する」

 突然のロビンの通告に、僕らは戸惑って顔を見合わせた。

「どうしてですか、まだ野球場を作り始めたばかりなのに」

 ロビンは首を振り、

「それは、いまから彼らを見てればわかる」

 と、バックネットのほうを指さした。

 そこには、いい年をして正座させられている大人たちと、その正面に仁王立ちしているうちの母さんがいた。


「あなたたち、子供たちのために野球場を作ろうとしてたんですって?」

「…ハイ」

 主に説明させられているのは郷太だった。

「それはいいことだと思うのよ。ここは涼しいし、運動にもなるしね。でも、こんなに広く開拓するんだから、当然村の許可はとったわよね?」

「…」

「返事」

「…とってませんでした」

「村の土地を広げたら、村の外に接するエリアが広くなる。そしたら、守衛のロビンだけじゃ守り切れなくなるのはわかるでしょ。いい大人なんだから」

 母さんは怒っている。顔が見えない位置でよかった。見えてたら、こっちの子供も全員泣いている。

「まあ、手続きに日数がかかるから手続きをすっ飛ばしたい気持ちは、理解できなくもないわ」

「…っそ」

 そうなんすよ、と声に出そうとした郷太を寸前で遮る。

「でもそれなら、せめてロビンに先に話を通すことくらいはするわよね」

「…」

「大人なんだから」

 切れ目のない圧力。

「…スンマセンした」郷太は屈服した。

「ァあん?」母さんは逃がさない。

 他の大人は、一様に地面を見つめていた。せめて自分に火の粉が飛んでこないことだけを願っている、そんな顔だ。


 僕はいたたまれなくなって、ケラ子に「僕ら、先に帰ろうか」と訊いてみた。

 ケラ子はただ黙って母さんの言葉に耳を傾けていたが、突然振り返って口を開いた。

「にーちゃ」

「ん?」

「おじさんたちにお礼言いに行こ。色々してくれてありがとって」

 そうだね、と僕は返した。

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