第8話 野球しようぜ(2)
クリスはバッターボックスに立ち、バット代わりのひのきの棒の握りを確かめ始めた。僕とトシキのどっちが投げても大して変わらないので、ひとまず僕がマウンドに立った。
まあ、剛速球を投げられるほど肩が強いわけでもない。さっきまでと同様、とにかくキャッチャーに届くことを目標に腕を振るだけだ。
一球目はボールだったが、豪快にスイングしてくれた。
入ってない時は振らなくてもいいよ、とトシキに言われて、二球目はボールを見送り、少しじれったそうな顔をした。考えてみればそもそも三振すら教えていないのだから、何でも振ってくれて構わないのだが。
三球目、真ん中に行ったかな?と思った瞬間、彼のバットがボールの芯を食った。
ボールは高く舞い上がり、こりゃホームランかなと見送ったものの、しょせんは紙のボールだし、そんなに遠くまで飛ぶわけもない。上空の風に押し戻されて、あっさり戻ってきた。僕はその球を、グローブのない両手で抱えるようにキャッチした。
これが本物の野球なら、打ち取ったということになるのだろう。
だが、僕たちが興奮したのはそんなことではなかった。
ピッチャーが投げ、バッターが打ち上げ、野手が捕球したのだ。
「いま、野球っぽかったな?」
「うんうん、だいぶ野球っぽかった」
まぎれもなく、それは野球の一部だった、と思う。
運動音痴二人がはしゃいでいると、クリスがじれったそうに
「おーい、いまのはどうなんだ?あれでいいのか?」
と訪ねてきた。
僕らは顔を見合わせた。この興奮を説明しようとして、言葉に詰まった。
よく考えたら、まったく野球を知らないクリスにも、今のプレーをちゃんと説明しないといけない。アウトとセーフ、ヒットくらいは教えたいが、そもそも塁がなく、打っても弾まないボールしかない現状で、何をどうすれば理解してもらえるのか。
「えーと、今んとこ、投げた球を打って遠くに飛ばせばいいんだ」
「じゃあ、あれでよかったんだな」
「そうそう。ほんとは色々難しい遊びなんだけど、道具も人も足りないんだ」
説明がワヤワヤしているのにクリスも気づいたと思うが、構わず話す。
「本当は、9人と9人でやる遊びなんだ。それも、かなり広いところでさ。球も弾む奴を使うし、固いから専用の手袋を使うんだぞ」
まったく文化が違うのがわかっているので、ボールやバットといった単語も使えない。そもそもクリスって、どれくらい頭がいいのだろう。一度聞いただけで覚えられるのか。
…ゴルフにしとけばよかった、と喉まで出かかったが、かろうじて我慢した。
そこに、ケラ子が「キャプテン」の単行本を持ってきた。
なるほど、たしかに、絵で見たほうがわかりやすいかもしれない。
クリスに開いて見せると「紙が薄いな!軽いな!」「絵がきれいだな!」「文字が多いな!」と、本筋ではないところにばかり驚いている。
まあ、そうだろう。
「顔の描き方が面白いな!」まで行ったところで、さすがにしびれを切らしたトシキが尋ねた。
「いや、それより野球がどんなもんかわかったか?」
「おお、忘れてた」
クリスはもう一度絵をまじまじと見て、僕たちの格好と見比べ、さらりと言った。
「さっきのは全然違うじゃないか」
何も言い返せなかった。
この日、クリスは「キャプテン」の一冊を借りて帰った。道具や場所について何とかならないか、道具屋の店主である父親と相談してみると言っていた。トシキも、親父は野球経験者なので色々聞いてみると言っていた。もしかすると、バットやボールがあるかもしれないとも言っていた。
帰り際、自分にも何かできないかと考えてみたが、うちの父さんはあてにできないことを思い出した。父さんには、この場所の存在すら秘密なのだ。
もともと父さんには何も期待していないつもりだったが、いざ実際ほんとうに頼りにできないと思い知り、なんとも言えない気持ちになった。
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