第164話 お兄ちゃん③(六花Side)

「あ……」


 遠くの空で何か大きな爆発音がして、八尋さんが声を漏らす。


「花火始まっちまったか。約束……守れなかったな」

「約束?」

「みんなで花火を見ようって、美咲や小春と約束したんだよ。六花を連れてな」


 八尋さんは立ち上がって私に手を差し伸べる。


「行くぞ六花。待たせ過ぎると後が怖いんだ」


 また、過去と今の景色が被る。


 私がここで不貞腐れていれば、お兄ちゃんは必ず私を見つけて手を差し伸べてくれた。


 こうしたところでお兄ちゃんの面影を感じてしまう。うん……もうわかってる。ごめんね、お兄ちゃん。きっとお兄ちゃんなら許してくれるよね? 私は……。


「……いたっ」


 差し出された手を握り返そうとしたところで、再び足に激痛が走る。


「六花、どうした?」

「足を捻っちゃって……ごめん……立てない」

「足を捻った!? どこだ!?」


 八尋さんは血相を変えて私の足へ視線を移す。


「これは……酷いな……」


 赤く腫れた私の足を見て、八尋さんは苦悶の表情を浮かべた。


「まずは病院が先か……」

「待って!」

「どうした?」

「花火が見たい」

「お前……自分の足をなんとかするのが先だろ。約束のことは一旦忘れろ。美咲たちには俺から事情を説明する」


 八尋さんの言っていることは正しい。


 今も足には鈍くて重い痛みが続いている。思ったより重傷かもしれない。


 病院に行ったほうが正しいのはわかってる。


 それでも……。


「八尋さんと……花火が見たいの」

「六花……」


 ずっと否定し続けてきた。拒絶し続けてきた。


 だけど……もう私は知ってしまった。理解してしまった。


 だからこそ……私も少しずつ前に進みたいって思ったんだ。


「お願い……花火が終わったら病院に行くから……だから……」


 病院に行くのは正解だ。でも私は弱いから、この機会を逃したらまた素直になれないかもしれない。


 嫌だ。それは嫌だ。私は、目の前の人とちゃんと向き合いたい。こんな酷くて小さくて弱い私を、まだ可愛い妹だと言ってくれるもう1人の兄と、最初からやり直したいんだ。


「……はぁ」


 八尋さんは思案するように目を閉じた後、どこか諦めのようなため息を吐いた。


 そして私に背を向けてしゃがみこむ。


「お兄ちゃんってやつは、どうにも妹のお願いには勝てないらしい。花火が終わったらちゃんと病院に行くからな。絶対だからな」

「うん……絶対行く。約束」

「乗れ。汗が染みて乗り心地は最悪だろうが、そこは勘弁してくれ」

「……ありがとう」


 八尋さんは私を背に乗せて歩き出し、お祭りの会場まで戻っていく。


 八尋さんの背中は湿っていた。たしかに乗り心地はいいとは言えない。それでも、包まれるような大きな背中の安心感は格別だった。


「ずっと……怖かったの」


 だからかな。私は今まで内に秘めていた想いを零してしまう。


 返事はない。でも八尋さんはちゃんと聞いてくれているって、背中から伝わってきた。


「お兄ちゃんが居なくなって、八尋さんになって、みんながそれを受け入れて、私の知っているお兄ちゃんが最初からいなかったみたいになっている気がして、それが……怖かった」

「そうか……」

「お兄ちゃんが居なくなるなんて嫌だった。だから八尋さんを拒絶した。お兄ちゃんの居場所はお兄ちゃんのものだって、そう思って八尋さんに酷いことをたくさん言った。冷たい態度をたくさん取った」

「そうか……」

「……ごめんなさい。謝ったって許さないことも言ったよね?」


 顔が見えない方が言える時もある。今がまさにそうなんだ。


「六花はさ、大きな勘違いをしてたんだな」


 しばらく無言の時間が続いたあと、八尋さんは穏やかな声で口を開いた。


「勘違い?」

「そうだよ。俺がお前のお兄ちゃんになったからって、今まで六花が大好きだったお兄ちゃんが消えるわけじゃないだろ?」

「そんなこと……ないよ。だってみんな八尋さんをお兄ちゃんとして扱ってる。私の知ってるお兄ちゃんなんていなかったみたいに」

「それは表面上だろ?」

「だとしてもだよ」

「消えてなんかいないさ」

「……じゃあどこにいるの? 私が好きだったお兄ちゃんは?」

「馬鹿だな六花は。なんでそんな簡単なことに気づかないんだよ?」

「馬鹿って……なによ……」


 突然鼻で笑われたのが癪に障り、口を尖らせる。


 簡単? そんなわけない。私はずっと悩んでいた。その答えを探していた。


「じゃあ……八尋さんはその答えを知っているの?」


 私が言えば、八尋さんは「もちろん」と返してくれた。


 だから私は八尋さんの答えを待った。


 ずっと探し求めていた、私の救いを。


「六花の中に、ちゃんといるだろ?」

「え……」


 軽い調子で言われたのは、まったく予想していない回答だった。


「私の……中に……」

「六花が昔の俺と一緒に過ごしてきた日々の数々は、今もお前の中で色あせない思い出として残ってるんだろ? 俺を認めないっていうくらいなんだ。きっと鮮明に残ってるんだろうよ。なら、絶対消えることなんてないだろ」

「それは……」

「誰が何と言おうと、今は俺が神崎八尋だ。六花には悪いがその事実は揺らいじゃいけない。過去の記憶があろうとなかろうと、ひとつの人間の中にふたつの人格なんてまずあり得ないんだからな。でも、前の俺を知っているみんなの中であいつはちゃんと生きている。それはなにもおかしいことじゃない」


 体の芯から熱を帯びていく。


 さっき出し尽くしたと思っていたものが再びこみあげてくる。


「目に見える居場所が全てじゃない。目の届かない場所にだって居場所はちゃんとある。お前が大好きだったお兄ちゃんは、ずっとお前の中で生きている。なにがあっても、六花が忘れない限りあいつの居場所はちゃんとある。そこにあるんだよ」


 今のお兄ちゃんとしては悔しいんだけどな。いっそう明るい調子で八尋さんは言った。


「そう……なんだ……」


 私の中でお兄ちゃんが生きている。


 そうか。そうだったんだねお兄ちゃん。


 消えちゃうと思っていたお兄ちゃんの居場所。でも、そんなことはなかったんだね。


 お兄ちゃんとはもう話すことはできない。それは不変的な事実なんだろう。


 だけど、だからと言ってお兄ちゃんの全てがなくなるわけじゃない。ずっと、私の中に残るんだ。


 それはきっと私だけじゃない。お父さん、お母さん、お姉ちゃんの中にもそれぞれが接してきたお兄ちゃんがいたんだ。その想いを大事にした上で、新しいお兄ちゃんと家族になろうとしたんだ。


 みんな忘れたわけじゃなかったんだ。居場所を置き換えようとしてるわけじゃなかったんだ。


 やっとわかった。


 心のモヤが晴れていく。そうだ。そうなんだ。


「そうだったんだね……」

「でもそれだと悔しいから、俺は六花が大好きだったお兄ちゃんを超えるお兄ちゃんになる。時間はたっぷりあるからな」

「はは……なにそれ」


 体を預けた背中が汗で染みててよかった。


 だって、この涙に気づかれないから。


 涙で霞んだ視界の先で、ひとりの人影が浮かんでくる。八尋さんと同じ顔をした、だけど今より幼く見える顔立ち。私の知っているお兄ちゃんだった。


 お兄ちゃんの幻覚は穏やかに笑ってこっちを見る。口元が動いていて、何か言っている。


 聞こえるはずなんてないのに、私はお兄ちゃんが何を言ってるのか理解できた。


 そうだよね。家族なのにいつまでも他人行儀なのはよくないよね。


 うん。もう大丈夫。そう呼んだって、お兄ちゃんがいなくなるわけじゃないってわかってるから。


 心の中で言えば、お兄ちゃんは満足そうな表情を浮かべたまま静かに消えていった。


 私が呼んだら、あなたはどんな顔をするのかな? 


 顔が見えない方がいいなんて思ったけど、今だけは正面から見たかったな。


 いや、最初はやっぱり恥ずかしいから、これでいいのかもしれない。


「でも……期待してるよ――」


 そうだよね? お兄ちゃん。

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