第163話 お兄ちゃん②(六花Side)

「なんで……どうしてここに……」


 追い詰められた私の妄想が生み出した架空の存在。そう思いたいのに、目の前には確かにお兄ちゃんの姿をした人が立っている。


 肩で息をしながら、私を優しく見下ろす。


「せっかく探しに来たのに酷い言われようだな」

「だ、だって……」


 こんなところ……知ってなければ見つけられるわけがない。


 どうしてわかったの? なんでここに?


 だってここは八尋さんが知る由もない場所なんだよ?


「ここは……私とお兄ちゃんくらいしか知らない場所で……八尋さんが見つけられるなんて……」

「じゃあ俺が来てもおかしくないだろ?」

「な、なんで……」


 わからない。わからない。


 お兄ちゃん以外がここを見つけられるなんて、おかしいんだよ。


 なのに八尋さんはさも当然のような顔をしている。


「だって……ここは……」

「俺がいるのはそんなにおかしいのか?」

「っ……」


 その通りだ。おかしいんだ。おかしくなきゃいけないんだ。


 混乱する私を他所に、八尋さんは自分の胸に手を当てて続けた。


「強いて言うなら、俺の魂が教えてくれたんだよ。六花はここにいるって」

「たましい?」


 意味がわからない。オカルト過ぎる。


 だけど八尋さんはここにいて、現に私を見つけてくれた。


「そう、魂だ。きっと六花のことが大好きで仕方ない誰かが教えてくれたんだろうな。六花はここにいるぞってさ。心当たりはあるだろ?」

「あ……」


 私のことが大好きな誰か。それが意味するところ……。


 もしかして、お兄ちゃんが教えてくれたの?


 あり得ない。だってお兄ちゃんは……。


「なあ六花。なんでとか、どうしてとか、お前は俺がここに来た理由を求めてるけどな、理由なんてひとつしかねぇだろ?」

「……なに?」

「俺が、六花のお兄ちゃんだからだよ」

「っ……」

「兄が妹を助けるのに、それ以上の理由なんか必要ねぇだろ?」

「そ……れは……」


 その言葉には聞き覚えがあった。昔、お兄ちゃんに言われたセリフだ。口調とかは全然違うけど、内容はそっくりそのままお兄ちゃんに言われたセリフだった。


 心が揺れ動く。ざわつく。目の前の人を兄だと思い始めている自分がいると気づいたから。


 お兄ちゃんとは何もかも違うけど、それでも本質は変わってないと思い始めている自分がいた。


 でも、そうしたら私のお兄ちゃんが居なくなっちゃう。全部なかったことになっちゃう。


 世界は元からお兄ちゃんがいなかったかのように進みそうで、私が八尋さんを受け入れたらお兄ちゃんは誰からも忘れられてしまいそうで、それがたまらなく怖い。怖いんだよ……私は。だから……。


「六花はさ、この先もずっと俺を兄だと認めてくれないのか?」


 そんな私の心を見透かしたように、八尋さんは私に優しく語りかけてくる。


 酷いことを言ったのに、さっきから一言も叱責してこない。ただ優しく包み込むように佇んでいる。


 私の中のお兄ちゃんと八尋さんの姿が、少しずつ重なっていく。


 どうして。優しくしないでよ。これ以上、お兄ちゃんみたいなことしないでよ。


「……」


 認めないと言いたかった。でも言えなかった。


 意地を張っていた心が、小さく醜い私の心が、ゆっくりとほだされていく。


「俺は嫌だな。可愛い妹にずっと他人行儀でいられるのって、結構しんどいんだぞ? まあ、だいたい俺が悪いんだけどさ」


 そう言って八尋さんは笑う。


 お兄ちゃんが見せたことのない、カラッとした笑顔だった。


 そんな顔したお兄ちゃんは見たことがない。なのにどうして、私の心は揺れ動く?


 動けない私をよそに、八尋さんは私の前で屈んで、私の頭をそっと撫でた。


 お兄ちゃんの手。何度も撫でられた私だからわかる。あったくて、大きくて、優しい、お兄ちゃんの手だ。


 目と目が合う。先ほどの困った笑顔じゃない。


 私の醜い心を全て包み込んでくれるような、そんな温かい笑顔だった。


「なあ六花、お前から見たら俺は兄に見えないかもしれない。でもな、たかが記憶が無くなったくらいで消えるほど、家族の絆は柔じゃないんだよ。六花がどれだけ俺を否定したって、俺はお前のお兄ちゃんだ。その事実は変わらない。血の繋がりってやつは、それくらいしつこいんだ。俺がここにいる時点でわかるだろ?」

「あ……れ……」


 頬に何かが伝わった。それが涙だと気づいた頃には、もう止まらなくなっていた。


「一度は逃げ出して悪かった。六花をここまで苦しめたのは俺のせいだ。俺がもっと早く、六花と向き合えてればこんなことにはならなかった。だから、ごめんな」


 どこまでも暖かい眼差しに、心が揺れる。


 感情がとめどなく溢れてくる。


「どうして……」

 そんなに優しいの?


「どうして……」

 私を責めないの?


「どうして……」

 八尋さんが謝るの?


「どうして……」

 涙が止まらないの?


「ほんとお前はどうしてばっかりだな。答えはさっきから言ってるだろ? 俺が六花のお兄ちゃんだからだよ」


 本当にそれが答えなの?


 私に優しいのも、私を責めないのも、八尋さんが謝るのも、涙が止まらないのも、全部それが答えでいいの? だってそれじゃあ……私が悪者になれないよ。


 悪いのは全部私なのに、私が八尋さんを一方的に傷つけてるのに、どうしてそんな優しい顔をできるの? ずるいよ。さっきからお兄ちゃんみたいなことしないでよ。


「六花の中でどれどけあいつが大事だったのか、俺にはわからない。だから今すぐに俺を認めてくれとは言わない。言えない。でもさ、ほんの少しでいい。ほんの少しだけ、六花の心に隙間があるなら、そこに俺を入れてくれないか? 兄としてじゃなくてもいい。ただの八尋として、お前とやり直させてくれないか?」


 俺は、六花とも家族になりたいんだ。


 最後にそう言って、八尋さんは私の涙を指で拭った。


 顔と声が同じだけの別人。そう思っていた。思いたかった。


 でも、私の心が言っている。この人の本質は、私が大好きだったお兄ちゃんと変わりないって。そう言ってるんだ。


 隙間なんてない。お兄ちゃんの場所は、お兄ちゃんのものだ。だけど、そのお兄ちゃんの居場所へどんどんと目の前の人が侵入していく。さも自然な様子で、私の中へ溶け込んでいく。


 だって、この人は……。


「ひどいこと……たくさん言ったよ……?」

「そうだな。お兄ちゃん、ちょっと苦しかった」

「こんな私のこと……嫌いにならないの……?」

「ならない。何を言われようが、六花は可愛い妹だよ」

「また……傷つけちゃうかもしれないよ……?」

「気にするな。それを受け止めるのがお兄ちゃんの役目だ」


 お兄ちゃん……お兄ちゃん……私はどうすればいい?


 お兄ちゃんはお兄ちゃんだけなのに、目の前の人も間違いなく私の兄なんだよ? もう心がそう理解してるんだ。でも、そうしたらお兄ちゃんが居なくなっちゃう。それは……嫌だよ。


 でも、私はこれ以上八尋さんを傷つけたくない。こんなに優しくて温かい人を、傷つけたくないよ。


 私は……私は……。

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