第162話 お兄ちゃん①(六花Side)

 ああ……私はとんでもなく酷いことを言ってしまった。そう気づいたのは、抑え込んでいた黒い感情を全て吐き出した後で八尋さんの顔を見た時だった。


 怒っているとか、悲しんでいるとかそう言うのではなく、ただ儚く笑っていた。


 そこで自覚した。私は今、この人をすごく傷つけてしまったんだって。


「はは……ごめんな」


 だけど八尋さんはこんな酷いことを言った私に対して何も言わない。怒ったっていい。ふざけるなって言っていい。私は私のことだけ考えて相当酷いことを言ったんだ。反論してくれたっていい。


 それでも、八尋さんは困ったように笑って、あまつさえ謝罪の言葉を言ってきた。


 違う。謝るのは八尋さんじゃない。私だ。私が、酷いことを言ったんだ。


 なのに謝罪の言葉が出てこない。喉元を過ぎた辺りでつっかえて、それ以上出てこない。


 こんな自分の小ささが嫌になった。だから脇目も振らずに逃げ出した。


 動きづらい下駄で、全力で逃げ出した。


 あそこに居たくない。これ以上、自分の小ささを思い知りたくない。だから走った。


 神社の脇の林に入った。昔お兄ちゃんと喧嘩をすると決まって入った林だ。


 誰にも見つからない秘密の場所。逃げ出すといつもここに来る。


「っ……⁉︎」


 突然体のバランスが崩れて、私はその場に倒れ込んだ。


 見れば下駄の紐が切れたらしい。


「いたっ……」


 遅れて足に痛みがやって来る。


 じんと響き渡る鈍痛。立ちあがろうにも、足の痛さが想像以上で立ち上がれない。


 くるぶしのあたりが赤く腫れ上がっていた。


 なんとか近くの木にもたれかかって座る。


 勢いで逃げ出して来たけど、どうしよう。


 助けを呼ぼうにも、荷物はさっき感情に任せて八尋さんに投げてしまった。ほんと、なにしてるんだろう私。


 静かな林で、私は一人寂しく座っている。


「……これが報いなのかな」


 暗い空を眺めて言ってみた。


 あの人を私のワガママで傷つけた、その報いなんだろうか。


 待ったところで助けなんか来やしない。そもそもここに人なんて来ないんだから。


 遠くから祭りの華やかな音が微かに聞こえる。


 どうしてこうなっちゃったんだろう。私は静かに過去を振り返る。


 八尋さん。お兄ちゃんの中に入っているお兄ちゃんではない人。


 お兄ちゃんは、いつも落ち着いていて達観した人だった。常に優しくて、私のワガママも笑って許してくれて、それでいてなんでもできる、大好きなお兄ちゃんだった。


 私はそんなお兄ちゃんの背中をいつも追いかけていた。歩くのが遅ければ、お兄ちゃんは何も言わずに私に歩幅を合わせてくれる。口数は決して多いほうじゃなかった。だけど、お兄ちゃんの優しさは行動だけで伝わって来た。


 そんなお兄ちゃんが大好きだった。


 なのに、お兄ちゃんはある日突然いなくなった。


 全部の記憶を無くして、別人のようになってしまった。


 本当はわかってた。八尋さんが無理をして私たちに合わせてくれてたって。


 でも、それでもよかった。お兄ちゃんはまだいるんだって、そう思えたから。


 でも、結果的に八尋さんは壊れてしまった。どうしようもない後悔に襲われた。たぶん壊したのは私たちだから。


 それでも縋りたかった。八尋さんがお兄ちゃんの真似事をしていれば、いつか思い出すかもしれないと、その可能性に縋りたかった。


 限界を迎えてから、八尋さんはお兄ちゃんを演じるのをやめた。それからと言うものの、八尋さんと話す度に、私の中では違和感が増大していった。お兄ちゃんの顔と声で話す別人がいる。どうしてもその思いが拭えなかった。


 我ながら酷いやつだと思う。


 記憶を無くして戸惑っている人に、自分のエゴを押しつけて壊し、壊れたら知らない人がいるなどと勝手に思うんだから。


 私は、そんな自分が嫌だった。


 何を話せばいい? 兄妹ってどんな会話をしていた? 当たり前にできていたことができなくなっていった。


 私の中でのお兄ちゃんは、お兄ちゃんだけ。それが私の思考に蓋をした。


 八尋さんが出ていくまでの間、私たちは碌に会話をしなかった。


 八尋さんも私たちに対して負い目があったんだろう。私とすれ違うたびに、申し訳なさそうな顔をしていた。そうさせた一因は私にもあるのに、私は知らないフリをした。


 八尋さんがいなくなって1年以上が経ったあるとき、お姉ちゃんは言った。八尋さんが帰って来ると。


 なぜ? その思いが強かった。嫌で逃げ出したのに、なんで帰って来るの? わからなかった。わかろうともしなかったんだ。


 何を話せばいい? 相変わらずその答えが見つからないまま、八尋さんは帰ってきた。とびきり可愛い彼女さんを連れて。


 知らない。誰その人? 私の知らないところで、八尋さんは前に進もうとしていた。


 そう思い知らされたのは八尋さんが帰ってきた晩御飯の時だった。


 家族になりたいと、八尋さんはそう言った。


 そして、みんながそれを受け入れようとしている雰囲気がある。


 待って。待ってよ。なんでみんなそんな普通に受け入れようとしてるの? 八尋さんは、お兄ちゃんじゃないんだよ? 八尋さんがお兄ちゃんになったら、私の知ってるお兄ちゃんはどこへ行くの? 私の大好きなお兄ちゃんはどこにいればいいの?


 認めない。認められない。私のワガママでもいい。だって、八尋さんがお兄ちゃんになったら、私のお兄ちゃんがどこにもいなくなっちゃうんだよ。そんなのは嫌だ。嫌だよ。


 そんな感情だけが溜まっていき、今日のさっき私の感情が爆発した。


「私……最低だ……」


 誰が見ても言い過ぎだ。


 謝りもせず、ただ逃げ出した。


 足が痛む。動けない。


 やっぱりこれは報いなんだろう。


 誰にも見つけてもらえないこの場所で、私は一人反省する。


 私が大人だったら、受け入れられたんだろうか。お姉ちゃんがやってるみたいに、普通の兄妹として接することができたんだろうか。


 答えは誰も教えてくれない。


 その時、近くで草木を掻きわける音が聞こえた。


「だ、だれ……⁉︎」


 体に緊張が走る。


 助けが来たの? いやそんなはずない。あんな酷いことを言って逃げ出した人を助けに来るわけがない。今頃みんなで私のことを非難しているはずだ。それだけのことを私はしたんだ。


 だから怖い。今の私は動けない。普通の人はすき好んでこの場所に入ってきたりしない。もし危ない人だったら、私になす術はない。


 恐怖で体が震える。怖い。怖いよ。


 草木を掻き分ける音がどんどん近づいてくる。


 私は目をギュッと閉じて、ただ小さくなるしかできなかった。


 こんな危険な状況、前にもあった。


 あの時も私は理不尽にお兄ちゃんに怒りをぶつけて、同じようにここに籠ってうずくまっていた。


 その時はお兄ちゃんが必死の形相で探しに来てくれたっけ。懐かしいな。


 今はそんなのあり得ない。だって、あの人が私を探しに来るわけないんだから。


「……ここにいたのか」


 そう、こんな風に。


 幻聴にしてはやけにはっきり聞こえた声。


 先程まで聞こえてきた音がなくなっている。


 脅威は去ったのだろうか。


 恐る恐る目を開けると、そこには。


「……うそ」

「探したぞ六花……はぁ……お前……はぁ……かくれんぼの天才だな」


 あの日よりずっと大人びた顔をしたお兄ちゃんが、汗に濡れた顔で、優しく笑いかけていたのだった。

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