第147話 真夏の雪解け②

「俺、親父に謝られるようなことないんだけど? むしろ感謝することの方が多いし」


 一人暮らしがまさに筆頭だ。俺が辛くて逃げ出したいとき、それを何も言わずに了承してくれた。


 あの時の俺がどれだけ救われたことか。感謝をしても、親父が俺に謝ることなんてない。


 だったら親父はなんで急に謝罪してきたんだ? 今日は謝罪ばかりされて背中が痒いんだが。俺そんな偉くないからさ。もう少し雑に扱っていいよ? 姉貴みたいに。


「俺も……お前の苦悩には気づけなかったからな」

「苦悩?」

「お前をお前として見てやれなかった。気づいてやれなかった」

「それか。気づかれないようにやってたんだから当たり前だろ」


 演技はバレたら意味がねぇんだよ。むしろあの時の俺の演技力を褒めてくれ。


「それでも、気づいてやるのが親なんだ。七海以外、誰も気づけなかった」

「姉貴はイレギュラーだよ」


 あいつは特殊だろ。最初から俺を俺として見ていただけ。


「そうだとしてもだ。親として、これほど恥ずかしいことはない」

「なんで今更そんなこと言うんだよ」

「……そうだな。お前の顔を見て安心したからかな」

「意味わかんねぇよ」

「たしかに、意味がわからないな。でも、俺もちゃんと思ったことを口に出そうと思ったんだ。家族、だからな」

「じゃあみんなの前で言えよ」

「馬鹿野郎。恥ずかしくて言えるか」


 その言葉を聞いて、俺は不覚にも噴き出してしまった。


「どうした?」

「いや、ごめん。なんでもない」


 俺は笑いながら手を振って誤魔化した。


 なんてことない。記憶はなかろうが、俺と親父の血は繋がっているんだって、そう思っただけだ。


「まあ親父の想いはわかったよ。ありがとな。じゃあ俺は部屋で愛しの彼女を待つから」

「じゃあ俺はリビングで母さんとイチャイチャするか」

「なんだよ? 当てつけか?」

「今日はそんな気分なんだよ。息子の成長を酒の肴にできそうなんでな」

「やめろよ恥ずかしい」


 俺は階段を昇って部屋に戻る。ベッドの近くに布団が1枚敷かれていた。


 まあ、そうだよな。姉貴が布団を持ってくるとか言ってたしそんな展開になるよな。


 いや、べつに一緒のベッドもありかなぁ、とか思ってないし。


「しっかし……マジで同じ部屋で寝るんだな」


 眼前に敷かれた布団を目の当たりにして、この部屋で今日美咲と一緒に寝る事実を再認識する。


 俺……いびき掻いたりしてないよな? 普段は一人だからその辺全然わかんねぇんだよな。次の日に、八尋君って結構大きないびき掻くんだね、と美咲に言われたら死にたくなるんだが?


 この前姉貴が泊まりに来た時は何も言われなかったから大丈夫だろう。あいつは俺を弄れる隙は絶対に見逃さない。いびきという格好の餌に食いつかないなら、俺は大丈夫だ。逆転の発想で証明できる。


 まだ美咲が帰ってくる気配はない。姉貴にもみくちゃにされてないか心配だけど、さすがに飛び込むわけにはいかない。たぶん命が簡単に刈り取られてしまうから。


 今の風呂は、天使と悪魔が共存する世界の特異点。そこになんの力も持たない凡人が飛び込んだら悪魔に瞬殺される。美咲の美しい身体を記憶に刷り込む前に俺の命が潰える。くそ……同性だからってずるいぞ姉貴。俺だって……俺だって? それ以上はいけない。


 ただ待っていても仕方ない。ベッドに転がり、天井を見上げながら明日以降の作戦を考える。内容はもちろん六花に関して。


 母さんとは仲直り……違うな。家族としてやり直す話し合いができた。だから残すは六花だ。


 しかし、六花はきっと手強い。ああも正面切って拒絶されてしまうと取りつく島もない。とは言え黙って受け入れるつもりもない。まずは話し合いの土俵に立ってもらわないと……どうすっか。


 考えても正解は浮かばない。簡単にわかる問題なら苦労はしないからな。


 そうして答えの出ない問いに頭を悩ませていると、部屋の扉が開いた。


「美咲か……遅かった――」


 全部言い終わる前に、俺の思考はフリーズしてしまった。扉に向けた視線が動かせない。


 ゆったりした薄手のシャツに、しゃがんだらうっかり神秘が見えそうな予感のする半ズボン。パジャマ姿の美咲が立っていた。風呂上りなのか、肌がいつもより艶やかだ。


 制服姿の美咲。バイト先での美咲。私服の美咲。思えば色々な美咲を見てきたわけだが、パジャマ姿の美咲はまた一段とお可愛い。天使の羽が後ろに見えそうってか見える。後光まで差してきた気がする。つまり可愛い。だけど……。


「その……じっと見つめられると恥ずかしい」


 俺の視線を受け止めた美咲が困ったように視線を彷徨わせる。


「あ、いや、悪い! あまりに可愛かったらつい」

「そ、そうかな……?」

「そうそう。普段の美咲とはまた違った可愛さがあって見惚れてた」

「そっか……じゃあ可愛いパジャマを選んだ甲斐があったかな」


 美咲は嬉しそうにはにかむ。


 可愛いパジャマを選んだ甲斐があった? するってぇとあれかい? まさか俺のために選んでくれたってことですかい?


 やべぇ……美咲が可愛すぎてニヤケが抑えられない。無理だろ。誰だよこんな可愛い生き物を現世に遣わせた神は。


「八尋君、顔がだらしないよ」

「美咲が可愛すぎるのがいけない。こんなん普通にしてろって方が無理だろ」

「もう……八尋君最近ストレートに言うようになってきたよね」

「相手を褒め称える時は正直に言うって決めたんだよ」

「そのせいで私の心臓がもたないんだけど……今も嬉しくてドキドキしてる」

「ならよかった。褒めたのに何も感じなかったら彼氏の自信失くすからな」

「そこは大丈夫だよ」


 美咲は俺の顔の近くに腰を降ろす。俺を見下ろす美咲の顔が近い。穏やかに、だけど芯の強さを伺わせる天使の笑顔だ。


「どんな八尋君でも、私は大好きだから」

「……」

「あの……なにか反応が欲しかったり……」


 自分で言ったのに、美咲は顔を赤くして目を泳がせる。


 恥ずかしくても、ちゃんと言葉にしてくれる姿が可愛い。愛してるぜ美咲!


「すまん。可愛すぎて言語能力が消失してた」

「もう……」


 会話が途切れると、美咲はそわそわした様子で視線を彷徨わせる。


「よし……」


 やがて小さな声で気合を入れると、彼女が自分の頭をそっと俺に近づける。


「ん……」


 無言、ではない謎の催促。寝転がる俺の前に差し出されるは愛しの彼女の綺麗な頭。風呂上がりのいい香りが鼻をくすぐる。


 問。俺は今なにを求められてるのか。この無抵抗に頭を差し出された状況から考えるに……え、いいの?


 浮かんだ選択肢はひとつしかない。でも、いいの? 実はトラップだったりしない? しかし、どこか期待を忍ばせた麗しい瞳が俺を見る。え、本当にいいの? でも美咲の顔……やっぱり……。


 俺はおそるおそる美咲の頭に手を乗せて優しく撫でてみた。サラッとした髪が指をすり抜ける。


「ふふん……」


 どうやら正解だったらしい。


 人間にあやしてもらった猫のように、美咲は気持ちよさそうに目を細めた。


 ふおおおおおお。なんだこの可愛い生き物は? もっとなでなでしたいんだが? いい?


「ん?」


 ふと、閉じていたはずの部屋の扉が開いていることに気づく。


 ほんのりと開いたドアの隙間。その先からは小さく光る円状の何か。その後ろには下卑た笑みを浮かべた悪魔らしき姿が。


 シャッター音が部屋に響き、美咲も扉の方を向いた。


「いやぁ……いいわねぇ……いいものが手に入ったわ」


 ゆっくりと扉が開き、寝間着に身を包んだ悪魔が携帯片手に、それはもう楽しそうな笑顔で俺の部屋に侵入してきた。

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