第146話 真夏の雪解け①
それは誰に向けての言葉なのか。それともついぞ口から零れてしまった言葉なのか。
母さんは洗い物の手を止めない。まるでさっきの言葉はなかったかのように時は流れ続けている。
なかったことにしてもいい。だけど、俺の心は言っている。それはダメだと。
俺はコップに入ったお茶を一口飲んで、喉の調子を整えた。
「ごめんって……俺に向けて言ったの?」
俺の言葉が宙に舞う。返事はない。水道から流れる水が食器に当たって飛散する音。スポンジと食器が擦れてキュッと小気味よく鳴る音。それが今リビングで発生している音。母さんからの返事はしばらく待っても来なかった。
もしかして俺の幻聴? ちゃんと母さんから出た言葉だよな? 不安になって来たんだけど。
母さんは相変わらず黙々と洗い物を続けている。
会話のキャッチボールが続かない。口直しのお茶はいつの間にか無くなっている。
「……私は、八尋をずっと苦しめていたのよね」
やがて、母さんは再び口を開いた。
出てきたのは、変わらず俺への懺悔の言葉。どうやらさっきのは幻聴じゃなかったらしい。
「いきなりどうしたんだよ?」
「八尋が居なくなってから、私はずっと考えていた。八尋の苦しみに気づかず、私は私の理想を八尋に押し付けてたんじゃないかって……それが八尋を苦しめてたんじゃないかって」
言いながら、母さんは俺の方を向くことはない。洗い物を続けている。
会話をしているようで、母さんの独り言に俺が反応しているようにも見える。
「今日、八尋の明るい顔を見て安心したと同時に、ものすごい後悔に襲われた。私は八尋の笑顔を奪ってしまっていたんだって」
「そんなことは……」
「だからごめんなさい。私は母親失格よね。今もどうやって八尋の顔を見ればいいかわからない」
「帰った時は普通に笑ってくれただろ? それでいいんじゃね?」
「そうね……それでいいのよね……でも、今更どの面下げてって思っちゃったのよ。晩御飯の時の八尋の言葉を聞いてから」
母さんもずっと悩んでいたのか。俺を俺として見ることができなかった過去の自分を。
「知らない間に、八尋は凄く大きくなってた。家族になりたいって言葉は胸に響いた。でも思うのよ。私は、今の八尋の家族になる資格はあるのかなって。あなたを傷つけた私にはって……」
「母さん……」
俺を苦しませてしまった後悔。それが今の母さんを苦しめてしまっている。
これも、元を正せば俺が俺でいる信念を貫けなかったから起こってしまった出来事。
母さんが昔の俺を望み、俺が応えたことで生まれた歪み。小さなひずみは少しずつその範囲を広げ、そして限界を迎えて壊れてしまった話。お互いが現実から目を逸らしてしまっただけの話。
「俺は……それでも母さんと今度はちゃんと家族になりたいって思ってるよ」
洗い物をする背中に語りかける。
母さんの言葉もある側面で見れば間違ってないかもしれない。
でも違う。これは母さんだけが責任を感じることじゃない。
「母さんが後悔してるように、俺も後悔してるんだ。みんなが俺を見てなくても、ちゃんと俺を見ろ! って強く言うべきだったんだ。家族だからこそ、なんでも相談できるようにしなきゃいけなかったんだ。あの時の俺はそれができなかった」
記憶を失くしたばかりのころは、家族なんて意識を持ってなかった。一緒の家にいる他人。それでも家族を演じようと、俺を否定されないようにと、神崎八尋を演じていた俺。
でもそうじゃない。今の俺がもう一度神崎家の一員になる努力をしなきゃいけなかった。俺は頑張る方向性を間違えていたんだ。
「でもさ、母さんが俺のこと考えてくれてたってわかったのがすごく嬉しい。家に帰って来てよかったって……そう思うよ」
これは紛れもない俺の本音。
六花もそうだけど、母さんと仲良くなるのは時間がかかると思っていた。でも、母さんは俺のことを受け入れようとしてくれている。その上で、自分がしてしまったことを後悔している。
こんなに嬉しいことはないだろ。ちゃんと俺を見てくれてるんだ。家族になろうって思ってくれなきゃ、今の発言は出てこないだろ? 嬉しい。嬉しいよ。
「……八尋」
振り返った母さんを目が合う。母さんの目には薄っすらと光るものが見えた。
「お互い自分を責めたって何も解決しないだろ? お互い悪いなって思ってるなら、こっからやり直そうぜ?」
「……そうね」
「俺は俺でしかあれない。それでも俺は、母さんと普通の家族になって、いっぱいくだらない話をしたいんだよ。家族ってそういうもんだろ?」
「……そうね……そうよね」
母さんはまた振り返ってしまった。
ただ体を小刻みに震わせ、服の袖で目元を拭っている。
ここで何かを言う程俺は無粋ではない。
言いたいことは言った。たぶんお互い理解し合えたと思う。
もうここに俺はいない方がいい。でも逃げじゃない。俺に泣き顔は見られたくないだろ。
「八尋」
コップを持って静かに立ちあがったところで、母さんに声をかけられた。まだ声は震えている。
「コップは置いていきなさい。私が洗っておくわ」
「悪いな」
「家族なんだから、それくらい甘えていいのよ」
「だな……頼むわ」
胸が温かい。一人の家では感じなかった温もり。これが家族の温もりかな。ボスと美咲の関係を見ていた時に感じたものと似ているからそう思う。
コップを置いて、俺はリビングを出る。
「……八尋」
「どわっ!? 親父!?」
階段の手前で、親父は腕を組んで静かに佇んでいた。まさか出た瞬間に居るとは思ってなくてさすがに驚く。暗殺者ムーブすんのやめろ。
「……トイレは済んだのか? 随分長かったけど?」
「そんなものとっくに済んでいる」
「は? じゃあいつからそこにいたの?」
「お前と母さんが話し始めたくらいからだ」
「ほ?」
え? じゃあ、あの会話ってもしかして筒抜けだった?
俺と母さんしか居ないと思って結構恥ずかしいこと言っちゃったんだけど……え、ま?
「……悪かったな。色々と」
母さんと心を通わせた刹那、今度は親父から懺悔の言葉を聞かされる。
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