第144話 自分の部屋

「……ふぅ」


 一旦状況を整理しよう。


 神崎家には客間がない。わかる。


 だから美咲の泊まる場所が必要。わかる。


 美咲が俺の部屋で一緒に寝泊りする。わからない。


 それを美咲から言い出した。わからない。


 だめだ半分も理解できてねぇ。俺の知能の限界か……。


 美咲が俺の部屋で寝泊まりする辺りから本当にわからない。それを美咲が言い出したのが一番わからない。


「美咲、もしかして姉貴に何かとんでもない弱みを握られてるとかないよな?」


 もうそれしか考えられない。あの美咲が自分の意志で言うとは到底思えない。


 恋愛方面ではよく顔を真っ赤にしてフリーズしてしまう可愛い彼女だぞ? キスの時だって自分からしてきたくせに焦って真っ赤になって早口で言い訳をするくらい可愛い彼女だぞ?


 それが同じ部屋で一緒に寝泊まりするとか言い出せるか? いやない。


 だとしたら姉貴に唆されてるに違いない。姉貴……何を仕込んだんだ?


「七海さんには相談に乗ってもらっただけだから……これは私の意志、だよ」


 どんどん声が小さくなっていく美咲。また顔を赤くして俯いてしまった。


「……」


 え? じゃあマジで美咲が言い出したの?


 姉貴……うわぁ、すげぇ楽しそうにニヤニヤしてる。外野から見てるの楽しいんだろうな。いい性格してるわ。


 そうだ親父。親父ならこんな時正しい答えを出してくれるはず。


「親父! いいのかそれで!」


 親父がダメと言えばすべてが覆る。これは神崎家鉄の掟。


 頼むぞ親父。真っ当な答えを出してくれ……!


「いいんじゃないか? 相原さんも八尋と相部屋の方が安心できるだろ。彼女にとってここは完全にアウェーだからね。彼氏なら彼女を安心させるのも仕事じゃないか?」

「お、親父……」


 ちくしょう別方向で真っ当な意見だよ。全然言い返せる理屈が出てこねぇ。


 そうだよな。たしかに俺は俺のことしか考えてなかった。親父の言う通り、ここは美咲には完全アウェーだ。姉貴っていうちょっとした知り合いはいるけど、半分以上は初めましての人たちだ。かなり気を遣うことになるだろう。


 とすれば、部屋の中でくらい気を休められたり、相談する相手がいた方が安心できる。


 その理屈に納得できるが……ほんとにいいの? 俺の理性はちゃんと獣を抑えててくれるかな? 自信ないよ?


「……八尋君が嫌なら七海さんの部屋に泊めてもらうよ?」


 その言い方は反則だよなぁ。断れねぇって。


「美咲がいいなら構わねぇよ。実際俺も嬉しいし」


 べつに最初から嫌なわけじゃなかった。むしろ嬉しい方が強い。


 俺が気にしてたのは、本当にいいの!? っていう倫理的確認だった。


 最初から肯定的だとケダモノ扱いされちゃうし、やっぱ人として守るべき節度ってあるじゃん?


 でもあらゆる方向から許可が出たのであればもうそれはOKなんだよ。だったら乗るしかねぇだろ? このビッグウェーブに!


「そっか……よかった」

「どうだ親父。俺の彼女は最高に可愛いだろ?」

「そうだな。お前にはもったいないくらい可愛いな」

「だろ?」

「もう! 八尋君! 今はそういうのいいから!」


 美咲は真っ赤になった顔で俺の脇腹をぽかぽか叩く。ふ、気持ちいいぜ。叩かれているのにほっこりする。これが愛情の度合いだぞ姉貴。だからもっと弟に愛情を持って接しろ。


 いつまでも玄関で油を売っても仕方ないので、荷物を置くために部屋へ向かう。


 途中、リビングの奥で母さんが一人夕食の準備をしてるのが目に入って、俺はリビングに顔を出した。


「母さん、ただいま」


 その声に、母さんは作業の手を止めて俺の方を向く。


 目が合えば、母さんは柔らかい笑顔を俺に向けてくれた。


「あら、おかえり」


 思ったより普通の反応だ。六花みたいにツンケンされるかと思った。でも違った。だから逆に何を考えているのかわからない。


 母さんも俺じゃない俺に期待をしていた側の人間だ。今の俺をどう見るのかファーストコンタクトで掴んでおきたかったけど、これじゃわからないな。


「そちらは例の?」

「なにそれ流行ってんの? 俺の彼女だよ」


 父さんと同じ反応するなよ。ぼかされると怖いんだって。普通の可愛い彼女よ? 例の? みたいに言われるような彼女じゃないよ?


「初めまして。相原美咲……です」


 声から美咲の緊張が伝わる。まだ緊張してるのか。これで最後だから頑張れ美咲!


 美咲がぺこりと丁寧に頭を下げると、母さんは優しく美咲に笑いかけた。


「ご丁寧にありがとう。何もない家だけどゆっくりして行ってね」

「はい。ありがとうございます」

「じゃあ俺たち部屋にいるから、晩御飯って何時ごろだっけ?」

「19時くらいよ」

「了解。そんくらいに降りて来るよ」


 俺たちはリビングを離れて俺の部屋へ再び向かった。


 2階の一番奥、そこが俺の部屋だ。1年半振りに帰って来たわけだが、その割にはほこりが溜まっていない。俺がいない間も誰かが定期的に掃除をしてくれたんだろう。たぶん母さんかな。というかそれ以外考えられない。親父も姉貴も、それに六花がするわけないもんな。俺にはわかるぞ。


 美咲は俺の部屋に入るなり興味深そうに隅々まで物色を開始した。あの……べつに変なものは置いてないからね?


 漫画本や参考書。かつての俺が作った基地をそのまま流用している部屋。むしろ、俺自身が買ったものは何ひとつない。だからかな、俺の部屋って実感があまりないのは。


「八尋君はこういったものが好きだったんだね」


 美咲は本棚の漫画を手に取った。たしかちょっとひねくれた主人公が活躍するサッカー漫画だったかな。


「みたいだな」

「なんか反応が薄い」

「まあ、ここは言ってしまえば俺じゃない俺の部屋だからな」


 他人事のように反応してしまうのは、やはり俺とあいつでは趣味嗜好が違うからかもな。俺はどっちかと言えば王道の方が好きだし。情に厚くて格好いいヒーローの方が断然魅力的だろ。


「ここには昔の俺がいっぱい詰まってて……以前はずっと息苦しかったのを覚えてる」

「八尋君……」


 勉強机の肌をなぞる。


 この部屋は、神崎八尋のものであって俺のものではない。あの頃の俺はそんな下らねぇことをずっと考えてたっけな。今思えば本当に下らない。俺は、どこまで行っても俺でしかないってのにさ。


 そう気づけなかった。それはたぶん心に余裕がなかったから。誰かに必要とされたくて、必死に演じていた自分。自分自身の存在理由を見つけられなくて、闇に沈んでいた。


 周りを見る余裕も、俺自身を顧みる余裕も、何もなかった。美咲に出会って救われた今だからこそわかる。そう思えることが、俺の成長なんだろう。


「でも今は違うな。前の俺はこんなものが好きだったんだなって、前向きに見られる」


 心の持ち様で同じ景色も違って見える。俺を否定するためにあると思っていたこの部屋も、今はただの部屋でしかない。まだ俺の部屋とは思えないけど、それでもただの部屋だ。


「そっか……そうだね。八尋君は八尋君だもんね。そこに違いはないよ」

「それに気がつくまでに、随分遠回りしちまったよな」


 俺は、君のその言葉に救われたんだ。


「晩御飯まで暇だし、適当に部屋でゴロゴロするか。何もしなくていいのは実家の特権だからな」


 苦笑いする美咲と一緒に、晩御飯の時間までのんびり過ごした。このぐうたら発言に苦言を呈さないあたりが、まさに美咲の甘さ。天使の慈愛である。


 楽しい時間はあっという間で、気がつけば下で母さんが俺たちを呼ぶ声が聞こえた。


「お、もうそんな時間か」

「よそのお家のご飯は始めて食べるから楽しみ」

「ボスの料理には敵わねぇと思うぞ?」


 ここは一般家庭だからね。本職の人には勝てないよきっと。


「比べるつもりなんてないよ。ただ楽しみなだけ」


 軽い足取りの美咲と一緒に、俺たちはリビングに降りた。もう緊張は解けたらしい。


 晩御飯。みんなでご飯を囲む時間。家族の時間。全員集合。


 俺の……戦いの時間だ。

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