第142話 ただいま
豪邸とは言えないまでも、そこそこの広さを持つ一軒家。
車から荷物を降ろして、俺は神崎と書かれた表札に目を向ける。
「ここが八尋君の家……」
「まあ……そうなるな」
俺の実家。そう言われてもどうにも実感が湧かないのは、やはり俺にはこの家で積み上げた記憶が少ないから。帰巣本能とかいうものが発動するにはまだ年季が足りてない。それもそうだろう。今一人暮らしをしてる家の方が住んでいる期間は長いから。
なんて雰囲気に浸ってしまうのは、俺が内心の不安を拭えないから。覚悟を決めてきたはずなのに、家を前にして足が竦んでやがる。気張れ八尋。お前は今を変えたくてここまで来たんだろ。逃げないって、決めたんだろ。足に力を入れて気合を入れ直す。
チラリと隣を見る。よかった。美咲には気づかれてない。自分の家を前にしてビビる男とか恥ずかしすぎんだろ。天使の隣に立つ男がしていい所業ではない。
「なんか緊張してきた……」
美咲は美咲で石像のようにカチコチになってた。可愛い。
「今ならまだ帰れるぞ?」
「それはやだ。私は八尋君のことをもっと知りたいから。それに……」
「それに?」
「ううん……なんでもない」
美咲はふるふると首を振ってそれ以上何も言わなかった。一瞬曇った表情を見せたのが気になる。
でも不思議なもんで、自分より緊張している人を見たら俺の緊張が少し和らいでいる。鉄球をくくりつけられたかのように重かった足が今は軽い。これが天使のバフ効果か。最強だわ。
「ほら、いつまでもボーッとしてないでさっさと入るわよ。ただでさえ暑いんだからさ」
車を置いて戻ってきた姉貴が俺の背中を叩く。見えなかったけど、背中に感じた衝撃が覚えている。姉貴の攻撃による痛みってやつをよ……。
「わざわざ叩く必要はねぇだろ……」
背中が痛い。姉貴の手型ができてるかもしれない。
「大丈夫よ。あんたの味方もちゃんといるから」
追い抜きざま、姉貴は俺にだけ聞こえる程度の小さい声量でそっと言う。
「なんのことだよ?」
「さぁ? なんだろうね?」
姉貴は不敵に笑って先に家へ入って行った。
あの野郎……俺がビビってるの見抜いてやがるな。普段はがさつなくせに、そうやって意外と人の機微に気づいているのがムカつく。背中だけでどうしてわかるのかね。美咲は全然気づいてねぇって言うのにさ。
それに何がムカつくって、あの姉貴のセリフで俺の心がまた軽くなったことだよ。そんなんだから俺は姉貴に一生勝てねぇって刷り込まれちまうんだ。ほんとムカつく姉だよ。でも、ちゃんと姉なんだよな。
「美咲、俺たちも行くか」
「うん」
そう言って、美咲は俺に手を差し出してきた。なに? エスコートしろって? この短い距離を?
美咲は無言で俺を見つめている。なんだ……いつもより積極的な気がするんだが?
俺の家族に八尋は私のものだからって先制アピールをするつもりなのか? もうアピールしなくても心は美咲のものなんだよなぁ。
「ん!」
もう一度強く催促される。ちょっと強い感じで言うの可愛い。
俺が美咲の手を取れば、彼女は満足したのか頬を緩めた。
握った手が少し震えていたけど、俺が手を取ればその震えもおさまった。なるほど、緊張してたから手を引いて欲しかったんですねお嬢様。ただ手を繋ぎたいだけかと思ったけど、ちゃんと理由があったのね。納得。今日はやけに積極的じゃん……って思った俺を殴って。ご褒美だったわ。
繋いだ手から美咲の熱が伝わって、俺の心はいつのまにか落ち着きを取り戻す。二人で分け合えば一人の重さは半分になる。緊張もそうなのかもしれない。手を繋ぐだけで、こんなに心が軽くなるんだから。
俺は美咲の可愛いお顔と手の感触を堪能しながら、玄関までの短い道をエスコートした。
「八尋、おかえり」
玄関を開ければ、年相応に老けた顔をした穏やかなおっさんが出待ちしていた。どことなく俺に似ているのは当然のこと。いつからいた? 隣に姉貴がいるから、きっと今さっきだとは思う。
それを見た美咲は慌てて俺の手を離した。家族にラブラブ度を見せつけるのはまだ早いらしい。
「ただいま。いつぞや親父が家に来た以来か」
「随分久しく会ってない気がするな。そちらは例の?」
「ひゃ、ひゃい!?」
親父が美咲の方に目配せすれば、隣から素っ頓狂な声が上がった。
美咲はそれはもうガチガチに固まっていた。解像度が落ちてポリゴン体になっている。目の錯覚。
てか例の……って何? 秘密結社の取引現場か何か? ただの神崎家なんだよなぁ。いったいどんな伝え方してるんだよ姉貴。親父の隣でニヤニヤしてる姉貴を訝しんでも、姉貴は素知らぬ顔をするだけだった。いやマジでなんて紹介したの? 普通はいきなりそちらは例の? とかいう単語は出てこねぇから。
あとなんで親父もちょっと緊張してんだよ。笑顔引きつってんぞ?
「えと……」
「俺の彼女の相原美咲さん。最高に可愛い俺の天使。姉貴から話は聞いてると思うけど、一緒に1週間ここでお世話になるから」
どうにも美咲が使い物にならなそうなので代わりに答えた。完璧な紹介だろ?
しかし、美咲がこうもガチガチになるのは初めて見た。べつに父さんは威厳とか威圧を発する人間ではない。芯はしっかりしてるけど、普段は温厚なおっさんだ。ちなみに怒ると怖い。
でもよく考えたら一人で彼氏の家族が揃う家に泊まるのってめちゃくちゃ緊張するわな。俺が相原家へ単身泊まりに行くってなったら滅茶苦茶緊張するもん。事前に寺で心頭滅却の修行をするまである。
そう考えれば、美咲の緊張も当然か。さすがに緊張しすぎな気もするけど。もう一回手を繋いで緊張ほぐしとく? 俺がしたいだけなんだけどさ。
「あ、相原美咲です! よ、よろしくお願いします!」
たどたどしい口ぶり。美咲は勢いに任せて思い切り頭を下げた。
それに合わせて親父も頭を下げた。
「よろしくお願いします。そうか……君が……」
顔を上げた親父は、美咲を見て何か自分の中で納得したように頷いている。委員長のライブで最後方にいる連中がたまにしている表情だ。それは親父に対して失礼か。似てるけど、たぶん分類的には違う……はず。
まさか惚れたか? いくら血は争えないとは言っても息子の彼女にちょっかい出すなよ?
「しかし、まさか八尋にこんな可愛い彼女がいたとは……」
「おい。息子に可愛い彼女がいてそんなにおかしいのかよ? むしろ喜べよ」
「どう見ても八尋にはもったいなさすぎる。なにか弱みでも握ったんじゃないだろうな?」
「素直に認めることはできねぇのかよ! 正攻法で付き合ってんだよこっちは!?」
実の息子をもう少し信用しろって! たしかに俺と美咲が付き合うのは奇跡に近いものはあるよ。でもさ、家族なんだからそこはしっかり信用しとけって。本当にコーヒーと一緒に俺の信用を溢しちゃった? ちゃんとふき取って元に戻しておけよ。
親父は未だ信じられないと言った様子で美咲を見ている。
「あ、あの!」
そこで美咲がバッと顔を上げた。
「わ、私はべつに八尋君に弱みを握られてるわけではなくて! 本当に八尋君が好きで付き合ってます!」
美咲の言葉が以外だったのか、親父は面くらって固まってしまった。
「あ、あう……」
そんな親父を見て、美咲は今自分が何を言ったのか気づいたようだ。みるみる内に顔が紅潮して、耳まで旬のトマトより深紅に染めて俯いてしまった。
いや、俺もどうしていいかわからねぇ。美咲が可愛すぎるんだ。え? この流れで俺も愛を叫んだ方がいい?
「やけに騒がしいけど、なにかあった?」
そんなことを考えていると、リビングから一人の女の子が姿を現す。
部屋着なのか、シャツにショートパンツといったラフな格好。肩にかかる程度の髪。額には年相応の可愛らしい髪飾りを着けている。
「……あ」
目が合う。
「ただいま、
俺が言えば、六花は気まずそうに俺から目を逸らした。
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