第140話 いざ、里帰り

 色々あった夏休みも中盤戦から後半戦へ移り変わっていく今日この頃。俺は家の中で一人そわそわしていた。


 戸締りもした。電気代がかかりそうな家電の電源は引っこ抜いた。念のため普段絶対使わないガスの元栓も締めた。


 リビングには1週間分の着替えを詰めたキャリーケースがある。


 そう、今日は里帰りの日だ。


 ぶっちゃけ緊張しすぎて昨日あまり眠れなかった。


 自分の家へ帰るのだけなのに緊張する。染みついたトラウマは中々消えないってわけね。ほんと嫌になるわ。


 意味もなく玄関まで歩いては引き返したり、とにかく気を紛らわせようとしていた。


「……来た」


 携帯が震える。この地獄の底から悪魔が召喚されそうな呼び出し音。我が宿敵に他ならない。


 もう名前を見て絶望するのが嫌だから悪魔専用の着信音にした。電話が鳴った時点で覚悟が決まるから結構オススメ。


「もしもし。俺だけど」

「……出るのが遅い」


 開口一番文句を垂れる。弟のことを一切気にしない態度が妙に落ち着く。


 俺も随分と飼い慣らされちまったな。血でわかるんだよ。抗えない上下関係ってやつがさ。


 でも俺はちゃんとワンコールで取ったんだが? これで遅いとは何事?


「随分と生き急いでるんだな」


 ただで殴られる俺ではない。最後は酷い理不尽を食らうとしても、サンドバッグになるつもりはない。


 なんの気なしに言葉で殴り合えるのも姉弟の特権。さあ、舌戦を始めよう。


「うるさい。このクソ暑い中電車で行きたいの?」

「あ、はいすみません」


 秒速で敗北する男。ワンパンでKO。俺は完膚なきまでに敗北した。


 そもそも今回は戦いの土俵が悪かった。俺を車で実家まで送ってくれる時点で俺に勝ち目はなかった。俺の移動を人質にされたらそりゃ勝てないって。最近マジで暑いし、今日も天気予報では猛暑日って言ってたし、そんな中を徒歩と電車で行けは死ねと同義ですよ。


 今日の俺はサンドバッグになるしかないってことを思い知らされた。まさか姉貴……わかっててやってるのか? この悪魔め。


「くだらないこと言ってないで早く降りて来なさいよ。もう下にいるから」

「あいよ」


 俺は電話を切り、荷物を持って家を出た。


 本日快晴なり。日差しは日に日に強くなっている。


 ふ……本気をだして来やがったな太陽。外へ出た瞬間にむわっとした熱気が俺に挨拶をかましてきやがる。殊勝な心掛けは褒めてやるが、少しは手加減しろ。天然のサウナか?


 そんなわけで、階段を下りて姉貴の車にたどり着くだけで汗が染みだす俺の身体。ほんとに暑いな。


 こんな状況で移動手段を人質に取られたら勝てないと身に染みてわからされた。


 黒い軽自動車。太陽の熱を一心に受け止めてしまいそうな車の運転席をノックする。サングラスをかけた姉貴はチラッと俺の方を見た後、親指で後ろを指差した。


「先に荷物を入れろってことね」


 窓すら開けないとは、よほど外の空気を入れたくないらしい。


 ちんたら荷物を後ろに積んでいたら、暑い! と誰でもわかる文句を言われるかもしれない。それは面倒くさいのでバイトで培ったテキパキスキルで荷物をしまう。


「あんたは後ろ。助手席は出禁よ」


 助手席のドアを開けた瞬間に速攻で出禁を食らった。車に出禁とかあんの?


「いや二人しかいないなら助手席でいいだろ?」


 姉貴の車で家に帰る。この時点で同乗者がいないなら、これ以上人は来ないだろ。


「だめよ。あんたは助手席禁止。これは決定事項よ。破ったら歩きだから」


 その脅し文句チート過ぎんだろ。それこそ禁止カードにしろよ。


 その言葉使われたら今の俺は大抵の言うこと聞いちゃうからな? この暑さで歩きは本当に嫌だからさ。姉貴の傲慢なお願いと歩きを天秤にかけたとしても、間違いなく姉貴に軍配が上がる。それだけ今日は殺人的な暑さだ。


「べつにいいけどさ。座る場所なんてどこでもいいし」


 つっても面倒くせぇ性格してんなこいつ。座る場所なんて正直どうでもいいだろ。


 せっかく助手席の方が会話しやすいだろうと気を利かせたのに。まあいいけどさ。足出してくれたことは本当に感謝してるから。それに歩きは嫌だし。


「んじゃ、行くわよ」


 後部座席に座れば、姉貴は早速車を発進させた。


 今日はやけに生き急いでんな。この前は惰眠を貪るのが用事と言ってたお前はどこに行った?


 それに電話ではわからなかったけど、姉貴の言葉尻はどこか明るい。なんかいいことあった?


「あれ? 家ってこっちの方だったっけ?」

「気にしないで。ちょっと寄り道するだけだから」


 寄り道、ねぇ。なんかどんどん見知った景色になっていくのは気のせい? なんていうかさ、よく家からバイト先に向かう時の景色なんだわ。強いて言えば美咲の家が近い。


 そして美咲の家が近づいたからか、俺の頭には最愛の彼女の姿が浮かんでくる。想像上でも鮮明に映し出せるのは愛のなせる技。なんなら目の前にいる姉貴より鮮明に見える。


 1週間も離れ離れになってしまうけど、こればっかりは美咲が立ち入れる問題じゃないからごめんな。想像上の美咲は心配そうな顔をしていた。これは俺が映した幻想。俺の中の美咲は俺を心配してるのか。可愛いけど、俺は笑ってる顔が一番好き。


「なあ、姉貴の用事ってなに?」

「ん? 今にわかるわよ」


 そう言って姉貴は車のスピードを緩めて停車する。


「ここって……」


 喫茶雪の岬と書かれた看板が目に入る。どうみても俺のバイト先だった。というか美咲の家。


「挨拶してくるからちょっと待ってて」


 姉貴は車を降りると、流れるように店の中に入って行った。


 あまりに意味がわからない状況に頭が混乱して思考が止まる。


「挨拶って……え? どゆこと?」


 やがて思考は回復するも、状況は依然意味不明だった。


 なに? いつも弟がお世話になってますとかボスに言いに行くの!? いや意味わかんねぇし! てか今日である必要性まるでないんだが!? 何がしたいんだあいつ!? まずいだろこれ!?


 どうまずいのかは言語化できなかった。でもとにかく、姉貴の奇怪な行動を止めるべく車を出ようとするも、それより先に姉貴が帰って来た。隣に大きなキャリーケースを持った我が最愛の天使を添えて。


「……は?」

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