第139話 駆け抜ける夏⑤

「探したよ。八尋君!」


 そこには水なのか汗なのかわからないほど全身に水滴を纏った天使が降臨していた。


「美咲……」

「もう……油断したらはぐれるって言った側からいなくなるんだもん。ビックリしたよ」

「悪い。ちょっと放っておけないイベントがあったんだよ」

「……なにがあったの?」

「大したことはないよ。迷子の女の子を助けようとしたらその子のお兄ちゃんにドロップキックかまされただけ」

「大したことだよ!? なにしてたの!?」

「ほんと……なにしてたんだろうな?」

「……」


 そこで美咲の表情が変わる。


 不意に近づかれて怪訝そうな表情で覗き込まれる。


 ち、近い。それに今は肌色面積が多いから目のやり場が……神よ……欲に負けない鋼の心を……っ!


「うーん……」


 何度か舐め回すように顔を見られた後、美咲はちょこんと俺の隣に腰かけた。


「美咲?」

「みんなのところへ一緒に行こうかと思ったけど、やめた!」


 明るい声で言った美咲は、身体を捻ってまた俺を覗き込む。


 綺麗な瞳の奥に映るのは俺の顔。まるで俺の深層を見透かされているような気になる。


「なにか話したいことがあるなら聞くよ? 八尋君、そんな顔してる」


 彼女は柔らかく微笑む。


「……」


 敵わねぇな……ほんとに……一生敵う気がしない。


 なんで顔を見ただけでわかるんだよ? エスパーかよ。


 あまりに凄すぎて感嘆のため息しか出ない。


 でもそうだな。丁度誰かに聞いて欲しかった気分なんだ。


 美咲なら尚更。ただのしょうもない。ある男が通った失敗と後悔の道を。


「兄弟の絆ってやつを見せつけられてさ、自分のことに置き換えて考えてたんだ。そしたら、なんか色んな後悔とかがこう……突然押し寄せてきたんだよ」


 苦笑いすることしかできない。くだらない過去の幻影に俺はまだ囚われていたんだから。


 記憶喪失。俺とは切っても切り離せないもの。今後一生付き合っていかなきゃいけないありがたい荷物。


「後悔……」

「周りに目を向ける余裕がなかった俺の、華麗なる失敗の話だ」


 美咲も知ってる。それで色々話したから。


 その中で家族の話もした。全部は語ってないけど、色々失敗したって話はした。


「姉の他に妹がいるって話はしただろ?」


 美咲は黙って頷く。


「六花って言うんだけどさ、すげぇお兄ちゃんっ子だったんだよ」


 ひとつずつ頭に浮かんだ後悔を言葉にしていく。


「ずっと後ろを着いてきた。すごく俺を慕ってくれてた」


 だから裏切っちゃいけないと思った。


 望まれてるならそれでいいと思った。


 ひとつひとつ、言葉を紡ぐ。


「だからこそ俺は、最初から俺は俺なんだって言わなきゃいけなかった。下手に希望を与えちゃいけなかったんだ」


 感情の波は希望と絶望の落差が大きいほど激しくなる。


 六花は希望を抱いただろう。兄は記憶が無くなっても自分の知っている兄のままなんだって。


 そんな希望を抱かせておきながら、俺は自分の心が耐え切れずに彼女へ絶望を与えた。


 兄は兄でも、もう六花の知っている兄ではいられないんだと。


「結果、六花は俺に対してよそよそしくなり、俺は逃げるように家を出た」


 まあ、付け加えるなら母さんも六花と同じ考えなんだろうな。


 俺を見る目が何となく別の誰かを見ているような感じだったから。


 俺の奥にいる、そこにいたはずの誰かを見ている。あの時の俺はそう思っていた。


「以上、俺の後悔の話でした!」


 最後は無駄に元気を出して話を締めた。


 こんな暗い話は、本来楽しい場所でするようなものじゃない。


 仲のいい兄妹を見てナイーブになったけど、美咲に吐き出してだいぶスッキリした。


 だからおしまい。


「悪いな。つまんない話で」

「大丈夫。むしろ八尋君の弱い部分を見られて安心した」

「えっと……それはどういう?」

「八尋君はあまり人に弱さを見せないから、時々不安になる。今、君の心はちゃんと無事なのかなって」


 優しさの中に隠れた寂しさ。美咲の表情からそれが見えた。


 弱さは人に見せない。それは世の男の子みんなが考えることだと思う。


 同情して欲しいわけじゃない。つらいと吐き捨てて慰めてもらいたいわけじゃない。


 弱さは甘さだ。それに、弱っているところを見せたら心配をかけてしまう。


 と思っていたけど、そのせいで逆に誰かを心配させてしまう時もあるらしい。


「美咲に話してだいぶスッキリしたから大丈夫だよ。誰かに話すってのはそれだけで心が軽くなるもんなんだな」


 これ以上心配をかけないように努めて明るく振舞う。


 大丈夫。弱音を吐くのはここまでだ。ちょっと仲のいい兄妹を見て嫉妬しちゃっただけだから。


 心が軽くなったのは事実だ。二人で背負えば半分になる。いつか美咲に言われた言葉。


 その通りだ。余計な情報を背負わせたかもしれないけど、心はその分軽くなった。


「本当に?」

「信用ないなぁ」

「うーん……」


 また、美咲は至近距離で俺の顔を覗く。今日はやたらと距離が近い。


 でもなんか今日は怪訝そうな表情が多いっすね。俺、疑われてる?


「元気だって。なんなら全力でプールに飛び込むか?」 


 神に誓って嘘は吐いてないですよ! 元気元気! 美咲に話して超元気になったから、全力でプールに飛び込めるくらい回復したよ?


 立ち上がってプールに走りこむポーズをした瞬間に監視員と目が合った。恋の始まりを一切予感させない冷めた目だった。


 うっす。自分は優等生なんで飛び込みなんてしないっす。俺は権力に屈した。


「というのは冗談で」


 まあほら、俺は模範的な高校生だからね。常識は弁えてるんですよ。


 だからそんな目で俺を見ないで監視員さん。


 いや待て、よく見たら俺じゃなくて美咲を見てないか? おい、鼻の下伸ばしてんじゃねぇぞ。女子じゃなくてプール監視しとけや! え、隣のもしかして彼氏? みたいな顔やめろ。ちゃんと彼氏だよ!


「本当に大丈夫だからさ。後悔は全部過去の出来事だってわかってるから」


 気を取り直して美咲へ向き直る。


 後悔先に立たず。その言葉通り、後悔は後になってから起こるもの。


 過去は過去。今は今。過ぎ去ったものをいつまでも引きずったって仕方がない。


 大事なのはその過去があった上で、今をどうするか。


「過去を全部受け止めて、その上でやり直す。そのために俺は実家へ帰るんだ」


 美咲に気持ちを吐き出したから自分の中で整理できた。


 言葉に出すのは気持ちを整える上でも有用だな。


「だからもうこの話はおしまい。そろそろみんなのところに戻ろうぜ」


 ずっと二人でいるのも俺は全然ウェルカムなんだが、またイチャイチャ警察が騒ぎそうだからなぁ。


「うん」


 美咲はいつもの笑顔に戻っている。どうやら俺の話に納得してくれたらしい。


 だけど、美咲はベンチに腰掛けたまま動かない。


「どうした?」

「よく考えたら……私まだ感想もらってない」


 美咲は何かを思い出したのか、急に不服そうな顔を俺に向ける。


 問。俺はどこで地雷を踏んだのでしょうか?(全人類への問いかけ)


「感想?」

「そう。水着の感想。八尋君私にだけ何も言ってくれなかった」

「いやぁ……その……」


 むくれる美咲も最高に可愛いけど、今はそれを言う空気ではない。


「もしかして……似合ってなかった?」

「そんなことない!」


 大声で否定すると、美咲は驚いたように目を見開いた。


「そんなことない。その……綺麗過ぎて言葉が浮かんで来なかったんだよ」


 言ったセリフが歯に浮きまくってるのでたまらず目を逸らす。


 それ以外にも、やっぱり美咲の水着姿が可愛すぎて直視できないのもある。


 肌色面積が……神秘が……。こいうところがチキンなんだよな俺。


「え……」

「似合ってるのは大前提として、うまい言葉が出てこなかったんだ。他のやつらは普通に似合ってるだけでいいけど、美咲にはこう……もっとちゃんとした言葉で伝えたかったんだ。まあ、考えてもダメだったんだけどな」

「そう……なんだ」


 美咲は頬を朱く染めて表情を崩した。


「気を悪くしたなら謝る。悪かった」

「じゃあ、今からちゃんと感想を言ってよ。それで許す!」


 ベンチから軽快に立ち上がった美咲は、その姿を見せびらかすように俺の前に立つ。


 俺は、ものすごい張りと艶のある肌色を視界に収めながらその姿を凝視した。


「う……まじまじと見られるのは意外と恥ずかしいかも……」

「美咲が言い出したんだろ?」

「そ、そうだけど……」

「可愛いよ」

「え……?」


 理性が吹き飛ぶ前に静かに感想を告げた。


 美咲の目を見てはっきりと。たしかな意志をこめて。


「可愛い。色々考えたけど、それ以外の感想が出てこなかった」

「そっか……」

「ごめんな。語彙力がなくて」

「ううん……嬉しい。すごく嬉しいよ」


 美咲は目を閉じて自分の胸に手を当てる。


 俺からもらった言葉をしっかり受け止めるように、大事そうに抱え込んでいる。


「好きな人からもらう可愛いは格別だね」


 やがて、美咲は恥ずかしそうにニヒヒと笑いながらそう言った。


「俺もかっこいいの言葉を受付中なんだけど?」

「ふふ……それはとっておきのタイミングで言うから今はダメ」

「えぇ……」


 露骨に残念がる俺を、美咲は面白そうな様子で眺めていた。


「とっておきって……いつ?」

「秘密」

「えぇ……」


 答えは教えてくれなかった。


 その後篠宮たちと合流した俺はたっぷりとしごかれ、なぜか全員分の飲み物を買わされた。


 人を助けようと思ったのにこの仕打ちはどうなのよ?


 まあでも、うん。色々と整理できた。


 やるべきことがハッキリした。あとは相手次第って感じだな。


 その後はみんなでウォータースライダーに乗ったり、イチャイチャ警察に補導されかけたりと慌ただしく休日は過ぎていった。


 そんな、夏の1ページだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る