第138話 駆け抜ける夏④

「ご、ごめん兄ちゃん!」


 場所を移してプールサイドのさらに端っこ。


 人気のないところでお兄ちゃんが地面にめり込みそうな勢いで頭を下げた。


「あぁ……うん、大丈夫。男の子って小さくても結構力あるんだなって思っただけだから」


 小学生に吹っ飛ばされる高校生ってどうよ? 俺も筋トレした方がいい?


 無実の罪をなすりつけられるよりそっちの方がショックだったり。暴力、怖い。俺、弱い。


「それに俺の無実も証明されたわけだしな」


 澄水ちゃんの一言で誤解が解けたのか、野次馬は興味を失くしてさっさと消え去った。帰りな、自分の世界に。


 サンキュー澄水ちゃん。君のおかげで俺の社会的地位は守られた。


 でもよく考えたら俺なんも悪いことしてないよね。冤罪ってこんな感じで生まれてくんだろうな。俺は今、社会の闇をその身で実感した。


「ほんとごめん! 澄水が変な奴に絡まれてると思ったから俺……いてもたってもいられなくなって!」

「変な奴……」


 それって、俺? 俺しかいないよね。


 言葉の暴力が過ぎるぜ! 純粋な子供に言われる言葉の破壊力たるや、普段行われてる同年代との小競り合いの何倍もある。あの、俺……変な奴じゃないよ?


 無事に解決したのにまだ攻撃されちゃうの俺? そろそろ泣くぞ?


 なんで俺人助けしようとしてこんな返り討ちに遭ってるんだろう。酷いよ現世。俺がなにしたって言うんだ。一人でいた小さい女の子に話しかけたのが罪だって言うのか? 言葉だけだと普通に罪だわ。ギルティじゃん俺。


「まあ妹がいきなり大きな男に話しかけられたらそりゃ守りたくなるよな」


 理不尽な目に遭ったと思いつつ、少年の行動を否定するつもりはない。


 彼は勇気を振り絞って俺から妹を守ろうとしたんだ。澄水ちゃんが本当に悪い奴に話しかけられていたら、彼は今頃ヒーローだ。今回は違ったけど、行動自体は立派そのものだ。


 羨ましくなるほどの兄妹の絆を見せつけられちまった。


「震えながらも妹を守る姿はかっこよかったぞ少年」


「ふ、震えてないし!」


 彼はぶっきらぼうに言って視線を逸らした。


 澄水ちゃんはお兄ちゃんを尊敬の眼差しで見ている。俺も妹からそんな風に見られたい。


「そっか。じゃあ俺の見間違いだな」


 妹の前では格好いいお兄ちゃんでいたいのかもしれない。


 ここで突っかかるほど俺も馬鹿じゃない。


 かっこよさを称えるように、俺は少年の頭をガシガシ撫でた。蹴られたお返しにちょっとだけ強くガシガシした。


「な、なにすんだよ兄ちゃん!?」

「蹴られたお返しだよ。俺に突っかかるのは怖くなかったか?」

「怖いに決まってんだろ。でも行くんだよ」

「どうして?」

「俺が澄水の兄ちゃんだからだ! 妹が困ってたら、なにがあっても助けるのが兄ちゃんなんだよ!」

「そ、そうか……」

「兄ちゃんも妹ができたらわかるようになると思うぜ!」


 ばいばい。最後にそう言って兄弟は仲良く遊びに戻って行った。


 なんとなく、俺はプールへ戻る気になれなくて休憩スペースのベンチに腰掛けた。


 視界の先ではさっきの兄妹が子供用プールで水遊びをしている。


「妹が困ってたら、なにがあっても助けるのが兄ちゃん、か」


 ふと、明るい空を眺めながら漏らす。


 ただの子供の言葉。なのに俺の胸に重くのしかかってきた言葉。


「俺もお兄ちゃんなんだけどな」


 浮かんでくるのは複雑な表情で俺を見る六花の姿だった。


「そういや久しくお兄ちゃんと呼ばれてねぇんだな……」


 記憶を失くした当初、正確には俺が昔の俺を演じていた頃。六花は俺をお兄ちゃんと呼んでくれた。いつも明るい笑顔を見せてくれた。俺の後ろをずっとついて来てくれた。


 だけど今は……。


 俺が過去の姿を演じるのをやめてから、六花は急によそよそしくなった。


 呼び方もいつのまにかお兄ちゃんから「八尋さん」に変わっていて、それがなんだか寂しかった。六花にとって、「俺」はお兄ちゃんじゃないんだなって、そんな気がしたから。


 まさか、プールでこんな思いになるなんてな。完全に予想外だ。こういうのは実家に帰ってからだと思ってたよ。


 でも悪いのは俺だ。俺が最初からちゃんとしてれば、俺としての個を確立していれば、きっとこうはなってない。


 身から出たさび。俺と六花の関係が拗れたのだって、元を正せば俺のせいなんだよな。


 だから俺は……。


「やっと見つけた!」


 前からの声に、俺は空へ向けていた顔を元に戻す。

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