第118話 今度は俺が③
また静かな時間が流れる。迷いを感じる実梨の瞳。大きくてつぶらな瞳は淡く揺らめいている。
俺はその視線から目を逸らさない。全部受け止める。
その迷いに迷っている瞳から、俺はもう目を逸らさない。全部受け止めるってのはそういうことなんだよ。
「はじめはね……ほんのちょっとの違和感だったんだよ」
実梨は瞳を揺らしたまま、だけど俺のことをちゃんと見ながら話し始めた。
「あれ? なんか声が出づらいなって、そんな感じだったの」
そうして、実梨はゆっくりとここに至るまでの出来事を語ってくれた。
初めはほんの少しの違和感。歌う時に喉がつっかえるような、そんな感じ。でも普通に話すことはできたから気にしないようにした。
だけど、その違和感は徐々に大きくなり、ついに違和感ではなく確実におかしいことに気づいた。
「でもまだ歌えた。私にとっては歌が全てだったから、騙しながら続けてきた」
病院にも通った。どんな病院に行っても、原因がわからない。原因がわからなければ治しようもない。
どうしようもない不安を抱えながら、ステージ上では笑顔を振りまいていた。アイドルはステージ上では弱さを見せてはいけない。みんなの希望たる存在でなくてはならない。
気休めの薬と、のど飴。さらには喉にいい飲み物。頼れるものはなんでも頼った。
普通に話すことはできた。大きな声を出すこともできた。だけど、歌だけはどんどん歌い辛くなっていく。
事情を知っている事務所からは、少しアイドル活動を抑えてテレビなどの露出を増やしていく提案をされた。
自分でもどんどんおかしくなっていることに気づいていたけど、長く歌い続けるには事務所の意向も理解できた。
それから、歌の活動を減らしてテレビでお茶を濁すことが増えた。
全ては少しでも長く歌うため。もしかしたら何かの拍子に治るかもしれない。そう思いながら日々を過ごした。
喉の問題は事務所の一部の人と自分だけの秘密。誰にも知られないようにした。知られたくなかった。あの子にだけは。
「色々なものに縋った。だけどね、ある日とうとう本当に歌が歌えなくなっちゃった」
現実を受け入れられなくて、その日は一人誰にも見つからないところで一日中泣いた。
事務所からはしばらくアイドル活動を休止して、テレビなどのタレントにシフトしてはどうかと提案をされた。
少し考えさせてほしい。しばらくは病院に通って治療手段を模索していた。だけどやっぱり、喉の不調の原因はずっとわからないままだった。
自分にとっては歌が全てだった。みんなの前で自分の歌を届けることだけが全てだった。タレント業なんて、微塵も興味はなかった。
でも薄々気づいていた。喉は治らないかもって。
「そして私の心は折れちゃった。アイドルができない。それなら芸能界なんてやめようって思って本当にやめちゃった」
事務所の人は猛反対して引き止めにかかった。無期限の活動休止で治療に専念してもいいと言っていた。
でも、休めば治るの? 誰にも原因がわからないのに? 事務所の人は何も言えなかった。
そして、逃げるように事務所を辞め、芸能界を引退した。そして、芸能学校も辞めた。芸能人を辞めた自分には眩しすぎる世界だった。それに、周りで何不自由なく芸能活動をしている同年代を見るのが苦しかった。
「そうして今に至るんだ。これが、私のたどってきた道だよ」
満足した? 最後に実梨は悲し気に笑いながら言った。
「その先はやっくんの知っての通りだよ。普通の学校に通うなら、せめてまゆちゃんと同じ高校がいいなって思って受験して、合格して、そして君に出会った」
「俺に?」
「やっくん、君は私のとっての唯一の居場所だった」
実梨は俺から視線を外して再び窓の外を眺める。
「私は一般人になった。なのに、世間はそれを許してくれなかった。どこに行っても、アイドル中村みのりの影が付き纏った。みんなが見ているのはアイドル中村みのりだった。誰も、ただの中村実梨を見てくれなかった」
「実梨……」
「ああでも、バイト先は違ったね。杉浦先輩はちょっと怪しいけど、あそこにいる人たちはいつでも私を見てくれた」
「ずっと気になってたんだよ。どうしてバイトしようと思ったんだ?」
「やっくんと少しでも長くいるため。言ったでしょ? 君は私にとっての唯一と言っていい居場所だった。私が私で居られる場所。温かい世界。だから、そんな人たちに迷惑をかけそうになった時、私はとても申し訳ない気持ちになった。ああここでも、まだ中村みのりの幻影が邪魔をするのかってさ」
実梨はあの時そんなことを考えていたのか。全然気づかなかった。あの時の涙は、自分のせいで俺たちに迷惑をかけること、アイドル中村みのりがまだ自分の足を引っ張ることへの悔しさからきたものだったのか。
「私はアイドル。ただ好きなようにしていたら、いつの間にか国民的アイドルと呼ばれるようになっていた。本当はただ歌って踊るのが好きなだけの普通の女の子」
どこか寂し気に言う。
「じゃあ、それが無くなった私は? 私の居場所はライブステージだった。それしかなかった。でも、それは突然奪われた。私の居場所は、急に無くなっちゃった」
実梨はゆっくりと窓を開けた。
生ぬるい風が流れ込んで、実梨のサラッとした長髪がなびく。
外からは部活の掛け声のようなものが薄っすらと聞こえてくる。
「ねえやっくん……私の居場所はどこ? 歌えなくなった私は、どこにいればいいの? ほとんどの人がただの私を見てくれないこの世界で、私はどこに居ればいいの? ねぇ……教えてよやっくん」
俺に振り返った実梨の目には、光る雫が溜まっていた。
「教えてよ……私は……ただの私はどこにいればいいの?」
縋るような瞳が俺を捉える。
「…………」
俺は、大きな勘違いをしていた。俺はこう思っていた。多少のトラブルはあるけど実梨は楽しそうにしていると。
でもそれは違った。そんなものは表面上に過ぎなかった。だって、目の前の少女はずっと絶望していたんだから。
歌しか存在理由がなかった彼女から、ある日突然歌が取り上げらてしまった。
ゲームセンターでの美咲と話した内容を思い出す。
『実梨は迷子』
ボスが美咲に語ったその言葉。その時はよく意味がわからなかった。だけど今ならよくわかる。
最初に会った時から、実梨はずっと迷子だったんだ。自分の居場所を探し続けていたんだ。全然気がつかなかった。
ボスは最初から気づいていたってことか。だから実梨に居場所を与えようと、何か新しい生きがいを見つけてもらおうとバイトに雇ったんだ。どこまですごいんだよボス。
楽しそうにしていても、心の奥では自分の居場所を探してずっと彷徨っていた。取り繕うってのはそういうことかよ。
胸の奥に秘めた絶望を覆い隠すように、実梨は健気の鎧を纏って日々を過ごしていたんだ。
俺たちといる間もずっと。
「実梨……」
縋るような瞳に笑いかける。
実梨は……俺だ。多少中身は違うけど、記憶を失う前の俺と比較しては絶望してたあの頃の俺だ。過去が今の邪魔をしている。その点で俺と実梨には共通点があった。
だったらやることは単純だ。
「よし! やっと……全部吐き出してくれたな」
前に俺が天使に言われたセリフ。
「俺は、お前と似た奴を知っている。だけど違うのは、お前と違って今はちゃんと前に進んでるってところだ」
「私と……似ている?」
「お前にも話してやるよ。一人の凡人が、くだらねぇことで絶望して、そして天使に救われるまでの幸せの物語を」
美咲。あの時お前にもらったものを、今度は俺が実梨に渡すよ。
だから少しだけ、力を貸してくれ。
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