第110話 面倒になっちゃった

 病院の屋上。少しバイトに遅れることをボスへ連絡してからやってきた。


「やっぱり、屋上は何か大事な話をするって時の定番だよね」


 フェンスに背中を預けた実梨がにこやかに笑っている。途中の自販機で買ったレモネードを口に運ぶ。美味そうに飲むのな。


 俺は実梨の隣に並んでフェンスにもたれかかる。金属の軋む音。べつにいい感触とかではねぇな。


 屋上では車いすの子供とか、動ける患者さんがちらほら屋上から街並みを眺めていたり、会話をしたりしていた。


 病院の中にずっといるとここがいい気分転換の場所なんだよな。俺もそうだったからよくわかるわ。


「やっくん、どうしてそんな穏やかな顔してるの?」

「ん? ああ、ちょっと昔を思い出してな」


 懐かしいな。病室と屋上はいっとき俺の居場所だった。今となってはいい思い出だ。


 いい思い出。そうか。おれはあの時の出来事も過去としてちゃんと清算できてたんだな。美咲のおかげか。穏やかな顔ができてたのもそれが理由かな。


 そんな美咲は下で委員長に付き添っている。だから俺はこっち。この天邪鬼の話を聞く。


「それより、話に付き合ってほしいんだろ?」

「そうだったね。まあやっくんの方が話ありそうな感じだけどね!」

「あんなの見せられたらな……俺でも気になる」

「……そっか。どう思った?」


 含みがある視線。妖艶に感じてしまうのは実梨が持つ天性のものなのか。実梨の仕草にちょいちょいドキッとしちゃうのが悔しい。でも俺には美咲がいるから。消えろ俺の煩悩。美咲の笑顔を思い出せ。ああ、可愛い。空想上の美咲もやっぱり可愛い。


 よし、落ち着いた。


「実梨の考えがまるでわからなかった。お前、妹のこと大好きじゃねぇのかよ?」

「大好きだよ。そんなの当たり前だよね!」

「だったらなんで妹の心を傷つけること言うんだよ。アイドルを辞めろとまで言う必要があったのか?」


 さっきの委員長とのやり取りは、彼女には悪いが実梨の言っていることもわからなくはなかった。


 今の委員長は周りが……自分さえも見えてない。それを指摘するのは委員長の目を覚まさせるためにも悪いことだとは思ってない。


 だけど、アイドルを辞めろとまで言う必要はなかったと思う。それも直々の姉である実梨の口からだ。そこがわからねぇ。


「あるよ」


 唐突に変わる雰囲気。実梨の顔はいつの間にかぽやっとしたものから真剣なものに変わっていた。


 ここからが本題か。俺の心も自然と引き締まる。


 レモネードを一口飲んでから、実梨は小さく口元を緩めて話し始めた。


「やっくん……芸能界はね、君が思うよりずっと厳しい世界なんだよ。生半可な覚悟で挑んだらすぐに潰される。テレビで見ている有名人だって、表に出さないけどいつも自分が生き残るために必死に努力している。笑顔でも、あそこにいる人達はみんな狼だよ。隙を見せたら簡単に食べられちゃう」

「で、そんな中お前は最前線で生き残ってきたわけだ」

「まあ、結果的にはそうかな。私は野心とかなくて、ただ歌って踊るのが好きだっただけなんだけどね。でも私にはみんなを歌で笑顔にするってブレない目標が、理由があった」


 理由。さっき実梨が委員長に問いかけていたこと。


 なぜ、アイドルをやっているのか。実梨にとっての理由はみんなを歌で笑顔にすること。


「本当は歌って踊るだけがやりたかった。だけどまあそこは芸能界。やりたいことだけできるわけじゃない。だから興味はなかったけどバラエティ番組とかも出たりしたよ。でも、それも私の中に折れない目的があったから」


 実梨は空を見上げて、つられて俺も見上げる。眩しくはない空。夏に向かう日差しは雲によってブロックされている。


「今のまゆちゃんにはそれがない。だからこのまま進んだら遅かれ早かれまゆちゃんは潰れる。姉としてそれは見過ごせない。だからもし目標が見つからないなら早く辞めちゃった方がまゆちゃんのためなんだよ」


 姉として。さっきはアイドルの先輩としての言葉。今は姉としての言葉。


 芸能界という世界は、俺がなにかを語っていいような世界ではないんだろう。厳しい世界。どれだけ厳しいのか俺には全くわからない。だからこそ、その世界のことをとやかく言うつもりはない。言えるはずがない。


 ただ、実梨は委員長のことを心配している。やり方は褒められたものではないけど、それはわかった。


「お前の意見はわかった。でも委員長の意志は無視するのか? このままだと潰れるからさっさと辞めろってのは実梨の勝手な意志だよな?」

「そうだね」


 実梨はお茶を濁すようにペットボトルをあおる。


「そこは言い過ぎたかも。少し感情的になっちゃったかな」

「委員長泣いてたぞ。謝った方がいいんじゃねぇか?」

「いやだ。理由が見つからないならやめた方がいいって言うのは本当だし。口にしちゃったのは失敗したけど、どっちも私の本音だよ」

「いいのかそれで?」


 委員長は色々と見失っている。今の彼女を見ていたら、その言葉はなんとなく理解した。


「まゆちゃんはね、ずっと私の背中を追い続けていたの」


 実梨は懐かしむように遠くを見ている。その先には車いすを押している姉妹の姿。どっちが姉とかはわからないけど、二人は仲睦まじく笑っていた。


「私がアイドルを始めたら、いつか絶対にお姉ちゃんと一緒のステージに立つんだ! なんて言って自分もアイドルを始めちゃうくらい私の背中を追いかけていた」

「だけど、実梨はアイドルを辞めた」

「そう。ずっと追いかけてきた背中が突然無くなっちゃって、まゆちゃんは突然目標を奪われた」

「でも、委員長の実梨への怒りは相当なものだぞ。ただアイドルを辞めただけでああなるとは思えない」


 だって委員長はアイドルの中村みのりが大好きだと言っていた。篠宮から突然の引退を聞かされた時はかなりのショックを受けていた。それだけで委員長が実梨のことを好きなのはわかる。


 なのに、次に委員長と実梨の話をした時、委員長はかなりネガティブな感情を持って実梨のことを話した。


「それはね、まゆちゃんは私がアイドルをやめた理由に納得してないからだよ」

「委員長はふざけた理由でアイドルを辞めた人って言ってたぞ」

「まゆちゃんは手厳しいなぁ」


 実梨は柔らかい笑顔で俺を見る。


「いつかの日に言ったよね。アイドルを辞めた理由を教えてあげよっかって」


 実梨が初めて学校に来た日。俺と美咲で校内案内をした時、一瞬二人きりになった時に言っていたセリフだ。


「やっくんなら教えてあげてもいいよ、だったか」

「よく覚えてるね」

「記憶力には自信あんだよ。脳のキャパシティがいっぱいあるからな」

「なにそれ。せっかくだから今ここで教えてあげるよ。というか、やっくんには知っておいてもらいたいんだよね。なんとなくそう思ったんだ」

「わかった。聞くよ」


 実梨の隠していることのひとつ。アイドルを辞めた理由。世間では色々不穏な噂が流れているが、確たる証拠は出ていない。


 大好きだった気持ちを反転させるほどの理由。


 俺は静かに実梨の言葉を待った。


「全部、面倒くさくなっちゃったの!」


 カラっと明るい声音で彼女は言った。


「は……?」


 正直、もっと重い何かが来ると思っていた。だけど実梨は明るく、ただその一言だけを口にした。


「周りの期待とか、事務所の意向とか、全部面倒になっちゃったの!」

「委員長にもそう言ったのか?」

「うん。私はただ自由に歌って踊りたかっただけ。色々なしがらみは面倒なんだよ」


 実梨は何も言わず、感情の読めない薄い笑みを返した。


「そりゃ……委員長は怒るわな」


 ふざけた理由か。たしかにそう捉えられてもおかしくはないっていうか、そうとした捉えられねぇよな。


 ずっと追いかけていた人が、大好きな姉がただ面倒になったってだけでアイドル辞めたらキレたくもなる。例えそれが八つ当たりのようなものだとしてもだ。


「私に依存しすぎてるからまゆちゃんは怒るんだよ。べつに私がアイドル辞めたってまゆちゃんに直接何があるわけでもないのにね」

「ドライだな。お前を尊敬して追いかけてくれていた妹にそんなことを言うのか」


 ただまあ、実梨の言っていることも一理あるのは事実だ。


 実梨が言う通り、極論を言えば実梨がアイドルを辞めたところで委員長には何も関係がないってのはその通りだと思う。感情論を抜きにすれば、実梨っていう絶対的なアイドルが消えれば他のアイドルは歓喜するはずだ。大きなポジションが空くわけだから。世間には悲しむ素振りを見せて、裏では喜ぶ。普通のアイドルならそう考えてもおかしくはない。


 でも、人間には感情っつう抗えないものがあるからな。合理的なことしか考えられないなら機械と変わりない。どっちの言い分もわかるし、どっちが正しいとか俺には判断できない。そういう話じゃねぇんだよな。人間の価値観ってのはさ。


「まゆちゃんはね、早く姉離れするべきなんだよ。いつまでも私が一緒に居られるわけじゃない。前に立っていられるわけじゃない。アイドルの世界に飛び込むからには、自分の足で立たなきゃいけないんだよ」


 実梨はどこか苦しそうに目を伏せた。


「難儀だな。お前も、委員長も」

「そうだね。どうしてこうなっちゃったんだろうね?」


 おどけながらも困ったように俺を見る実梨。


「俺に聞くなよ。ただ、俺でも言えることがあるなら、お前らに足りないのは本気のぶつかり合いだろうな」

「本気のぶつかり合い?」


 実梨は首を傾げる。


「ああ。お互いの心の内を全部さらけ出して、自分の恥ずかしいものも全部相手にぶつけて、心と心で会話すんだよ」


 美咲と屋上で交わした本心のぶつかり合い。俺が心の奥底で抱えていた悩みを引っ張り出して、ぶん殴られたあの一件。


 それがなければ今の俺はいない。きっと今も過去の亡霊と比較して苦しみながら生きていたことだろう。


 俺が前を向けるようになったのは間違いなくあれのおかげだ。美咲の本気の言葉に、俺の本気の言葉で殴り合ったあれのおかげだ。


 本音、隠していた本心を相手にぶつけるのは怖い。仲が良ければいいほど、その人が大事であればあるほど。だけど、時としてぶつからなきゃいけない時がある。俺はそれを知った。


「心と心……それができたら一番いいんだろうね」

「今からでも遅くないんじゃねぇか?」

「そうだね。前向きに考えてみるよ」

「それは結局やらないやつだろ?」


 行けたら行く。レベルで信用できねぇ言葉だ。


「やっくん、バイトは大丈夫? みっちゃんも。さすがに遅刻しすぎるわけにもいかないでしょ? 今日はもうバイト行った方がいいよ」

「……そうだな」


 実梨の言う通り、いつまでもここで時間を使うわけにもいかない。


 委員長のひとまずの無事は確認できた時点で、当初の目的は達している。今はエクストラタイム。実梨の話を聞けただけで収穫だ。


 でも、俺の中にあるモヤモヤは晴れなかった。


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