第98話 実梨の災難②
「やっくん……」
実梨が俺の背に隠れ、制服を摘ままれる感触。そこから伝わる振動。それは実梨の手が震えているからなんてすぐにわかった。
本当は怖かったのか? さすが元アイドル。全然そんなのわからなかった。
ま、これでもう後には引けなくなったな。元から引くつもりもないけどさ。
「な、なんなんだよお前は!? き、客に暴言を吐くのがこの店の教育なのか!?」
「わけわかんねぇ理由で従業員を泣かす奴のどこが客なんだよ? 逆に教えてほしいんだけど?」
たぶん、というか相手は絶対年上。それでも俺は強気に出る。こいうのは弱気になったら負けだ。まずは心で負けてはいけない。
「み、みのりんもなんか言ってほしんだな! ぼ、ぼくはただみのりんに会いたい一心で――」
「だから! ここには中村みのりはいないってさっきから言ってるだろ!」
「そ、そんなことないんだな! ファンにはわかるんだな!」
「ファン……あんたが……?」
これが、ファンのやることなのか。追いかけていた推しを泣かせてでも、自分の欲望を叶えたいのか?
「本当のファンなら……推しがどんな選択をしても温かく見守るもんじゃねぇのか?」
少なくとも、この前行ったストリリのライブで関わった人の中にはこんなのはいなかった。ただ純粋に、ストリリの魅力だけに惹かれて、憧れて集まっていた。もしかしたら中にはこんなのもいるのかもしれない。でもあの日の俺にはそう見えた。
「あんたみたいなのがファンを名乗るのは他の純粋にファンに失礼だ。いますぐファンを名乗るのをやめた方がいい。もう帰ってくれ。これ以上は警察呼ぶぞ?」
「さ、さっきから偉そうなことばっかり言いやがって! もう許さないんだな!?」
男がこぶしを振り上げる。おいおい、暴力はさすがにまずいんじゃねぇのか? 特に大人なら尚更。
もう、この男の目には自分の欲望が満たされることしかないのかもしれない。実梨に会いたい。実梨と話したい。それを仲間内に共有したい。どれも独りよがりな願い。そしてそれを邪魔する俺を排除しようとしている。それがどんなリスクを持っているかもわからないほどに。
「やっくん!?」
「八尋君!」
実梨の叫ぶ声。そして奥では美咲の叫ぶ声も聞こえた。
俺は抵抗せずに男に殴られ、顔に鈍い衝撃が残る。意外と痛いけど、篠宮の方がまだいいパンチするぜ。気合いが違うんだよ気合いが。
うげ、口の中が血の味がする。絶対口切ってるじゃん。
だけどそれは気にせず、俺はそのまま携帯を取り出して男に見せる。
「もう通話を押すだけで警察に繋がるけど、どうする?」
面倒くさい奴を倒すなら、やっぱり最強の権力に頼るべきだよな。110番を秒で押せるように練習してきた成果がちゃんと現れてる。
「ぼ、ぼくは悪くない!? お、お前がガードしないのが悪いんだ!?」
何言ってんだこいつ? ガードしてもどっちにしろアウトだろ。あれ? でもそれならガードしてもよかったんじゃね?
「お客様」
落ち着いた大人の声。いつの間にかボスが俺たちの横に立っていた。
「これ以上私の店の従業員に迷惑をかけるのであれば、私もそれ相応の対応をせざるを得ません」
いつも通り落ち着いたボスの声。だけど今日は少し怒気がこめられているような、そんな気がした。
「な、なんでみんな僕を悪者にしようとするんだ!? ぼ、ぼくはただみのりんに――」
「ここにはみのりんと呼ばれる従業員はいません」
ボスはきっぱりと言い切った。
「う、嘘だ。この店とみのりんの写真を上げて、た、確かめてやるんだな!」
一瞬のスキを突いて男は俺の背中に隠れていた実梨の写真を撮った。
だけどボスは動じない。
「好きにしてください。ただ、もしあなたが発信した情報で私の店と従業員に被害が出るのであれば、私は一切の容赦なく徹底的に潰します。その覚悟があるのであればどうぞお好きに」
「う……あ……」
店にいるすべての人が厳しい視線を男に送っている。
それに気づいたのか、男はおろおろとしながら辺りに視線を彷徨わせている。
「お引き取りください。そうすれば彼への暴行だけは見逃します。引かないのであれば、まずは彼への暴行で警察とお話いただきます。神崎君もそれでいいかな?」
「……ボスの決定に従います」
「と、言うことですので、どうするかはご自身で決めてください」
ボスのその言葉が止めとなり、男はぶつくさと文句を言いながら店を去って行った。
「なんでもっと早く来なかったんですか?」
「僕が行かなくても、神崎君が行くと思ったからだよ。だったら僕は最後に締めるだけでいいかなって。それに、ああいうのは子供に言われる方が効くんだよ」
「でも殴られる前に来てほしかったですね」
「はは。わざと殴られたくせに」
……全部お見通しか。さすがボス。美咲の上に立つ神。全知全能。
「ボス、塩撒きましょうよ! きっと魔除けになりますよ!」
杉浦さんがキッチンから塩の袋を持ってきていた。どんだけ撒くつもりだよ。
「だめだよ杉浦君。あんなのに塩を使うなんてもったいないよ。塩だってタダじゃないんだよ?」
「了解です! ボスはたまに自然と辛辣なこと言いますね」
「さあ、業務に戻ろうか。お客様には僕から謝っておくよ。ドリンクでもサービスしようかな」
二人はあえて実梨の近くで明るいトーンで会話をしてから仕事に戻る。
直接は言わないけど、気にするなって言いたいんだと思う。
「やっくん……その……」
実梨は心配と申し訳なさを含んだ表情で俺を見てくる。
「結局、殴られ損になっちまったな」
だから俺もおどけた態度で笑う。
お前がそんな顔をする必要はない。だって何も悪いことはしてないんだから。
「俺たちも仕事に戻るか。ああでも、店の空気が悪くなったから、ここは実梨の笑顔で雰囲気戻してくれよ。得意だろ?」
「うん……任せてよ……」
実梨は俯きながら返事をした。
床にはぽたぽた水滴が落ちていたけど、俺は何も見ていないことにした。結露したコップから水滴が落ちるように、人間にだってそんな時もある。そうだろ?
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