第97話 実梨の災難①

 それから数日後のバイト終わり。今日は俺と美咲と杉浦さんしかいない。


「ねえねえ、ちょっとこれを見てほしいだけど」


 片づけを終えた俺たちを美咲が集める。ボスも含めて全員集合し、美咲が示したスマホの画面を見る。


「これは……」


 思わず声が漏れる。


 そこに映っているのは有名なSNSアプリ。自分が体験したことや話したいことを呟いて全世界に発信することができるもの。


「これ、友達から回ってきたものなんだけど」


 そのアプリは他人が呟いたことを共有して、どんどん知り合いのタイムラインに拡散できる機能がある。


 その数は可視化されて、今のなおその値は少しずつ上昇している。


「かわいすぎるメイドさん現る、か。困ったね」


 ボスが神妙な顔をしている。でもその理由もよくわかる。


 美咲のスマホの画面に映っているのはどう見てもこの店で働く実梨の姿に他ならなかったから。誰か隠し撮りしやがったか。余計なことを。


「美咲、店の名前が載ってないか確認してくれないかな」

「ちょっと待ってて」


 ボスに言われて、美咲は慣れた手つきでアプリを操作する。


「うん。店の名前までは出ていないみたい」

「でもこれ、見る人が見たら誰かわかりますね」


 杉浦さんが言うならそうなんだろう。この人はアイドル時代の実梨をよく見ている。その人が見る人が見ればわかると言うのであれば、これは実梨のファンが見たら一発で実梨だとわかるということ。


 たぶんボスが美咲に店の名前がバレているか調べさせたのも杉浦さんの言葉に起因している。


「それは……ちょっとまずいかもな」

「八尋君?」

「そうだね。神崎君の言う通り、これは少しまずいことになるかもしれない」

「神崎、いざという時はすぐに動けるように準備だけしておけよ」

「わかってますよ。110番の練習しときます」

「なんだよそれ……」

「頼れるのは、一番強い奴ですから」


 頼れるのは国家の権力。俺なんかよりよっぽど頼りになる人たち。


 まあ、そんなものに頼る前に、このまま鎮火してくれればそれに越したことはないんだけどさ。


 そう思っていたが、やはりその考えは甘かったようだ。 


 美咲に実梨の画像を見せてもらってから早数日、事件は起こった。


「ねえねえ……き、君はみ、みのりんだよね……」


 バイト中、一人の男が接客中の実梨に話しかける。席に座っているならまだしも、ホールを巡回している実梨の邪魔をする形で道を遮っている。


「お客様、どなたかと勘違いされているのではないでしょうか?」


 実梨は努めて冷静に対応しようとしている。


 キッチンのボスを見ると目が合い、ボスは小さく首を横に振った。


 まだ様子見ってことですか。了解です。まだ俺の練習の成果を披露する時ではないってわけですね。


 騒ぎを大きくしないように。杉浦さんも視線で実梨に気を遣いつつ、他のお客さんの相手を続けていた。


 美咲はキッチンから実梨のことを心配そうに見ている。いろいろと小競り合いはしているけど、仲が悪いって感じじゃないもんな。


 この状況、いきなり俺たちが介入したら余計に怪しまれてしまう。そんなに庇うってことは本当に……みたいな展開は最悪だからな。だからボスも杉浦さんもいきなり動かないんだろう。


「ぼ、ぼくが勘違いするわけないんだな! ずっとみのりんを見てきたんだから!」

「そうは仰いますが、私はみのりんと呼ばれる方ではありませんので」

「いや、そ、そんなわけない! そうやって眼鏡で顔を隠してもみのりんにちがいないんだな。あの写真から、や、やっと店を特定できたんだな」

「…………」


 実梨は笑顔を崩さない。だけど目はどこか冷めていて、感情を失った目が男を射抜いている。男はそんな様子に気づいてないようだけど。


 ったくよ、本人がもう引退してんだからそれ以上追っかけんなよな。迷惑って言葉を義務教育で習わなかったのか?


「お客様、他のお客様の迷惑になりますのでこれ以上はお控えいただけませんか?」


 どこまでも実梨は丁寧に対応する。


 うるせぇな接客の邪魔するなら帰れくらい言いに行きたいけど、実梨が頑張っている以上、下手に手を出せない。


 たぶん、俺たちを巻き込みたくないんだろう。男を見る冷めた目と同時に、時折俺たちや他のお客様の方を申し訳なさそうに見ているから。もどかしいな。


「め、迷惑だなんて! ぼ、ぼくはみのりんに会うためにこんなに頑張ってお店を探し回ったのに酷いんだな!」

「それは大変でしたね。繰り返しますが私はお客様のお望みの方ではございませんので」

「ど、どうして嘘をつくの!? だ、誰がどう見たって君はみのりんだよ!」


 迷惑客の方がヒートアップしてきている。それに伴い、店の中では緊張感が増していく。


 ボスも、杉浦さんも、美咲も、果てはお客様までもが実梨たちに注目してしまっている。


 特にボスの目がいつにも増して鋭い。初めてみる顔だ。


「中村みのりさんという方はもうこの世に存在しませんよ。引退されたんですよね?」

「そ、そんなの認めない! み、みのりんはぼくのとっての希望なんだ! そ、それにみのりんは今ここにいるじゃないか!」

「私はただのアルバイトですよ」

「違う! ぼ、ぼくの目は誤魔化せないんだ!」

「そう言われても困ります。どうかお引き取りください」

「も、もういいんだな! 写真を撮って日本のみのりんファンに共有するんだな! ここにみのりんがいるんだぞって! そしてみんなでみのりんを迎えに来るんだ!」


 煮え切れなくなった男は携帯を取り出して実梨の写真を撮ろうとする。


「それは……」


 写真。そして店の情報。それをSNS上に発信する。そこで実梨の纏っていた鎧が剥がれた。


 俺はその実梨の顔を見た瞬間、気づいたら足が勝手に動いていた。


 ボスと杉浦さんはまだ動かないけど、どうにも俺が限界みたいだ。


「お客様! その変にしていただけないでしょうか!」


 写真を撮ろうとした男の前に割って入る。丁度写真を撮る瞬間だったようで、シャッターを切る音と俺が割り込むのは同時くらいだった。ギリギリセーフ。


「だ、誰だお前は! ぼくは今みのりんと話してるんだな! 君の写真なんていらないんだな!」

「うる……失礼しました!」


 いけない。汚い言葉が口をついてしまいそうになったじゃねぇか。今のところこいつは辛うじてお客様だから丁寧な接客を心掛けなくては。


 無理やり明るいテンションで接する。じゃねぇともう危ないんだわ。体の内から溢れ出る炎がよ。


「ここに中村みのりさんはいないって、さっきから彼女が言ってるじゃありませんか!」

「ぼ、ぼくの目は騙せないんだな! 彼女は間違いなくみのりんなんだな!」

「はは! お客様の目で、何が見えるって言うんですか!」

「ぼ、ぼくを馬鹿にするのか!?」

「……うるせぇなぁ」


 俺の突然の豹変に男の方が僅かに怯む。


 だめだ、やっぱ丁寧でいられねぇ。取り繕うとしてもダメだ。こいつは最初から客じゃねぇわ。


 俺は力強く男を睨み返した。お前の腐った目で、何が見えるって言うんだよ。ええ?


 お前は、実梨の顔をちゃんと見ていたのか? 俺が助けに入る直前の実梨の顔をよ。


「目の前で泣いている女の子すら見えていないその目で、何が見えるんだよ……」

「何を言ってるんだな!?」

「お前の目で何が見えるんだって訊いてんだよ?」


 実梨は泣いていた。剥がれた鎧のその内から溢れ出る感情。それが涙だった。


 どういう理由で涙を流したかはわからない。これから拡散されて平和が脅かされることへの恐怖か、それとも店に降りかかるトラブルへの申し訳なさか。俺にわかる術はない。


 だけど、これだけはわかる。実梨は泣いていた。


 それだけで、戦うには十分な理由だろ。

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