第96話 両手に花②
「騒がしいと思って来てみれば……」
あぁ……めっちゃ怒ってるわこれ。声がいつものそれじゃない。どこかのナンパ野郎と話すときのトーンだわこれ。
どうしよう。とにかく誤解を解くところから始めないとな。
「いや、違うんだよ美咲。これは誤解なんだ」
「何が誤解なの? 私なにも聞いてないよ?」
「ヒェ……」
あれ、なんかこの部屋涼しいな。だれかエアコンの温度最低にしたのか。おかしいな。
とりあえず今の状況を整理しよう。
入口には内なる怒りの炎が漏れ出している俺の天使がいて、俺の腕には修羅場の予感にわくわくして目をキラキラさせている諸悪の根源がいて、そのちょっと隣には俺への憎しみで目から血の涙を流しそうなやばい先輩がいる。これなんてカオス?
客観的に見てもやばいことがわかるのに、残念なことにこの中心にいるのは俺なんだよなぁ。どうすんのこれ?
「実梨、美咲に正しく情報を伝えてあげるんだ」
この状況、おそらく俺が何か言っても効果が薄い。ならばこのカオスを生み出した諸悪の根源自らが説明するのが手っ取り早い。
てかやれ。お前のせいでこんなんになってるんだからな。
本当なら頭にナプキンを着けて、髪を普段と違って肩の辺りで一つ結びにしている美咲を可愛いって褒めちぎりたかったんだからな。もう全然そんな空気じゃないからできないけどさ。
「仕方ないなぁ」
なんでそんな面倒そうなんだよ。全部お前のせいなのわかってる?
実梨は俺から離れると美咲の方を向く。
「みっちゃんこれはね、私がやっくんを誘惑していたんだよ」
「ん? 実梨?」
俺の勘違いじゃなければ火に油を注いだような。むしろガソリンまで行ったような?
「実梨ちゃんは八尋君を誘惑してたの?」
「うん!」
「うん。じゃねぇよ!? 本当何言ってんのお前!?」
いや本当なにしてくれてんだよ!? 目の前にいるの俺の彼女だからな!?
「だってやっくんを落とすならこのくらいしないとダメでしょ?」
可愛らしく首を傾げるんじゃねぇ。今の状況でそれ喜んでんの杉浦さんだけだからな。
俺はさっきから冷や汗止まらなくて非常事態だぞ!?
「八尋君……」
「はい……」
天使がゆっくりと俺の元へと近づいてくる。そして――
「ん!」
先ほど実梨に抱きつかれていた腕に今度は美咲が抱きついてきた。
「み、美咲!?」
美咲は実梨の時よりの力強くぎゅっと抱きついてくる。お前は私のものだ、とでも言いたげに。俺はもうとっくに美咲のものだけど。
なにが起きたんだこれは。てっきり天誅とか言ってぶっ殺されるかと思ってたのに、なんか想像と違う展開に頭が混乱する。
やはり美咲も柔らかい。でも心なしか実梨よりは薄いような……気のせい、ってことにしよう。
「八尋君は私の八尋君なの。それを体に染み込ませてあげる」
「ふ、ふへ……」
むっとした表情で抱きつく美咲があまりにも可愛すぎて気持ちの悪い声が出た。
か、可愛い。これってあれだよな。俗に言うやきもちってやつだよな。
おいおい。今日は最高の日じゃねぇか。なんだよこの幸せは。全身から幸せホルモン分泌されちゃってるんだが。
「あ、やっくん惚けた顔してる! わたしの時はしなかったのに! えい!」
実梨が空いている方の俺の腕に抱きついてくる。やっぱり美咲より柔らかい。
「実梨ちゃん! 八尋君に過度なスキンシップを取るのはだめ!
「でもやっくんはみっちゃんにべた惚れなわけだし、こんな程度で揺らぐような関係じゃないでしょ?」
「それは……そうだけど」
「じゃあ私がスキンシップしても問題ないよね! だってこの程度じゃ何もかわらないもんね!」
「そうだけど! 私が嫌なの!」
「やっくんを独り占めにするのはずるいよ! 独占禁止!」
「ええ!? 彼氏彼女ってそういうものだよ!?」
右には美咲、左には実梨。両手に花どころではなくもはや腕にまで花が咲いているこの状況。俺を挟んで行われる俺の奪い合い。
こんな可愛い女子たちが奪い合うのが俺って言うのがなんとも締まらない。
学校だったら俺何回殺されてるんだろう。
「助けて杉浦さん」
なおも騒ぐ彼女たちをよそに、俺は一人傍観を決め込んでいる杉浦さんに声をかけた。
あなただけ無関係でいようなんて俺が許さない。このカオスに無理やりでも巻き込んでやる。
まあ、本当に助けてほしいんですけどね!
柔らかい感触といい香り。それが両方から来るんだからそろそろ俺の理性がやばい。知能が低下しそう。もうさ、「わーい。おっ〇いだぁ」とかネジが吹っ飛んだことを言いそうなんだよ。
だからほんと助けて杉浦さん。もう今この場で冷静でいられるのはあなたしかいないんだ!
「はは、きれいな世界だな。なんか蝶が見えてきた」
だめだこの人も壊れてやがる。俺への憎しみが限界突破して全ての世界が美しくなるように脳みそがバグっている。蝶が見えるってもう幻覚じゃんそれ。たぶん蛾だよそれ。
あと引くほどやばい笑顔してる。貼り付けた笑顔ってあんな感じのこと言うんだな。
喧嘩している女子高校生が二人。頭が壊れた大学生が一人。理性が壊れそうな男子高校生が一人。
俺たちこれからバイトなのにどうすんだよこれ。
俺も壊れたら楽になれるのか? なんでギリギリのところで壊れないんだよ俺の理性はよ!?
このカオスな控室はボスが様子を見に来るまで続いた。
ボスもこの状況を見てまず娘の成長を喜んでた。絶対そこより先に気にするところあったと思う。
そんなこんなで少しのトラブルがあったものの、実梨のバイト初日が始まった。
教育係は相変わらず杉浦さん。
どうやって話せばいいんだよ……って俺に泣きごとを言っていたくせに、仕事になれば普通に実梨と話していた。なんだ、普通に話せてるじゃん。この前も言ってたけど、公私は本当にわけてるんだな。
美咲はキッチンの手伝いという形で本格的に参戦するようになった。今まではたまに、って感じだったけど正式に俺たちバイトと同様に決められたシフトで手伝うようだ。
フロアには実梨。キッチンには美咲。この店、急にレベル上がったよな。今までは俺と杉浦さんという暑苦しいメンツの中に柳さんっていう紅一点がいただけ。それが今ではアルバイトの男女比が逆転するほどになっていた。
「実梨ちゃん……すごいね」
一瞬できた暇を見つけて、美咲がキッチンから出て話しかけてくる。調理場とフロアは一体になってるためできる芸当。
「そうだな。ちょっと予想外だ」
実梨の実力は想像以上だった。
杉浦さんからの説明を聞いていた実梨は真剣そのもの。さっきまでの控室にいた時にふわっとした実梨がどこへやら、完全に仕事モードだった。必要なことはメモに取り、1回教われば完ぺきとは言えないまでも及第点以上の動きをしている。
注文の取り方、お客様への接客態度。もしかしてもう抜かれてんじゃね? と思うくらいとても初めてのバイトとは思えない動きだった。
「俺も負けてられないな」
実梨の動きを見て、むしろ燃えてきた。さすがにバイトの先輩としての意地もあるんだよ。
「その意気だよ八尋君」
彼女が応援してくれるなら、頑張らないとだよな。
この日はいつもの1.1倍くらい頑張った。普段も頑張ってるから1.1倍なんだからな。1が1.1になるのとはわけが違うから。もとの値の大きさが全然違うから。
バイト終わりの帰り道。美咲と実梨はバイト後も可愛い小競り合いをしていた。俺はそれを後ろから眺める。その姿はまるで父親ポジション。俺を巻き込まないなら可愛いだけだからどんどんやっていいぞ。
美咲は疲れたと言って肩を落としながら撤収していった。今日は俺とおしゃべりする元気も残ってないようだ。やってくれたな実梨。そうなると話が変わるぞ。
そんなわけで、美咲に振られた俺は、店の外で実梨と雑談に興じることになった。
「アルバイトって楽しいね!」
実梨はカバンから飴を取り出して口に運ぶ。
「さすが元社会人。あっという間に追い越されそうだな」
「杉浦さんの教え方が上手だったんだよ!」
「まあ、それはあるな」
あの見た目だが杉浦さんはアルバイトの仕事に関して誰よりも経験値を持っている。その経験からくる教えはとてもわかりやすく、すっと胸に入ってくる。ずっと仕事モードならすぐ彼女できそうなのに。
そんな杉浦さんは逃げるように帰った。せっかくだしちょっと3人で雑談しますかと聞いたら、実梨と何話せばいいかわからないから帰るとのこと。なんで仕事だと普通に話せるのに終わったらダメなんだよ。その辺本当によくわからない。
「それはなんの飴?」
「これ? のど飴だよ」
実梨はカバンからもう1個飴を取り出して俺に渡す。
「やっくんにもあげよう。接客には声も使うしね。喉のケアは大切だよ」
お言葉に甘えて口に運ぶ。なめる程にミントの香りが喉と鼻を通り抜けていく。スッキリ。うまい。
「その辺もプロだな。やっぱアイドルに喉は命ってわけか。ああでも今はアイドルじゃないから昔の習慣とか?」
アイドルは歌って踊るのが仕事だ。言うなれば体が資本。
しっかりと歌を歌うためには喉のケアも欠かせないだろう。
「まあ、そんなところかな。ずっとやってる習慣って中々抜けないよね」
実梨はどこか自嘲気味に笑った。
「べつにいいんじゃねぇの。ケアするのは悪いことじゃねぇだろ」
「そうだよね!」
「にしても、ほんとバイト初日とは思えないわ。実梨って実は要領いいよな」
アイドルをやりながら勉強もしたり、アルバイト初日である程度動けるようになったり。俺が同じことをやれって言われてもたぶんできない。だって俺はアルバイト1日目にあんな動きはできていなかったから。
実梨の纏う雰囲気と言動、それに行動で見落としがちだけど、実梨は間違いなく普通の人より要領がいい。
そりゃ要領よくなきゃ芸能界で生き残れないか。
「やっくんも私のすごさに気づいたか!」
「元アイドルの威光をこれでもかと味わったよ」
「ふはは、これは私のこと好きになったかな?」
「ないな。何回でも言うけど俺は美咲一筋なんだよ」
「むむ……手強いなぁ」
「残念だったな」
「ちぇ……もっと早くやっくんと出会いたかったよ」
「はいはい」
その後も適当に雑談をして、俺たちは解散した。
一人の帰り道で思う。
さっきもバイト中も、実梨は敢えておしゃれとは程遠い眼鏡をかけている。ひとえに有名になり過ぎた自分を隠すために。
だけど、それでも今日バイト先で一番目立っていたのは間違いなく実梨だ。
見た目を多少ごまかしたところで、培われた所作や笑顔の完成度までは隠しきれない。
実梨は明らかに注目を集めていた。いい意味でも悪い意味でも。
そう、実梨は目立っていた。
それが一抹の不安を残す。なんとなく、嫌な予感がする。
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