第95話 両手に花①

 バイト前の時間。男子の更衣室兼休憩所では新しいバイトの紹介が行われていた。


「今日からお世話になる中村実梨です! よろしくお願いします!」


 バイトの制服に身を包んだ実梨がいつも通りのハイテンションで挨拶をしている。


「なあ神崎、俺は夢を見てるのか?」


 杉浦さんは何度か目をこすって夢の可能性を疑っていた。でもよかったですね。紛れもない現実ですよこれ。


「あの中村みのりが俺たちと同じ制服を着ているんだが……」

「そうですね」


 まあ厳密には同じではないんだが。男子はウェイターのような服装。女子は落ち着いたメイド服のような見た目。


 実梨の制服姿はそれはもう似合っていた。いつぞやの美咲の時にも感じたが、まるで実梨のために服が用意されているような、そんな錯覚に陥る感じ。杉浦さんが目を奪われて固まっているのも頷けた。


 俺は美咲っていう輝く大天使を間近で毎日拝んで、なおかつその威光を一番近くで賜っているからこうした他者の輝きにも耐性がある。それでも間違いなく可愛いことは確かだった。


「杉浦さんはファンだったんですか?」

「俺は地元で開催される中村みのりのライブを欠席したことはない」

「なるほど。大ファンですね」


 てかさらっと流したけどライブの欠席ってなんだよ。


 学校みたいに行くのが当然みたいな扱いなの? ライブってそういうもんじゃねぇよな?


「ああ。だから俺は今かなり戸惑っている。こんな現実があっていいのかと」

「よろしくお願いしますね。杉浦先輩!」

「こひゅっ……」


 あ、杉浦さんが死んだ。 


 至近距離での実梨スマイルに撃ち抜かれた杉浦さんは目を閉じてその場で動かなくなった。でも顔が幸せそうだから悔いのない人生だったと思う。


「やっくん、先輩固まっちゃったんだけど……」

「まあ最高に幸せそうな顔してるからいいんじゃないか?」

「うーん、普通に挨拶しただけなのになんでだろう?」


 実梨も罪づくりな女子だな。


 とはいえこのままじゃ仕事にならない。


「帰ってきてください杉浦さん。せっかく推しと仕事ができるのに死んでていいんですか?」


 幸せの絶頂を迎えた先輩の肩を揺する。推しに挨拶されただけで逝く魂のなんと虚しきこと。それともアイドルのファンであれば何事にも代えがたい感動なのだろうか。


 まあアイドルの世界は特殊だからなぁ。この前ハカセに連れて行かれた時の記憶が呼び起こされる。


「はっ!! 今一瞬幸せな世界にトリップしてたぜ」

「おかえりなさい杉浦さん。ようこそ現実へ」

「そうか、現実に帰って来たのか俺は」

「そうですよ先輩。私にちゃんと仕事を教えてください!!」

「お、おふ……」


 実梨の笑顔を見て杉浦さんが見たことないくらい鼻の下をのばしている。この人マジで実梨のこと好きなんだな。


 というより、篠宮や杉浦さんしかり、俺の身近な人をこんな骨抜きにするほど虜にしていた実梨がすごすぎるのか。


「よかったじゃないですか幸せな現実で。鼻の下びっくりするくらい伸びてますよ」

「あのな神崎、今の彼女を見て鼻の下が伸びない奴なんていないんだよ。わかるか?」

「俺べつに伸びてないですけど」


 なんだろう。この会話どこかでしたような気がする。


 立場的には俺が杉浦さんポジションだったような。なるほど、冷静な側に立つと相手がこんなにやべぇ奴に見えるのか。いつぞやの俺もさぞ気持ち悪かっただろう。嫌なこと思い出したわ。なにしてくれんだよ杉浦さん。


「なんで伸びないんだよ? こんな腐った世界で中村みのりが目の前にいるんだぞ?」


 腐った世界。杉浦さんどんだけ辛い現実生きてんだよ。俺なんて最近毎日光り輝いて仕方ないってのに。


「俺はただの中村実梨しか知らないんですよ。だからみんなが驚く反応がよくわからないんです」

「嘘だろ……アイドル中村みのりを知らないだと……」

「まあそういうことですね」


 今、視界に映るメイド服の少女は俺からすればどこまで行ってもただの中村実梨でしかない。


 アイドルの実梨を知らない。それもあるけど、もうアイドルでない以上やっぱり彼女は一般人の中村実梨だ。


 もうアイドルじゃないなら、ありのままの実梨として壁を作らず接するべきだ。


 少なくとも俺はそう思っている。自分じゃない自分を望まれるのは苦しいからな。


「だから俺の中でこいつはただの一般人ですよ」

「やっくんのそういうところ、本当に好き!」


 実梨は嬉しそうに俺の腕に抱きついてくる。


「おま!? 急に何してんだ!?」

「え? スキンシップだよ!」


 こいつはスキンシップで男に抱きつくのか!? 軽すぎんだろ!? 


 というか柔らかい何かが当たってるんだけど!? 当たってるんだけど!?


 意識しないようにしてもどうしても抱きつかれた腕に意識が行ってしまう。俺も男だからね。


「神崎てめぇなんて羨ましいことを!!」


 杉浦さんが憎しみに歪んだ顔で見てくる。どう考えても俺は悪くないだろ!


「離れろ実梨! この状況はまずい!」

「ええ……こんなに可愛い女の子に抱きつかれてるのにそんなこと言うの?」


 なんでお前は不満そうに口を尖らせてるんだよ。


 こんなに可愛い女の子と自称しているが、なまじ本当に可愛いから下手に否定できない。


 だが、実梨が可愛いからこそこの状況は非常にまずい。


「早く離れろ実梨! 今この状況を見られるのは非常にまずい!」

「いいじゃんもうちょっとくらい!」

「神崎いいいいいいいいいいい!!」


 歯ぎしりするなよ杉浦さん。あなたが思うよりこの状況はまずいんだよ。


 なんでかと言うと――


「八尋君……なにしてるの……」

「み、美咲……」


 入口には俺たちの姿を見て目が据わっている我が天使の姿。


 はい、終わりました。

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