第89話 みんなが見ている誰か

 その後も特別棟を歩き回る俺たち。上から下から、全体を満遍なく散歩していく。


 音楽室の近くを通るとき、実梨は少し後ろ髪を引かれるように音楽室の名札を見つめていた。


「やっぱり惹かれるのか?」


 そう聞くと、実梨は作り物っぽい笑顔で「全然」と答えた。


 たぶん未練が1ミリもない人はそんな寂しい目はしないと思うんだけどなぁ。


 中村みのりはアイドルを引退したが、その理由は未だに明らかになっていない。ネット上では様々な噂が飛び交っていたが、どれも噂の域を出ず信用に値するものはなにもなかった。


 それに俺は噂とかあまり信用しない。この目で見聞きしたものを信用したい。


 ただ、噂が飛び交う原因のひとつは、実梨本人の口から引退の理由を語らないところにある。


 中村みのり突然の引退。そのニュースを最後に実梨は何も語らずに芸能界から姿を消した。というのが今わかっている確実な情報。


「やっくんはさ、私に何も訊かないんだね」


 一通り校舎内を探険した俺たち。ちょっとお手洗いに行ってくると言った美咲と別れて今は実梨と少しばかりの二人きり。


 そんな折、実梨はどこか漏らす様に呟いた。


「何を訊くんだよ?」

「どうしてアイドルを辞めたのか、とか」


 実梨は外を眺めながら言う。


 わざわざ美咲がいないタイミングで言うってことは、俺とだけ話したいって思っていいんだよな。その気になればいつでもできたわけだし。


 それに声の雰囲気がさっきまでとは違う。真面目なトーンだ。


 今の今までの明るい雰囲気から一変していて、少し戸惑う。


「クラスのみんなはしきりに訊いてきたよ。なんでアイドル辞めちゃったの? とか、噂は本当なの? とかさ」


 実梨はこちらを振り返らずに語る。


「噂ねぇ」

「そそ、噂。やっくんもさすがに知ってるでしょ?」

「まあ、少し調べりゃ出てくるからな」

「お、私のこと調べてくれたんだ」


 ちょっぴり弾んだ声音で返してくれる。


 その明るいトーンとは反対に、実梨の引退に関する噂はそれは酷いものだった。


「みんな酷いよねぇ。プロデューサーと不倫したのがバレたとか、大御所に喧嘩を売って干されたとか、人気が出て天狗になって好き勝手したとか、私そんな風に見えてたのかな? できるわけないじゃんね。私ただの高校生だよ?」


 実梨は自身にかけられた噂をどこか楽しそうに語る。


「噂は噂だろ」


 そんな言葉を俺は一蹴した。


「そうだね。じゃあさ、その噂は真実だと思う?」


 どこか含みのある問いかけ。


 振り返った実梨の目は、まるで俺を心を覗き込む様に深く突き刺してくる。


「どこまで行っても噂は噂だろ。それ以上でもそれ以下でもない」


 俺は淡々と思うことを口にした。


「俺が信じるのは目の前にいるお前だよ。実梨はネットで噂されるような人間じゃねぇよ。俺の目はそう言ってる」


 真っ直ぐと強い視線を返して答える。


 噂がどうであれ、俺が見て来たのは目の前の実梨だ。


 初めて会ったライブの会場。あそこでの実梨はただ純粋にライブを楽しんでいるだけのひとりの女の子だった。


 あの姿に嘘はないと思う。そもそも、変装してまでくるくらいなんだから嘘もクソもないよな。


 それだけで噂は所詮噂だと言うのがわかる。実梨と一度でも会えば、そんなものがくだらねぇ嘘だとすぐにわかると言うのに。会える人が少ないからこそ、噂が一人歩きしてしまうんだろうな。


「……そっか」


 実梨は小さく口元を緩めた。


「やっくんは私がアイドル辞めた理由知りたい?」

「知りたいか知りたくないかで言えば知りたい」


 人は知らないことを知りたがる生き物だ。


 雑学であったり、誰それの色恋であったり、それがあまり表に出ない情報ならそれだけより一層情報を求める。


 多くの人が知らないことを知っている。世間が知らないことを自分は知っている。知ると言うこと知らない多数へ向けた優越感に繋がる。


 そうしたら実梨の情報は喉から手が出るほど知りたい情報だろう。急に何も話さず消えたアイドル。その引退の真相を聞けるかもしれない。


 それはただの一般人にとっては刺激が強過ぎる劇薬みたいなものだろう。


 本音を言えば俺だって知れるものなら知りたい。単純に興味があった。こんなに明るく笑顔が眩しい人がなぜアイドルを辞めたのか。


「じゃあ――」

「でも」


 実梨の言葉を遮る。


「それは俺の都合だから訊かねぇ」


 知りたいのと言うのは俺の希望だ。


 人には話したくないこと、隠しておきたいことの一つ二つはあるものだ。


 俺の場合は記憶喪失。知ってる人もいるけど、それは信用のおける人に限る。


 むやみやたらにひけらかすようなことはしない。


 それは実梨も同じだ。実梨にとってアイドル引退の理由はそうそう語りたいものでもないんだろう。


 普通に話せる内容なら、さっさと記者会見でもやって説明してしまえばいいんだし。


 そうすれば変な憶測だって飛び交ったりしないだろうに。でもしないのは、やっぱり話したくないから。


「いいんだ? やっくんなら教えてあげてもいいけど?」

「いや、どうしてもお前が語りたいなら聞くけど」


 そこで俺の視界の端に人影が映る。


「っと残念ながら時間切れだな」


 視線だけで何があるのか伝えると、実梨もその意味に気がついたようで小さく息を吐いた。


 美咲がトイレから帰ってきたのだ。


「お前が本当に話したくなったらその時は聞くよ。だけど俺から訊くことはない。本当はおいそれと話したくねぇ話題だろ? それぐらい俺にもわかるよ」

「やっくん……」


 実梨としても、この話はなぜか俺だけとしたいらしいので、美咲の帰還は話の終わりを意味する。


 実梨はそうだね、と少し残念そうに笑った。


「お待たせ……何か話してたの?」


 小走りで戻ってきた美咲が、息を整えながら言う。


 チラリと実梨を見る。今の話は美咲にはしたくないはずで、どうしたものかと伺いを立てる。


 目が合った実梨は俺の意図を察したのか、任せろと言わんばかりに気持ちのいい笑顔を見せてくれた。


「みっちゃんがね、私がやっくんのこと取っちゃわないかずっと心配してるんだよって話をしてたんだよ‼︎」


「え……ええ⁉︎」


 一拍の静寂。そして意味を理解してからの爆発。


「え、なんで……いや、ちょっと、ええ⁉︎」


 語彙力がどっか行った美咲。唇はワナワナと震えて、顔はみるみる内に紅潮していく。


「どうして……なんで⁉︎」


「いやぁ、バレバレだよみっちゃん。最初教室でやっくんのこと聞いた時困った顔してたからなんでかなぁって思ってたんだけど、やっくんの彼女って聞いてから全て理解しちゃったよねぇ」


 実梨は心から楽しそうに美咲をからかっている。


 もしかしてこの人結構いい性格してるのかな。世間での中村みのりの評価は純粋無垢でみんなを笑顔にするスーパーアイドル。


 ただ、今目の前にいる実梨は確かに笑顔こそ眩しいがその内には小悪魔性を秘めている。それが悪いとは思わないけど、スーパーアイドルと言ってもその実は俺たちと変わらない普通の人なんだと改めて気付かされる。


「今日も最初の方ずっと私を警戒してたよね。やっくんの側に引っ付いて、あげませんアピールしてたしねぇ。むふふ……やっくんは愛されてますなぁ」

「あああああああ…………」


 美咲はとうとう恥ずかしさで俯いてしまった。


 実梨の言っていることが真実だと告げているようなものだった。


 かくいう俺も、恋人の心の内を聴かされてだいぶ舞い上がっちゃってるんですけどね。美咲がいなかったら飛び跳ねてるかもしれないってかしてる。


 しかし、ここには実梨もいるわけだから心の中だけに留めて置くことにしよう。では。


 いやいや可愛い過ぎるだろ‼︎ なに俺を取られたくないからくっ付いてましたって⁉︎ だから今日半ば強引に実梨の校内探検に付いて来ようとしてたのか⁉︎


 可愛いすぎるうううううう。


「これでも元芸能人ですからね。洞察力には自信ありなんですよ」

「そっかぁ、美咲はそんな風に思ってくれてたのかぁ」

「やっくんは幸せ者だね!」

「そうかなぁ? いやそうだろうなぁ‼︎」


 ふへへ。ダメだ頬がどうしても緩む。でも仕方ないよな。美咲が可愛いんだから。


「っ〜……もう‼︎」

「おっふ⁉︎」


 恥ずかしさに耐えられなくなったか、美咲は顔を真っ赤にしたまま俺の脇腹に鋭い一撃をお見舞いしてくれた。


 意表を突かれたのもあるが、モロに食らってしまい表情を歪める。


 夢から覚めるとはこのことか。痛い。


「み、美咲さん⁉︎」


 腹を押さえながら抗議の目線を送る。


「八尋君が悪いんだからね‼︎ 私の知らないところで可愛い人と勝手に仲良くなってるんだから‼︎」

「可愛いって、照れるな〜」

「突然可愛い人に八尋君ってどこ? って言われた私の気持ちわかる⁉︎ いきなり彼氏を名前呼びする女の人に会ったらそれは警戒するんだからね‼︎」


 美咲は真っ赤な顔のまま、捲し立てる様に早口で言う。


 とても可愛いというのは当然なんだが、美咲はそんな風に思っていたのか。


 同じシチュエーションを想定してみる。


 たしかに、俺もいきなり知らないイケメンに、美咲ってどこ? とか訊かれたらうっかりそのまま殺してしまうかもしれない。てか殺す。いきなり天使を呼び捨てとか一発死刑だろ。来世は黒い嫌われ者にするおまけ付きでな。


 そう思えば、美咲の心配はごもっともなのだろう。がしかし、脇腹の痛みが言っている。これは理不尽ではないかと。


「美咲の心配はわかったし、心配させたのは悪かった」


 理不尽を飲み込むのも彼氏の甲斐性だろう。だが諸悪の根源は誰であるかははっきりさせなくてはならない。


「ただ、これは全面的に実梨が悪い」

「私⁉︎」

「いやなんで驚いてるんだよ⁉︎ 実梨以外ないだろ⁉︎」


 美咲の心配の根源は、突然可愛い人が八尋君ってどこ? とか言い始めたところから始まる。


 その一言で美咲は警戒心をマックスにした。故に全ては実梨に起因する。


 つまり俺が何かをしたわけではない。ここ大事だから。


「そもそも実梨がもっと穏便に俺に接近してたら美咲が心配することもなかったんだよ」

「今日はどこに行っても注目されちゃうから仕方なかったんだよ!」

「じゃあ今日じゃなければよかったのでは?」

「それは無理!」


 実梨はキッパリと俺の言葉を否定した。


「なんで無理なんだよ?」

「私は一刻も早く自分の教室を出たかったから!」

「そりゃまたどうして」

「……みんなが私を見てないから」


 急に真顔で言う実梨。


 そのあとすぐに、何言ってるかわからないよね、と実梨は困った様に笑った。


「いや、わかるよ」


 俺は実梨の言葉に同意した。


「みんなが見てるのは、ただ中村実梨じゃなくてアイドルの中村みのりって言いたいんだろ?」


 実梨の言っていることを理解できる人はあまりいないだろう。


 それはみんな無意識の内に行っていることで、自覚など何もないからだ。


 それでも、俺は実梨の言葉の意味が痛い程に理解できた。


 俺の言葉が意外だったのか、実梨は目を大きく見開いて固まっていた。

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