第72話 天使は優しく心を照らす③
「それに今を生きているのは私の目の前にいる神崎君でしょ? 過去は過去だよ。みんなそう思っている。ずっと自分を縛り続けていたのは神崎君自身なんだよ」
「相原はそうでも、みんながそうとは限らない。現に家族は、中学の連中は、昔の俺を望んでいたはずだ」
「本当にそうなの?」
「だってみんな、俺が俺であると悲しそうな顔をしていた」
みんなの悲しそうな顔は今でもはっきりと思い出せる。落胆の顔。俺が俺であることへの失望。忘れられるわけがない。
「でも、前の方が良かったなんて言ってなかったんじゃない?」
「それは……」
相原が言うように、たしかにみんな直接的に昔の方がよかったとは言わなかった。だけど、あの顔はそういうことじゃないのか。言われなかったから、は詭弁に過ぎない。
だって母さんは、六花は、間違いなく過去の俺を望んでいる。少なくともそう思っていた。そうだろ? 違うのか?
「他でもない神崎君自身が、自分を勝手に決めつけてる。今が過去には勝てないんだって」
「…………」
「でも、私はそうは思わない。今の神崎君だって前と同じか、いやそれ以上に魅力的だよ。何もなくなんてない。君だってたくさんいいものを持っているんだよ」
「…………」
「どっちも見てきた私が言うんだから、説得力は抜群でしょ?」
最後に相原は太陽にも負けないくらいの眩しい笑顔を咲かせていた。
「はは……無茶苦茶な論法だな」
思わず苦笑い。理解したかはともかくとして、相原があまりに堂々と言うものだから毒気は抜かれてしまった。
そもそもかなりモテる、なんて自分で言うか普通? 言ってみてぇよ。
でも相原はやたらめったら自分がモテることをひけらかしたりしない。これは俺と真っ向からぶつかるためにやっていることだってわかっている。そんなのわからない奴が相原美咲を見守り隊なんて言えやしねぇ。
「でも……相原の気持ちは伝わった」
女の子にここまで言われて、まだ文句をたれようとはさすがに思わなかった。
「相原の言葉だからこそ、胸に響いた」
そう、他でもない相原の言葉だから。佐伯やハカセ、篠宮に同じことを言われてもきっと響かない。両方の俺を知っている彼女の言葉だからこそ、感情が揺さぶられた。
「相原の言う通りだよ。俺はずっと過去の俺に劣等感を抱いて、勝手に勝てないって決めつけて生きてきた。俺は神崎八尋の器に入ったまがいものだってな」
劣等感。俺が絶対に会うことができない、もう一人の俺に対してずっと抱き続けてきたもの。
記憶が戻るといいね。それはつまり昔の俺を求めていることに他ならないと思った。
じゃあ今の俺は必要ないのか?
みんなにそんな気はないのかもしれない。でも俺はずっとお前はいらないと思われているような毎日だった。苦しかった。
だから演じた。いらないと思われないように過ごした。でも限界がきて壊れた。そして逃げ出した。
過去の俺は実際にはどんな俺かはわからない。それでもみんなに望まれるってことは、それはもうすごい奴なんだろう。少なくとも六花はそう言っていた。
過去の俺。俺の劣等感が作り出した超えることのできない幻の自分。
そしてみんなが求める真なる神崎八尋。
なら俺は?
「なあ相原、俺は誰なんだ?」
ずっと抱き続けてきた疑問。自問自答を繰り返して、泥沼にはまっていった疑問。俺は誰なのか。
どっちの俺も知っている天使に尋ねる。今の彼女なら長い間苦しんで来た俺の深淵に答えを出してくれるような、そんな気がした。
「君は神崎八尋君だよ。誰が何と言おうと、君がなんて言おうとそこは絶対に変わらない」
意志の強い目が俺を捉えて離さない。
「俺は……俺」
「そうだよ。過去とか関係ない。今は君が、君だけが神崎八尋君なんだよ」
「じゃあ昔の俺はどうなる? あいつも神崎八尋だろ?」
「過去の君も神崎君だし、そして今の君も神崎君だよ。過去とか今とか関係ない。ひとつの体にふたつの人格なんてこともない。全部ひっくるめて神崎君なの」
「全部、ひっくるめて俺……」
「うん。そこに違いなんてないんだよ。だから今は君が、君だけが神崎八尋君なの。そのことに気づいてほしいんだ」
「そうか……」
風が吹けば消えてしまいそうなほど小さな声で俺は呟いた。
「どっちも俺なのか……」
「そう。どっちも神崎君なんだよ」
どこまでも優しく温かく、彼女は全てを包み込むような笑みを浮かべる。
天使の輝く笑顔。
ずっと光が見えなかった俺の深淵を、天使の言葉が優しく照らしてくれる。
過去も今も、全部ひっくるめて俺。どっちが優れているとか、劣っているとか、本物とか、偽物とか、いつか消える器とか、そう考えることが間違っていたのかもしれない。
そうか。そうなのか。
こんな簡単な答えに気づくまでに、ずいぶん遠回りをしたような気がする。一人暮らしまでしてるくらいだし。でも、そうやって逃げ出した先で、今目の前にいる天使に出会わなければもっと遠回りをしていただろう。
「だから神崎君が見たこと感じたことは全て君自身のものなんだよ。何もなくはない。過去のことは覚えてないかもしれないけど、それでもその過去だって全部今の君のものなんだよ。もし自分が信じられないなら私が絶対に保証する」
相原は右手を俺に差し出す。
「神崎君、過去に囚われないで前に進もうよ。もし怖くて一人で立ち上がれないなら、私が手を差し伸べて引っ張ってあげる。もし立ち上がっても震えて動けないなら、私が後ろから背中を押してあげる。前に神崎君がしてくれたみたいに、今度は私が君を助ける」
「俺はなにも覚えてないけどな……」
「いいの。私が覚えてるから」
「そうか。それは……心強いな……」
「そうだよ……だから困ったら一人で抱えないでよ……私にも一緒に悩ませてよ……もう……神崎君は一人じゃないんだよ……」
よく見れば、相原が差し出した手は小刻みに震えていた。それに本人もいつのまにか目には涙を浮かべて、縋るような目で俺を見ている。
「何もないなんて……自分を否定しないでよ……。神崎君は、どんな神崎君でも私の……」
「相原……」
相原が震えながら差し出した手は、俺を暗い深淵から連れ出すような救いの手に見えた。
振り払うことは簡単にできる。でも、ここまで真正面から俺の心に殴り込みをかけてきた彼女の手を振り払うことなんて俺はできない。過去の俺に顔向けできないとか、過去の神崎八尋なら絶対にしないとか、そんなんじゃない。そんなことをしたら、俺は二度と俺を許せなくなる。
ああ、そうだよな。好きな女の子にここまで言わせて変われねぇなんて、そんなのもう男じゃねぇよな。
変わるなら……過去を断ち切るなら……たぶんここなんだ。今しかねぇんだ。
俺は――
「地震でも起きたら崩れそうなくらい不安定な手だな。そんなんで大丈夫か?」
「大丈夫。神崎君を引っ張るくらいの力はあるから」
「なら手を貸してくれないか。どうにも一人じゃ立ち上がれないんだ」
「!?……任せてよ……絶対に離さないから」
「そうか……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
相原の手を取ると、彼女は力を込めて俺を引っ張り起こした。女の子の小さな力。だけど、俺が立ち上がるには十分すぎる力だった。
相原と俺はお互い黙って見つめ合う。
なんだろう。いつも相原を見ているはずなのに、今の相原を見ているだけで心臓の鼓動が速くなる。
いったいどうしたんだ俺? 天使の可愛さが天元を突破してしまっている。可愛いのは当然なんだけど、より可愛く見えるというかなんというか。
この気持ちは――
「元気になった?」
目に浮かんだ涙を拭い、相原が口を開く。
「どうだろうな?」
「曖昧な返事だなぁ」
「ちょっと今は気持ちの整理をしてる途中だから」
「そっか」
相原は優しく微笑む。
「でも俺はもう大丈夫。たぶん、明日には今まで通りの俺になってる。むしろ今まで以上かもしれねぇな」
確信はないけど、そう思う。
「そういえば」
「どうしたの?」
「告白の返事。やりなおしていいか?」
「……え⁉︎」
一度は断った相原からの告白。でも、
「今なら、もっとちゃんと答えられる気がするんだよ」
まあ答えなんか決まりきってるんだけどさ。
俺は相原がしてくれたみたいに、真っすぐに彼女を見つめる。
「いや、え、えっと、あの、あ、あれはね、神崎君の本心を引き出すために勢いで言ったというかなんというか、いざ改めて本気の返事をもらうとなるとちょっと心の準備ができてないというか、でも告白は理想を言えばやっぱり男の子からしてほしいというか――」
なぜか身振り手振りであたふたしながら、相原は早口でいろいろとまくし立てる。
大丈夫。天使検定免許皆伝の俺は全部聞き取れてる。
「じゃあ俺から改めてすればいいのか?」
「ん!? あ、いや!? そ、そうかもだけど!? 私も別のことで必死だったからちょっと今は心の準備がというか!? か、神崎君はもう元気になったんだよね!?」
「え? まあ相原のおかげで」
「そ、そう言うことなら私今日はもう帰るね!? また明日! ばいばい!」
「え、あ、ちょ!? あ、相原!?」
伸ばした手をすり抜けて彼女は走り去っていく。なんで……。
屋上には、一人俺が残される。
「相原の顔、真っ赤だったな……」
燃え上がるような深紅だった。でも、やっぱり可愛いなぁ。
「告白されたはずのに、なんで告白してきた相手に逃げられたんだ俺は……」
女の子の考えることや行動は、よく俺の想像の斜め上をいく。
てかなんで逃げたんだよ? お前が最初に告白してきたんだろうに。
あれ? でもこんなんで毎回逃げられてたら永遠に今のままじゃね? 俺が告白しようとするたびに恥ずかしがって逃げられでもしたら、この生殺し状態がずっと続くのか!? さっきまでの凛々しい相原帰って来て……。そして俺の言葉を受け取ってくれ。
今までは俺が相原から逃げてたのに、今度は相原が俺から逃げる感じになるのか。
「はは……噛み合わねぇなぁ……でも」
そんな悪態をついても、自然と頬は緩む。
一人残された屋上。俺は彼女に引っ張られた手を見つめる。
「ありがとな……相原」
その温もりを、絶対忘れないように記憶に刻み込んだ。
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