第71話 天使は優しく心を照らす②

「冴えない男が映ってます」


 相原は手を離して俺を解放する。


「冴えないかはともかく、私の目には神崎君が映ってたよね」

「おっしゃる通りで」

「神崎君はさ、ずっと大事なところを勘違いしてるんだよ」

「勘違い?」

「そう、勘違い。だって私、昔の神崎君が好きだなんて一言も言ってないよ?」

「…………は?」


 相原の言葉に思考が停止する。今の今までの会話の前提が覆されて、俺の思考が溶けていく。


 一回整理しよう。相原美咲は神崎八尋のことが好き。自惚れんなよと言われそうだが、これは真実。言質もある。


 次に神崎八尋は相原美咲のことが好き。これもまた高望みであるが真実。事実、黒歴史ノートに残された過去の俺の記録、そして今の俺も相原に好意を抱いている。


 最後に、相原が好意を抱いている神崎八尋は、黒歴史ノートの著者である過去の神崎八尋である。これもまた真実だと思っていて、俺はその前提で話をしていた。


 しかしだ、今の相原のセリフからそれは誤りであると言っている。つまるところ、相原は俺が好きだがそれは昔の俺のことではないということである。


「それは矛盾しているのでは?」

「なんで?」

「そりゃあ、だって」


 じゃあ相原は誰が好きなんだって話になるじゃないか。


「どうして神崎君は1番単純な答えに気がつかないの?」

「いや難解過ぎるんですけど……」

「私は、今目の前にいる神崎君が好きなんだよ?」

「…………」


 その答えを考えなかったわけではない。


 でも、だ。それは一番あり得ない選択として真っ先に頭の中の選択肢から削除された。前からの俺を知っている人が、過去と今の俺を比較して俺を選ぶなんてことするわけないじゃないか。


「それは嘘だよ」


 だから俺は相原の言葉を拒絶する。


 そんな酔狂なやつがいるわけない。俺を元気づけようとして好きとか言ってるならそれこそやめてくれって話だ。かえって惨めになるじゃないか。


「嘘じゃない」


 相原は俺の言葉を淡々と否定する。眉毛の一つも動かしやしない。


「嘘だよ」

「嘘じゃない」

「嘘だよ」

「嘘じゃない」

「嘘だ!!」


 とうとう俺は声を荒げて強く否定した。


 相原は突然強くなった俺の語気に、目を一瞬大きく見開いた。


「嘘じゃないよ」


 だけど相原はどこまでも優しい声で否定する。


 なんでだよ。なんでそんなこと言うんだよ。


「どうしてそんなことを言うんだ⁉︎ 昔の俺を知ってるお前ならわかるだろ⁉︎ 昔の俺と今の俺、比べたらどっちができた人間かなんてお前の方がよくわかってるはずだ‼︎」


 感情が爆発する。


 何でもできた頃の俺と、それを模倣するレプリカの俺。好きになるならどっちかなんて俺でもわかる。


 それをどうして否定し続ける? 相原は何がしたいんだ? 俺の頭をぐちゃぐちゃにして苦しめたいのか?


「どっちができた人間かなんて私は考えない。でも確かなのは、私が好きなのは今の神崎君ってこと。それだけはゆるぎない真実だよ」

「俺のどこにそんな要素がある⁉︎ 俺は神崎八尋の真似をして生きてきただけの抜け殻だ‼︎ 俺には何もない‼︎」

「そんなことないよ」

「優しい言葉はいらねぇ‼︎ 俺のことは、俺が一番よくわかってるんだ!」


 何もない奴を好きになる人なんていない。模倣品の俺を好きになる奴なんているわけがない。


 佐伯やハカセ、それに篠宮、あいつらは俺しか知らない。もしあいつらが同じことを言えばかろうじて納得できる。


 だけど、相原は違う。相原はどっちの俺も見てきている。それならどっちが好かれる方かなんて決まりきっている。


 俺にとって、過去の俺は越えられない壁だ。大きく聳えたって常に俺を見下ろしている。どうしてお前が俺の身体にいるのかと。常にそう言われている気分になる。


 だって俺には――


「俺には……何もないんだよ……」


 最後は絞り出す様に声を出した。


 本音。不安とか悩みとか、相原は俺が抱えているものを知りたいと言っていた。たぶんこれが俺の心の奥底からの本心だ。満足したかよ。


 俺には何もない。困ってるやつをスマートに助けられる力もなければ、いじめられていた女の子を救う術だって思いつかない。


 今の俺が過去の俺に勝っている部分なんて何もない。何もないんだよ。


 なのに……どうしてお前は。


「よいしょ」


 暗い気持ちに支配されている俺の横で、相原は可愛らしいかけ声と共に立ち上がる。


 スカートを軽く叩いてから、相原は俺の足を跨ぐ様に立って俺を見下ろす。


 そして手を後ろに隠して、慈愛に満ち溢れた顔を俺に向けた。


「そっか……それが神崎君の想いなんだね。やっと、本音が聞けた!」


 心の底から嬉しそうに彼女は笑う。


「そうかよ」


 ぶっきらぼうに返事をする。人の黒い部分を見て、その笑顔。腹黒天使かよ。


「これでやっと……私は神崎君と正面から向き合えるね」

「なんだよそれ……」

「もう1回言うね。私が好きなのは今の神崎君だよ」

「だからそれは――」

「神崎君はさ、難しく考えすぎなんだよ」


 俺の言葉をさえぎり、相原は続ける。


「感情は誰のもの? だっけ。そんなの神崎君自身のものに決まってるよ。当たり前だよね」

「それは記憶を失ってないから言えるんだ。記憶を失う前の俺と今の俺が同じ人を好きになるなんて、そんな偶然あるわけないだろ。その感情は、昔の俺が魂に刻んだものを俺が勘違いしているだけなんだよ」

「その好きってのは私のことでいいのかな?」


 相原はどこまでも穏やかに笑う。


「……ああ」


 今更否定したって意味はない。


 でもこの気持ちだって、昔の俺からの置き土産みたいなものだ。


「そっか。でもどっちの神崎君も私に好意を持つ。そんな偶然だって当然あるし、言っちゃえば特にこれに関してはわりと起こりやすい部類だと思うよ?」

「なんでそんなこと言えるんだよ?」

「神崎君だって知ってるでしょ? 私、かなりモテるよ?」


 相原は腰に手を当て、勝ち誇ったように俺を見下ろす。


「もう何回も何回も告白されてるしね。嫌でも自分がモテると実感しているわけですよ。だから神崎君の一人や二人にモテたってそれは偶然。絶対数が膨大なんだから、その中の一つや二つ、大した違いじゃないでしょ?」

「よく堂々と言えるな……」


 つかそんな告白されてんのかよ……天使が天使たる由縁だな。


 俺はそこで以前委員長と会話した時のことを思い出す。とりあえず相原が好きでしょって言っておけば半分以上当たる、だったか。


 たしかに言われてみれば、相原を好きなんてものは特別なことでもなくありふれたものだ。だってみんなの天使なんだから。当然みんな好きになる。好きにならない方がおかしい。


 そのついでに、俺はもう一つ委員長が言っていた言葉を思い出す。


『どっちも私』


 これは委員長が小悪魔モードで俺を誘惑してきた時に言っていた言葉。委員長モードも、小悪魔モードもどっちも自分。何の気なしに言っていた言葉だ。


 だけど、今になってなぜかその言葉を思い出す。


「だから神崎君、君の感情は君のものだよ」


 ゆっくりと、言い聞かせるように相原は言った。

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