第70話 天使は優しく心を照らす①
少し話そうよ。相原は俺の隣に腰を降ろした。スカートを抱き抱えるように座る女子特有の姿。相変わらずお可愛いことで。
相原は自分の横の地面を音もなくポンポンと叩く。
お前も座れよってところか。
無言のお言葉に甘えて、俺は相原の隣に腰かけた。
風が吹いて、相原の香りが鼻をくすぐる。まったく、女子はどうしてこういい匂いがするんだろうか。男とか汗臭いだけなのに。不公平だろ。
「相原って香水とか使ってんの?」
「どうして?」
不思議そうに首を傾げる。
「いい匂いがするから」
「……えっち」
「なんで!?」
すごい褒めたつもりだったんですけど⁉︎
しかし、相原の照れながらの罵倒もそれはそれでありだな。
「普通の人はそんな直接的に言わないんだよ?」
「と言われてもなぁ……」
正直者に世知辛い世の中だぜ。
「しかし、またひとつ賢くなってしまった」
デリカシーを完璧に身につけるため、千里の道も一歩からの姿勢を大事にする。塵も積もれば山となるように、女心のかけらを積み上げていこう。目指せ富士山エベレスト。
ちなみに今は小学生が公園で作る砂山くらいのもの。風が吹けば飛んでいきそうな俺のひ弱なデリカシー。
「どのくらい賢くなれた?」
「テスト後の篠宮くらい」
「ふふっ」
相原が口を押さえて表情を崩す。
テストが終わって魂の抜けた篠宮の姿でも思い出したんだろうか。まあたしかにあれは笑うよな。口から篠宮の形した魂見えそうだったし。
あの瞬間の賢さレベルは相当下のクラスだったと思う。つまり俺のデリカシーはその程度のレベル。
「不思議な感じ」
相変わらず表情を崩している相原が言う。
「なにが?」
「神崎君とは久し振りに話すからもう少し硬い感じになるかと思ってた」
「久しぶり、ね」
「私にとっては久しぶりなの」
「じゃあ久しぶりだな」
たしかに、もっとお互い探り探りになってもおかしくない状況なのに、予想よりいつも通りな感じだ。
「とまあそれはおいといて、俺に話があるんだろ? 聞くよ」
話がいきなりそれてしまったので、自ら軌道を修正する。
どの道逃げ場所なんてないんだ。腹を括るしかない。
「そうだね……」
相原はくの字に曲げていた足を伸ばして、手を足の間に挟む。
「私、神崎君が抱えているものを知りたい」
伺うような声音。
「抱えているのも?」
「うん。抱えている悩みとか不安とか迷いとか、全部を教えてほしいんだ」
「どうして?」
「それは……」
相原は気合いを入れる様に何度か大きく息を吸って吐く。そして、
「……私が、神崎君のことを好きだから」
真っ直ぐな言葉。
相原の優しい目が俺を見ていた。
「それは友達として?」
「ううん、異性として」
「……そうか」
「あんまり驚かないんだね」
「俺だって、さすがにそこまで人の好意に鈍感じゃないってことだよ」
「そっか」
「そうだよ」
あれだけ特別扱いされていれば誰だってわかる。弁当なんて気のない男にあげるわけないだろ。
だけど、これは俺のことではあるが、俺に向けられた好意ではない。相原が好きな俺は、俺であって俺ではない神崎八尋のことだ。
だから、終わりにしよう。この短くも幸せだった夢を。
「相原はさ、感情って誰のものだと思う?」
まだ明るい空を眺め、空に語りかけるように呟く。
「自分のものじゃないの?」
「まあ、そうだよな」
普通はそうだ。
「じゃあ、記憶がない奴の感情は自分のものだと思うか?」
「それは……わからないけど、そうなんじゃないかな」
「例えば記憶を失う前の俺と、今の俺。まったく同じ奴に好きだって感情を持ったとして、はたしてそれは俺の感情だと言えるのか? 前の俺の残滓でそう思わされているだけなんじゃないか?」
感情は自分のものだと言う相原の言葉はきっと正しい。ただしそれは人格が一人にひとつだった場合だ。俺の場合、ひとつの身体に記憶を失う前の俺と、今の俺のふたつの意識が入っていることになるだろう。
俺がいいと思ったものは、好きだと思ったものは、間違いなく俺自身のものだと言い切れる根拠など何もなくて、記憶を無くす前の俺が持っていたものをさも自分のもののように思っているだけの可能性がある。
黒歴史ノートの最終章に書かれた過去の自分の感情を、相原美咲への恋慕を読んでその考えが強くなった。入学試験で俺が相原に一目惚れしたのも、それは過去の俺が刻んだ脳への情報が、今の俺にそう判断させただけなんじゃないか。
「神崎君の意志は神崎君のものじゃないの?」
「もう俺にはわからないんだよ。今こうして相原と話して、俺が感じたものは本当に俺のものなのか。それとも昔の俺の名残で惑わされているものなのかさ」
昔の俺。俺の中に眠るもう一人の自分。みんなが望んでいる理想の俺。
そして、相原美咲を好きだった俺。
「それに、相原の目には誰が映ってる? 君の目に映る俺は……俺じゃないだろ?」
彼女の恋慕は今の俺には向けられてはいない。過去の俺に向けられたものだ。黒い歴史がそう物語っている。
ありがとう。好き。ポジティブな言葉のはずなのに、相原から受け取ると俺の胸は苦しくなる。
「相原の好意は、今の俺が受け取っていいものじゃない」
そう、彼女が見ているのもまた昔の俺。今の俺じゃない。
そんな彼女の好意を俺は受け取れない。俺にはその資格がない。
だから君が俺に抱いた幻想はここで終わりにしよう。
本当は嫌だった。相原との日常は俺が俺として生きていた中で光輝いていたから。
でも、いつまでも逃げ続けるのはよくないからな。君が前に進もうとするなら、俺も君が抱く幻想に終わりを告げないといけない。
「……言いたいことはそれだけ?」
相原の凛々しく真っ直ぐな瞳が俺を射抜く。
「は……?」
想像していなかった言葉に、思わず聞き返す。
「言いたいことはそれだけ?」
「あ、ああ……」
「じゃあ次は私の番だね」
「⁉︎」
それは、一瞬の出来事だった。
相原は両手で俺の顔を押さえつけて、自分の方へと引き寄せる。
相原の可愛らしい顔がいつにも増して目の前に。これが目と鼻の先ってやつかってそれより可愛すぎるお顔が目の前に⁉︎ 反則的な可愛さだろ。
相原の手は温かかった。
視線を外そうにも、顔を完全にロックされているので限界がある。動かしても動かしても、相原の可愛い顔が視界に入る。眼福すぎて逆に目に悪い。
「あ、あいはらしゃん⁉︎」
「私を見て」
相原はさらに顔を近づける。相原の可愛い瞳が俺の瞳と重なりそうな距離。
「私の目には誰が映ってる?」
相原の瞳の中には、美少女に顔を潰されるご褒美を賜っている冴えない男の顔があった。
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