第68話 天使の旅路⑨(美咲 side)
杉浦さんとご飯に行っても、八尋君の様子は変わらなかった。
だから私は作戦を決行した。名付けて、まずは胃袋から忍び寄れ作戦だ。
八尋君のバイト中、私は家でお弁当作りに励んだ。恥ずかしかったけど、何とか受け取ってもらえたお弁当。頑張ったぞ私。
次の日。お弁当箱回収の名目で、私は八尋君の家にお邪魔した。
八尋君の家、ドキドキしながら上がった部屋は、想像以上に殺風景だった。必要最低限のものしか置いていない空間。考えすぎかもしれないけど、まるでいつ消えてもいいような、そんな雰囲気を感じさせる部屋だった。
突然八尋君が電話に出たかと思えば誰かが家に入ってきたらしい。
姉貴、という言葉を私は聞き逃さなかった。八尋君の姉。思いつくのはあの人だけだった。
家のドアが開く音が聞こえて、私は咄嗟に八尋君の背中に隠れた。本当だったらあの人が来たことになる。自然と体が強張る。
部屋に入ってきた声は、いつぞやの時に比べて明るかった。でもこの声は間違いない。
七海さんは軽快に八尋君と会話をしていると、背中に隠れた私に気がつく。まあ誰でも気づくよね。
七海さんと目が合う。彼女はさっきまでの笑顔はどこへやら、私を見た瞬間に一切の感情が消えていた。それでも、彼女はすぐに表情を戻して言った。
「はじめまして」と。
なるほど。そういう体にするのか。七海さんは中々激しいスキンシップを取ってきた。嫌がらせのつもりだろうか。何でまだ君がいるのか、と。
ほどなくして、七海さんは八尋君をお昼ご飯を買わせに行く名目で追い出した。結構無理やりな理由だった。
部屋には私と七海さんだけが残される。嫌な空間だ。逆に七海さんは私と二人きりで嫌じゃないんだろうか。
「……あの時はごめんね。私のこと恨んでるでしょ?」
不意に七海さんが言った。見れば七海さんは気まずそうに視線を逸らしていた。
何をとは言わなくても、私たちの中で認識は一致していると思う。
ならなんで二人きりにしたんだろうか。八尋君を無理矢理にでも追い出したりして。この話がしたかったのかな。
「恨んでましたよ」
「そうだよね……恨んでた?」
七海さんは不思議そうにしている。現在進行形ではなく、過去として扱ったからだろう。でも、私はありのままの事実を告げたにすぎない。
「はい。七海さんも色々考えてあんなことをしたんだと思っています。それに対して恨んでたときもありました。でも今は恨んでません」
「どうして?」
「だって、日記を渡してくれましたから」
「…………」
「本当に会わせたくないなら、最初から約束なんて破ってしまえばよかったことに気がつきました」
そう、絶対に会わせたくないのであれば最初から連絡なんてしなければよかったし、私にあの日記を渡す必要なんてなかったんだ。そうすれば私と八尋君の繋がりは何も無くなる。
それでも、そうしなかったのは七海さんが悩んだ末での譲歩だと今は思っている。
「日記をくれた。私と彼の繋がりを残してくれた。それはあなたの優しさですよね」
でも、と私は語気を強めて立ち上がる。
「今恨んでないのは八尋君とまた会えたからです!」
はっきりと告げた。
「恨んでいない。そう思えたのは奇跡的に八尋君と再会できたからです。今の彼に会えたから過去の出来事を改めて振り返ることができました。だから八尋君に会えてなかったら私は今でもあなたを恨んでいます!」
七海さんは目を見開いて硬直している。よく見れば、顔の作りとかがどことなく八尋君の面影があり、姉弟なんだと改めて理解する。
「少しでも私に申し訳ないと思う気持ちがあるなら、今八尋君が抱えていることを教えてください。私は彼に救われました。彼が困っているなら、次は私が力になりたい」
今の私では八尋君の悩みに立ち入れない。家族である七海さんなら何か知ってるかもしれない。人の罪悪感につけ込むのは褒められたものではないけど、私はそうしてでも彼の悩みを知りたかった。
「そうね……じゃあまず美咲ちゃんは、八尋のこと好き?」
オブラートに包まれないストレートな問い。茶化す雰囲気はない。
「好き……です」
好き。彼に対してその言葉を口にしたのは初めてだった。好きって言葉は、思っていても中々口にできない言葉だ。少なくとも私はそうだ。恥ずかしくて、小声になってしまったけどちゃんと言えた。
「それはどっちの八尋のこと?」
「どっち?」
「そう。記憶を失う前の八尋と、記憶を失った後の八尋」
「八尋君は八尋君じゃないですか。どっちなんて、そんなのおかしいですよ」
「そうかもね。でもそれが今の八尋が抱えている悩みなのよ」
七海さんはゆっくりと、私の知らない八尋君を語ってくれた。八尋君の記憶が無くなってからの今までを。
「と、言うわけよ」
「…………」
しばらく言葉が出なかった。
八尋君の悩みは深刻だ。七海さんの話を聞けば、どうしてこの部屋がこんなにも殺風景なのか理解できた。今の八尋君は、自分自身を否定し続けているんだ。
自分に自信がないのも、全てが繋がった。
だとして、これは私に解決できることなのだろうか。私は言わば八尋君を知る過去側の人間だ。私が全てを明かしてしまうと、それはかえって八尋君を苦しめるだけなんじゃないだろうか。
でも、今のままでは八尋君はいつか潰れてしまう気がする。けれど私は何もできない。私は、彼にとっての爆弾だ。ずっと秘密にしていた方がお互い幸せな気がする。いいことだとは思わないけど、八尋君の心を守るためにはこれがベストだと思った。
「私は、何もしない方がいいんでしょうか?」
導き出した答え。
「美咲ちゃんはそれでいいの? 八尋のこと好きなんでしょ?」
「好きだからこそ、好きな人には苦しんで欲しくないんです」
「それは問題の先送りだよ」
七海さんは痛いところを突いてくる。
「私さ、あの時美咲ちゃんを八尋に会わせなかったこと、結構後悔してるんだよね」
「後悔?」
「八尋は今の八尋でいいんだって、過去を知ってる人が言ってあげるべきだったんだ。家族じゃなくて、八尋が好きだった人から直接ね。あの時の私はそれができなかった」
「でも、それは」
「八尋は苦しむかもね。それでもどこかで過去を断ち切らないとずっと過去に囚われたままになる。逃げれば逃げる程、きっとそれは大きく積もる」
七海さんは財布から2枚のチケットを取り出す。
「捨てようかと思ってたけど、ちょうどよかった」
「これは、あの水族館の」
私と八尋君の出会いの場。全てが始まり、そして終わってしまった場所。
「そ、ゴミにしようかと思ってたけど、美咲ちゃんがその気なら何とかして予定をねじ込むよ。これ期限明日までだけど」
「明日⁉︎」
「私はこのままで良いとは思わない。八尋のためを思うからこそ、私はあいつに立ち直って欲しい。どう、おあつらえ向きの場所だと思わない?」
「私は……」
私だって今の八尋君の状態がいいとは思わない。だけど、もし私が行動して今の八尋君との関係が壊れたら? もう二度と元に戻らなかったら? 私はそれが怖かった。彼に傷ついて欲しくない。そう思いつつ、傷つきたくないのは私もだった。
だけど、それは私の事情だ。八尋君は以前私を助けてくれた。心だけでは無く、車に轢かれそうな時は自分の身を顧みずに私を守ってくれた。
さっき私は七海さんに言った。次は私が彼の力になると。
関係が壊れるかもしれない。嫌だけど、それで八尋君が少しでも前を向けるようになるのなら私は。それに私からすればどんな八尋君でも八尋君だ。答えなんて決まっている。
「わかりました。八尋君に今までのことを全部話します。そのうえで、私にできることをします」
「……辛い役目を押し付けてごめんね」
「いいですよ。私だって、本当は八尋君に前を向いて欲しいですから」
この人のことはあまり好きではない。だけど、八尋君のことを想うその一点では、私と七海さんの考えは一致している。
そこから先はやはり想像通りというべきか、水族館で私の話を聞いた八尋君はとても苦しそうで胸が痛くなった。気持ちを伝えようとするところまではやりすぎだったかな。でも、あれは私の偽らざる本心だ。
続きを話そうとしても、聞く耳を持たず、八尋君は体調が悪くなったと言ってふらふらと帰ってしまった。追いに行きたい。でも、今はダメだ。きっと何を言っても届かない。
だけど後悔はしていない。私は八尋君に前を向いてほしい。そして本当の意味で私をちゃんと見てほしい。
それに、昔私を助けてくれたことに対する感謝はずっと言いたかった。自己満足だけど、私は彼にやっと言えた。
あとは、これからだ。
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