第65話 天使の旅路⑥(美咲 side)

 一度は八尋君のためにと、迷惑をかけないようにと諦めた思いを呼び起こす。


 この行動は八尋君を思えば正しくないかもしれない。でも、ここで行かなければ私は今ある以上に後悔をしてしまう気がした。それは嫌だ。


 私を知らない彼に嫌われてしまうかもしれない。「誰?」と言われて自分が傷ついてしまうかもしれない。


 でもそんなことは、彼と会えなくなるよりはマシだ。


「神崎さんは昨日退院されました」

「……え?」


 病院で告げられたその言葉。


 昨日退院した?


 会えるようになったら連絡するって言ってたのに、あれは嘘だったの?


 実はずっと前から会えたってこと?


 様々な思考の中、確かなことは八尋君はもうここには居ないということ。


 七海さんは日記を読んだら私がここまでするかもしれないと予想していたのだろうか。


 頭が混乱している。


 そんな中ひとつだけわかったこと。私と彼を繋ぐ糸は、こんなにもあっさりと断ち切れてしまったのだ。その日はどうやって家に帰ったかよく覚えていなかった。


 それからいく日も私は水族館に足を運んだ。


 七海さんに連絡をとっても、反応は返ってこなかった。


 記憶喪失について調べてみれば、あるきっかけで思い出すこともあるらしい。思い出したら彼もまたここに来てくれるかもしれない。


 淡い期待をこめて通い続けても、彼が来ることはなかった。たまに一人で日記を読んでは涙を流し、時の流れと共にいつしか水族館へ足を運ぶ頻度が減っていた。今年は受験生。いつまでも遊んでいるわけにもいかなかったから。


 ただ待っているだけでは暇だと魚について勉強を始めれば、気づいた頃にはだいぶ詳しくなっていた。


 彼の来ない水族館に名残惜しいけど別れを告げて、私は勉強に身を注いだ。今までの思い出を塗り潰すように、全てを忘れるように私は勉強に没頭した。


 私が勉強に没頭していけばいくほど、世界から色が消えていった。学校では友達と笑い合いながら日々を過ごす。一時期に比べれば格段に幸せな状況だ。


 それでもモノクロの世界が広がっていく。満ち足りない。大事なものが抜け落ちてしまった世界。私の周りの環境が明るく色付いていく程に、私の世界から色が消えていく。


 私に優しい世界。彼のいない世界。勉強している間だけは、余計な考えを塗り潰せた。


 冬が訪れ、入学試験の季節。様々な気持ちにも少しずつ折り合いがついてきた頃、私はそれなりに有名な進学校の試験を受けることにした。


 試験会場の教室に来れば、ピリピリとした空気が肌に伝わる。


 私は自分の番号が書かれた席に座る。隣の席はまだ空いている。


 試験勉強は充分にしてきたつもりだけれど、一発勝負となるとこの空気と相まって緊張する。


 筆箱から筆記用具を取り出して、いつも通りの気持ちを忘れてはいけないと目を閉じて静かに深呼吸を繰り返す。


 自分の世界に集中すると、普段より早く脈打つ鼓動に意識が傾く。大丈夫。やれることはやった。


「終わった…………」


 隣から始まってもいないのに終了を告げる声が聞こえて来る。いつのまにか隣の人が来ていたようだ。


 その声音は本当に終わってしまったかのようにか細く絶望に満ち溢れていた。


 何か忘れたのだろうか。だけど私は構わずに瞑想を続けた。


「いや待て、諦めるにはまだ早い。俺が何も間違えなければいいんだ。消せないなら、消させるようなミスをしなければいいだけじゃねぇか」


 小声かつ早口で自分を落ち着けようとしている。


 何を忘れたのか疑問を抱いていたけど、隣の人の口振りから察するにどうやら消しゴムを忘れたらしい。


 確かに試験で消しゴムを忘れるのは致命的だと思う。私もいざという時のために2つ用意している。


 それにしても、視界が閉ざされていると声がよく聞こえる。それに、なんだかどこかで聞いたことがあるような声だ。少し懐かしい感じがする。


 声の低さから男の子だろう。ミスしなければいいとは中々ポジティブな考えだ。試験なんてネガティブな気持ちでいっぱいになるのに、意外と余裕あるんだなと思う。さっき絶望してたのに立ち直りが早い。


「ミスの許されない戦い……ぎゃ、逆に燃えるじゃねぇか……」


 そう言った声は震えていた。前言撤回。やっぱり焦ってるようだ。


 そして私は再度思う。この声はやはり聞いたことがある気がする。どこで聞いたっけな。


『頑張ったね』

「⁉︎」


 いつか言われた言葉。隣で聞こえた声と、思い出の中の声が一致して、私は寝坊に気づいた時のように一瞬で覚醒して隣を見る。


 そんな偶然があるんだろうか。声が似ている人なんて世の中にはいっぱいいる。下手に希望を抱かない理由を探しながら、もしかしたらとの思いで確かめる。


「…………」


 そこには、ぶつぶつ小声で独り言を唱えている男の子が一人。


 そんな、いやまさか。世界には自分と同じ顔をした人が3人はいる。昔ドッペルゲンガーの話をされた時に聞いた話だ。今回もそうに違いない。


 だってこんな奇跡は普通起きないんだから。


 そこにいたのは、あの日から会いたくてやまない彼の姿に違いなかったのだから。


 心臓の鼓動がうるさい。目を閉じていなくてもさっきより鮮明に聞こえる。


 モノクロだった私の世界が急激に色づいていく。


 彼の姿から目が離せない。そうしてマジマジと見つめていると、そんな私の視線に気づいたのか彼もこっちを見た。


 目と目が合う。お互い見合わせて、視線が交錯したまま動かない。やはり、この目は彼の目だ。


「えっと……俺の顔になんかついてる?」


 彼は困惑した表情をしている。


「あ……もしかしてうるさかった?」

「えっと、その……」


 うまく言葉が出てこない。何か言葉を探そうとして、私は机にある消しゴムを一つ掴み取って彼に差し出した。


「消しゴム、忘れたんですよね? これ使ってください」


 彼は目を見開いて固まって、視線は自分の手のひらに置かれた消しゴムと私を行ったり来たりしている。


「マジで? いいの?」

「私は二つ持ってきてますから」

「本当にいいのか?」

「大丈夫ですよ」


 笑顔はうまく作れているだろうか。


「マジかよ……ありがたく拝借させていただきます」


 彼は崇めるように頭を垂れて感謝の意を私に示す。試験前の教室で私たちは変に注目されていた。


「う、うん」


 それがなんだか恥ずかしくって、私は身体を正面に戻した。


「……天使かよ」


 隣で彼が言った言葉はよく聞こえなかった。


 でも、間違いなく彼だ。私が間違えるはずがない。雰囲気はすごく変わっているけど、彼は私が知っている彼だ。


 運命なのか。もう一生会えないかもしれないと思っていた彼もここを受験している。


 私も彼も落ちるかもしれない。そうしたらまた会えなくなる。元気な姿を見られただけでも胸がいっぱいになった。でも、二人とも合格すれば彼と同じ学舎で、同じ教室で一緒に過ごせるかもしれない。その未来を掴み取れる可能性があるとわかった今、絶対に落ちるわけにはいかない。


 私が受かったって彼が受かるとは限らない。それでも、私が可能性を潰すなんてことはしたくない。


 かつてない気合いで臨んだ試験の結果、私は無事に合格した。試験の時にチラッと覗いて確認していた彼の試験番号。合格発表の時、自分の番号より彼の番号があった時の方が私は喜んでいた。

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