第64話 天使の旅路⑤(美咲 side)

 水族館のいつものベンチに私は座る。今日もペンギンは私とは違って元気だ。


 膝の上に置いた日記を開いて、私はかつて隣にいた彼のことを考える。


 こうして一人でここいると、何かが足りないと私の心が叫んでいる。最初は一人だったのに、気づけば隣に彼が居るのが普通になっていた。


 神崎八尋君。私の待ち人はもうずっとここにはいない。


 1ページずつ、噛み締めるように彼の思いに触れていく。日記なんて、本来誰かに見せるものではないことはわかっている。私は今、彼の心に土足で踏み入っているんだ。それでも、私はページを捲る手を止めない。これだけが、私と彼を繋ぐ最後の拠り所なのだから。


 思い出すのは、七海さんに呼び出された昨日のこと。


 八尋君の入院する病院に呼び出された私は、はやる気持ちを押し殺して七海さんに会いに行くと、案内されたのは病室ではなく屋上だった。


「八尋は、記憶喪失なの」


 突然言われたその言葉を、私はしばらく飲み込めなかった。


「美咲ちゃんの知ってる八尋はもういない」


 七海さんは事実だけを淡々と告げる。


 記憶喪失。私はそんなもの作り話の中だけの話だと思っていた。


「そんな……嘘、じゃないんですよね?」


 七海さんの顔を見れば、嘘を言っていないことなんてわかっていた。だけど、信じたくない自分がいて、僅かな望みに手を伸ばしてしまう。


「嘘だったら、お母さんや六花は喜んだろうね」

「そう……ですか」


 私は力なく視線を落とした。


「それでね、八尋は今ちょっと複雑な状態なの」


 七海さんは言いづらそうにしながらも、八尋君の事情を説明してくれた。八尋君が、自分の過去を知っている人に会いたがっていないということを。本人はそうは言っていないけど、七海さんにはわかるようだ。彼は家族と話す時、いつも仮面を貼り付けた笑みを浮かべているらしい。


「だからね……」


 その先に何を言わんとしているかは、口に出されなくてもすぐにわかった。はっきりと言わないのは七海さんなりの気遣いなのだろうか。


 今は会わせられない。そう言っているんだ。


 色々と感情が渦巻いている。だけど、八尋君に迷惑をかけたくない。そう考えれば、私が取れる選択肢は一つしかなかった。


「わかりました。それが八尋君のためになるなら」

「いつか、八尋が落ち着いた時が来たらその時はきっと」


 会えるとは言ってくれなかった。いつかって、いつなんだろう。答えのない問いかけは胸の奥にしまった。


「これを」


 七海さんは一冊のノートをカバンから取り出した。


「これは?」

「八尋の日記の一つ。ここに出てくる女の子って美咲ちゃんだと思うから」

「どうしてですか?」

「なんとなく。内容と、事故に遭った場所とその日に美咲ちゃんがいたことを考えたら、なんとなくそうかなって」

「なぜこれを私に?」

「美咲ちゃんに記憶を失う前のあいつの気持ちを知っておいてほしいと思ったから、かな。ごめん。うまく説明できない」

「…………」


 七海さんは、終始申し訳なさそうだった。私には、彼女は自分のやっていることが正しいことなのか判断に迷っているように見えた。


 八尋君に会いたい気持ちはとても大きい。でも、八尋君に会いに行ったところで、今の私はもはやただの他人だ。七海さんの言葉に納得したわけではない。私は、八尋君に「誰?」と直接言われるのが怖かった。今までの思い出を、本人自らに否定されてしまうのが怖かったんだ。だから尻込みしてしまう。


 結局、私は、八尋君にお礼も言えずに立ち去ってしまった。本当にこれでよかったのか。それでも会いたいと七海さんに言うべきだったのか。私もまた、何が正しかったのかわからなくなっていた。


 そうして今に至り、私は日記を読み進める。初めは他愛もない日常の一編。八尋君が見たこと、感じたことが彼の言葉で書かれている。それを見て笑ってしまう。日記での彼は、話した時の彼そのまんまなんだから。書かれた内容が彼の声で再生される。


 そのまま読み進めていくと、あるページで私の手が止まる。


『今日は友達に貰った水族館の年間パスポートを使って水族館に来た。無理やり押し付けられた感は否めないが、無碍にするのも可哀そうなので行くことにした。行くならとことんだと、途中で海の生きもの図鑑を買った。地域で1番大きい水族館。海の生き物はこの水の檻の中で仮初の自由を謳歌している。一通り探索していると、あるベンチに一人の女の子が座っていた――』


「…………これって私だよね」


 水族館。ここのベンチに座る女の子はおそらく私のことだろう。それ以外には考えられない。


 そして、これは私が八尋君を初めて見た時の前の日なのかもしれない。日記の続きには私と話したそうにしている文面が見て取れたから。


 再びページを読み進める。そこから数日は私が現れないことへの感想が記載されていた。どうして来ないのかと書かれているが、お気に入りの場所に知らない人が居たら普通座らないと思う。彼はその辺理解していなかったのだろうか。何でもできる人のように思っていたけど、その辺りのことは抜けているのかもしれない。これもまた、私の知らない彼の一面だった。


 日記は私と初めて話した日まで進む。


『今日は初めて彼女と話した。隣に座ったと思ったら気づいた時には涙を流していて、少し焦って冷たくハンカチを押し付けてしまった。気になる人と話せるから緊張してしまい、初めにしては最悪の印象を与えてしまったと思う。これは反省しないといけない。ただ、やはり彼女は何かを抱えているんだろう。だけど人には誰しも触れられたくないことがある。それを無闇に踏み入るのはとても難しいことだ』


「こんなこと思ってたんだ……」


 あの時の八尋君はこんなことを思っていたのか、と裏側の気持ちを知っていく。私としてもかなり恥ずかしい思いをしたけれど、彼も中々に緊張していたらしい。そんな素振りは微塵も感じなかったのに。


 彼は気持ちを隠すのが上手だったようだ。


 ひとつひとつ丁寧に、彼の心に触れながらページを捲る。やがて舞台は私の抱える悩みを解決するところまで進んでいく。


『彼女に授けた方法は果たして本当によかったのか。僕はずっと考えている。どれだけ言葉を並べようと、僕は所詮蚊帳の外だ。彼女の助けになればと息巻いているものの、口先だけで何もできないことがもどかしい。カッコつけて解決策を述べたって、最後は彼女自身でなんとかするしかない。それでも、僕と同じで男は単純なんだからきっと大丈夫だと信じるしかない。可愛い女の子を助けたくない男はいない。僕とてそれは例外ではないのだから』


 わたしはさらにページを捲る。


『今日、彼女から事態が好転したと言われて、肩の荷が降りたように安堵した。授けた知恵は諸刃の剣で、誰か名乗りを上げてくれるか心配ではあったから。勇気を出す。その一歩を踏み出すにはそれ相応のエネルギーがいる。それが大変なことへ挑むのなら尚更。どうやら彼女のクラスにも正義感を持った人間がいたらしい。それならもう大丈夫。味方ができれば風向きは変わる。後は時間の問題だ。彼女の笑顔はとても魅力的だから大丈夫だと思ってたけど、不安は不安だったから』


「…………」


 さらにページを捲る。どうやら最後の日記だ。


『最近彼女はよく笑うようになった。やはり彼女は笑っている方がいい。しかし、あの笑顔を見るのは自分だけでもいいと言う感情もある。気がつけば僕は彼女に惹かれていたようだ。自分としても初めての感情に戸惑っていたが、認めてしまえば腑に落ちた。だけど、今の魅力あふれる彼女の隣にいるのは、何もできなかった僕ではなく相応しい男がいるはずだ。僕はなにもしていない。僕は彼女の背中を押した男として、この水族館の中だけの友達でいれればそれでいい。だって僕たちの繋がりは、切ろうと思えば一瞬で切れるのだから』


「なに……それ……」


 日記にぽたぽたと雨が降り、紙が滲んでところどころ文字が歪んでいく。


「全然私の気持ちをわかってないよ」


 どうやら今日は土砂振りのようだ。天気は晴れなのに、私の下だけ大粒の雨が滴っている。最近の私はどうにも脆い。1年分を先に吐き出しているのではないかと思うくらい流している気がする。


 それでも、雨はしばらくやまなかった。


 八尋君は一度も私に弱いところを見せなかったのに、この日記では弱気な事ばかり書いている。彼は私がどれだけ彼に救われたのかまったく理解していない。


 でも、日記を読んで確かにわかったことがある。私は彼に会いたい。たとえ記憶を失っていても、たとえ彼が私を知らなくても、たとえ自己満足と言われようと、やっぱり私は彼に思いを伝えたい。ありがとうって、言いたいんだ。


「……よし!」


 涙を拭って私は勢いよく立ち上がった。目指すは病院。七海さんには怒られるかもしれないけど、この気持ちは止められない。


 普段は5分待てば来る電車も、今日に限っては随分待たされている気分になった。


 早く彼のところへ。八尋君のところへ。


 そう思って人目も憚らずに全力で走った。息が上がっても走った。1秒でも早く彼のところへ。

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