第63話 天使の旅路④(美咲 side)
流れ出る鮮血が頭から離れない。
やってきた救急車に運ばれていく彼の姿を見て、私はハッとして救急隊員さんに同乗をお願いした。驚かれたが特に断られることもなく、私は動かない彼と一緒に病院に向かう。
中にいたって、声をかけたって反応は返ってこない。私がここにいても出来ることなんて何もないのはわかっていた。それでも、今ここで彼を見送ってしまったら、もう一生会えないような予感がして、私は彼と共にいる。
私たちは互いの名前も知らずにただ水族館で会うだけの関係だ。彼が無事ならまた水族館に来てくれるかもしれない。でも、なぜだか嫌な予感がしたのだ。
救急車の中では隊員さんが必死な声で救命措置を取っていた。何か色々と言っているが、それが頭に入るほど私は冷静ではなかった。
ずっと黙って彼の手を握る。離したらいけないような気がして、私は願うように強く握り続けた。
病院に着くと、彼は治療室へ運ばれた。もう私に出来ることは何もない。手術中のランプが赤く光っている。私は近くのソファに腰掛けて祈ることしかできない。
どれだけ時間が経っただろうか。彼の家族と思われる人たちが焦りを滲ませた形相で走ってきた。私には目も暮れず、みんな手術室の前で呆然としている。
少しして、また一人制服姿の女の人が息を切らしてやってきた。先ほど来た人たちと話しているところを見ると、彼女も家族なんだろう。
彼女は私を見つけると、家族に何か確認してから私の方に向かってきた。制服姿の
女の子は二人いるけど、後から来た方が多分お姉さんの方だと思う。さっきもう一人の方を慰めるように抱き締めていた。
「えっと、八尋の知り合い?」
落ち着いた声で話しかけられた。
「友達……です」
この関係を友達だと言っていいのかわからなかったけど、彼との繋がりを知り合いという言葉で片付けたくなかった。一般的なそれとは違うかもしれない。でも私と彼は間違いなく友達だと、少なくとも私は思っている。
「事故って聞いたけど、何かわかる?」
そう言われて、私は全てをありのままに話した。八尋君は私を庇って事故に遭ってしまったことを。
「……そう。八尋が勝手にやったことだから、あなたが気負う必要はないからね」
それだけ言って彼女はまた家族のところに戻って行った。
私のせいだと言われた方が楽だったのにな。
私はまた祈るように手を重ねた。神様が本当にいるのなら、どうか彼を、八尋君を助けてください。私から光を奪わないでください。
携帯が震えたと思ったら親から帰りが遅いことに対する心配の連絡が来ていた。携帯に映し出された時間を見れば、確かに心配されてもおかしくない時間だった。とりあえず、遅くなりますごめんなさいとだけ返した。
お姉さん? が説明してくれたのか、他の人は私に触れることは無く、静かに手術が終わるのを待った。
「あ……」
誰が言ったのか、その声に顔を上げれば、手術中のランプが消えていた。中から先ほどまで手術をしていたであろう先生が神妙な面持ちで出てきた。
嫌な予感が頭の中を支配しそうになって、慌てて首を振った。
今すぐ駆け寄って結果を聞きたかった。でも、私はそこに行く資格があるのだろうか。ただの友達の私が、家族が集まるあの空間に居ていいのかわからなくて、結局私は立ち上がったもののその場に立ち竦んでいた。
いや、違う。居ていいのかとかそんなのは詭弁だ。私は、結果を聞くのが怖かった。もし、最悪の場合だったらどうしよう。その考えがよぎるだけで私はこうも動けないでいる。
怖い。だって私は現場を見ている。あの流れる血の多さをこの目で見ている。あの血の熱さを、鉄の臭いを、私は覚えている。
立っている足が震える。
医者の先生は家族と話しているが何も聞こえない。それでも、母親と思わしき人が崩れ落ちて行くのを見て、私はまたいやな想像をした。スカートの裾をキュッと握って思考を遮る。そんなことはない。
先ほど話しかけて来た女の人がまた私のところに来た。
「手術の結果だけど」
耳を塞ぎたくなった。知りたいけど、怖い。結果を聞いてダメなら、もう受け入れるしかなくなる。私はそれが怖かった。もっと嬉しそうな空気感なら前向きに聴けたと思う。でも、この空気はどうしても嫌な方向に考えてしまう。
「なんとか一命は取り留めたってさ」
「あ……」
キツく目を閉じて言葉を待っていた私に放たれたのは、予想を裏切る朗報だった。私は目を見開いて女の人を見る。安堵した笑みを浮かべているが、その瞳は潤んでいるように見えた。
「……よかった」
全身の力が抜けて、私は糸が切れたようにソファにもたれかかった。
「よかった」
確かめるように呟く。
「本当によかった……」
「でも、しばらくは家族以外との面会は禁止みたいだから、すぐには会えないと思う」
「そうですか……それでも、生きていてくれたならそれだけで私は」
無事、ではないけど八尋君は生きている。それだけで今は十分だ。一生会えなくなるかもしれないと考えていたんだから、いつか会えればそれでいい。
「八尋もこんなに可愛い友達いたなら言ってくれればいいのに」
彼の無事を知ったからか、言動にも余裕があるように感じる。
「そう言えば自己紹介がまだだったね。私は神崎七海。八尋の姉です」
「えっと、相原美咲です。八尋君の友達です」
「じゃあ美咲ちゃんだね。LINEやってる?」
「やってます」
「じゃあ交換しよっか。八尋と会えるようになったら連絡するからさ」
私は七海さんと連絡先を交換した。本人よりも先に、家族の人の連絡先が増えてしまった。
八尋君の無事もわかり、面会もしばらくできない。会えるようになれば七海さんが教えてくれることになり、今日はもう帰った方がいいと彼女に言われたので、本当は今すぐにでも会いたい気持ちを抑えてその言葉に従うことにした。ワガママを言ってどうにかなるような話でもない。
すっかり暗くなった帰り道。忘れないように、病院を出る時に病院の名前をメモしておいた。
帰り道、どうにも視界がボヤけて仕方がなかった。今日は霧でも何でもないのに。
「ただいま」
間違いなく怒られると思って恐る恐る家のドアを開ける。私が帰ると、お母さんが直ぐに飛んできた。
「美咲‼︎ こんな時間までどこに――」
「ごめんなさい」
心配そうなお母さんの顔も不思議とよく見えない。
「美咲……どうして泣いてるの?」
「え?」
私は泣いていた。言われてみれば視界が滲んでいたのはそのせいか。
お母さんは私の近くまで来ると、何も言わずに私を抱きしめた。
「どうしたのお母さん?」
「なんとなく、今はこうするべきだと思ったの」
「そっか。お母さんはやっぱりお母さんだね」
「何があったかは後で聞くから、今は思いっきり泣きなさい」
「……うん」
私はお母さんの胸の中で、声を殺して泣き続けた。八尋君の家族の前では絶対に流してはいけないと思って我慢していた。私のせいで八尋君が命に関わる大怪我をしてしまったのに、その原因の私が悲劇のヒロインを演じるなんて家族に失礼だ。
それでも、一人になったら色んな感情が溢れてきて我慢できなかった。
涙が空っぽになるくらい泣いた私は、とりあえず着替えてきなさいとお母さんに言われたので着替えた。お父さんにも話すと、黙って私の頭を撫でてくれた。
「落ち着いたらちゃんと会ってお礼を言いなさい」
最後はお父さんのその言葉で締め括られた。
この時は、まだ八尋君に会えると思っていた。
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