第62話 天使の旅路③(美咲 side)

「まだ友達とぎこちなさは残るけど、概ね元通りになりつつあるよ」


 いつも通りの水族館。彼に助言をもらってから1ヶ月。私の取り巻く環境は驚くことに180度変わっていた。


「それは良かった」


 いつものように彼は本を読みながら短く答える。いい加減その本は飽きないのだろうか。1ヶ月以上読み込んでいるから、もう暗記さえしてそうな予感がする。そんな本よりもっと私にも興味を向けてもいいのではなかろうか。


 しかし、思い返せば彼の言う通りにしたら本当に解決してしまった。むしろ今まではなんだったのだというくらいスムーズにことが運んだ。


 私がしたことを言えば、いじめをしてきた女子たちに戦線布告をして、なにかやられるたびに直接文句を言ったこと。そして、ただ毎日無理やりにでも笑顔で過ごして、みんなに挨拶するだけ。本当にそれだけしかしていない。


 それでどうなるのかと思ったけど、私は彼の言葉を信じると決めていたからずっと続けた。するとどうだろう、ある時クラスの男子の中心である千葉君が私のことを庇ってくれた。


 いままでごめん。そう謝られて、これからは俺は相原の味方になると宣言してくれた。たぶん、潮目が変わったのはここだと思う。


 千葉君が行動をしてから、クラスの男子が以前のように私に話しかけてくれるようになり、次第に女子も話しかけてくれるようになった。そうした流れが伝播して、気がつけば私を除け者にしていた彼女たちの方が居心地の悪い空気が出来上がっていた。


 私に何かをしてもみんなで助けようという空気感が出来上がり、迂闊に私に手を出せば逆に自分たちの方が被害を受けそうと思ったのか、次第に彼女たちからの嫌がらせはなりを潜めた。そうして私の日常が返ってきた。


 とはいえ、まだ友達が私に接する際、後ろめたさからくる壁を感じるが、それは私が崩していかなくてはいかないものだ。


 彼女たちに思うことがないと言えば嘘になるけど、それを気にしていたら私も前に進めない。今はとにかく、再び手に入れた日常を大切にしたい。


「君の言う通りにしたら本当に何とかなっちゃった。どこまでこの展開が見えてたの?」


 結果的に助けてもらったことへの感謝はつきない。だけどあまりに彼の予想通りに進みすぎて少し怖かった。なぜ私の話を聞いただけでここまで正確な対応ができるのか。


「君の笑顔を見た時からだよ」


 彼は本に目を向けながら話を続ける。


「君は自身が理解している通り容姿が一般的なそれよりかなり優れている。そんな君が困っていたら、普通の男子は力になりたいと思うのが常だ」

「どうして?」

「男は単純な生き物なんだよ。可愛い女の子が困っていて、周りが誰も助けないなら、誰しも自分が助けてヒーローになりたい願望を抱くものだよ。それに、君はとびきりの美少女なのだから尚更そう思う人がいてもおかしくない」


 彼は本を閉じて私に視線を向ける。


「ただ、そこには一つの問題があった。自分が動くことによって君に被害が及ぶのではないかという懸念だ。だからまずは君自身が戦う意思を示す必要があった。絶対に折れないと意思表示をすれば、後は誰か一人くらいそんな君を助けてヒーローになって、あわよくばお近づきになりたいと思う男が出てくると踏んだ。その通りになっただろ?」


 色々なことを彼に報告したが、彼は最初からこうなるとわかっていたのだ。だから千葉君の話をした時に彼はもう大丈夫なんて言ったんだ。


「この作戦の肝は千葉君のようない男が一人でも現れるとことだった。だから君には笑顔を徹底してもらったし、助けに入りやすいように色々としてもらったんだ」

「それでも、どうしてそうすれば私を助けてくれる人が現れるってわかるの? そうは言っても助けが来る保証はないよ?」


 それでも彼は迷わず返答する。


「だから単純な話で、可愛い女の子を助けたくない男なんていないからだよ。それにみんな心ではどっちが間違えているかはわかっているんだよ。後は踏み出せるかどうか、勇気が出せるかどうかだけだ。可愛い女の子を助けたいはその勇気を出すための大きな要素のひとつ。だから君以外の誰かが勇気を出しやすい状況を君が作った」


 そこで彼は自嘲気味に笑う。


「君の頑張りが君を救ったんだよ。言ってしまえば、僕は口を出しただけでその実何もしていない。全部、君自身が掴み取ったものだよ」

「そんなこと……ないよ」


 そんなことはない。聞き流してもよかったことに向き合ってくれた。この問題が解決するまでずっと毎日話を聞いてくれた。私に道を示してくれた。その全てを無かったことにして、何もしていないなんてことはない。


 彼に会わなければ、きっと私の問題はまだ解決していない。


 気づけば低い声で彼の言葉を否定していた。彼がしてくれたことは私が知っている。だからそれを彼自身に否定してほしくなかった。私が否定なんかさせない。


 ここで話すことがどれだけ私にとって救いになっていたか彼は理解していない。


「いや、僕は何もしてないに等しいよ」

「違う。君は私を助けてくれたよ」

「だけど、僕はここで君と話すことしかしていない。それで君のために何か成し遂げたなんて言うのは君に失礼だ」

「そんなことない!」


 私は無意識に立ち上がっていた。


 どうしてそこまでして自分の功績をなかったことにしようもするのか。謙遜も行き過ぎれば顰蹙を買うように、今の彼は私の怒りを買っている。


「君は私にとっての救いだった! 君がいなければ私は今も心を擦り減らして耐えているだけだった。いや潰れてたかもしれない。それを救ったのは間違いなく君なの! それを僕は口を出しただけで何もしてない? そんなことない! 自分がしたことにもっと自信持ってよ!」

「ありがとう。でも、君を救ったのは間違いなく君自身だ。僕はほんの少しだけ手段を示して背中を押しただけだよ」


 どこまでも冷静に彼は返答する。


 それがかえって私の語気を強くする。


「それが私にとっては何よりも嬉しかったんだよ! どうしてわからないの⁉︎ 君はひとりの女の子を間違いなく助けたの! そんな君のこと……私は……⁉︎」


 その先を言おうとして、私はハッとして口を噤む。


「そんな卑屈な君は見たくない! 今日は帰る!」

「いやそんな急に――」

「ばいばい!!」


 私は理由をつけて逃げるようにその場を走り去った。


 顔が燃えるように熱い。それに勢い余って私は何を言おうとしたの?


 水族館の出口まで駆け抜ける。途中で周りの人の迷惑そうな視線を感じたけど今は許して欲しい。この顔の熱を少しでも冷やしたかった。


 水族館の出てすぐの信号は赤で、私はそこで止まって息を整える。


 荒い呼吸に高鳴る鼓動。それは走って疲れただけのものじゃなくて、べつの意味でも鼓動が早くなっていることがわかる。


 私は、もしかして彼の事が。思い当たるフシはたくさんあった。彼に可愛いと言われた時は人生で言われた可愛いの中で一番恥ずかしかったし、私の問題に変な理屈をつけて介入してきた時は凄く嬉しかった。彼自身は大したことないと言うが、全然そんなことはない。


 何より、彼とあの場所で過ごす時間はとても楽しかった。私にとって彼は暗い日常に現れた一筋の光だったんだ。


 初めこそ私の特等席を奪われた怒りがあったのに、気がつけば私は彼に会うために水族館へ行っていた。いつも本ばかりで私を見てくれない彼、それでも時折見せてくれた優し気な目をした彼。その全てが私の胸深くに刻まれている。


 そうか、やっぱり私は彼のことが。


 勢いで逃げ出してしまったけど、次の時にちゃんと謝ろう。


 明日もいるかな? ちゃんと来てくれるかな? 


 きっと明日になれば当たり前のようにあそこに座っているだろう。そう思っていても、なぜだか不安になってしまった。変なこと言って逃げた私に愛想を尽かしていないかな。彼は気にしないとわかっているのに不安になる。


 うん、明日謝ろう。気づけば青に変わっていた信号。横断歩道を渡る私。


 そんな私のところに、猛スピードで突っ込んでくる車が一台見えた。


 向こうの信号は赤のはずなのに、止まる素振りが見えない。え、もしかして。


 このままでは衝突すると頭では理解していても、なぜだか足が動かない。避けられない!?


 死の間際になると、時間がゆっくりに感じると言うが、それは本当なのかもしれない。おそらく衝突まで一刻もないと言うのに、私の中では今までの思い出がフラッシュバックしていた。家族の思い出、友達との思い出、そして彼の思い出。そういえば、ちゃんとお礼を言えてなかったな。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。


「何してんだ馬鹿!」


 ほら、彼の幻聴まで聴こえてきたかと思った時、急に横からの衝撃を受けて体が横断歩道の先へと突き動かされる。


 崩れた体勢ながら後ろを向けば、必死の形相をしている彼の姿があった。そっか、追いかけて来てくれたんだ。目が合うと、彼はかつて私を慰める時に向けてくれた優しい目をしてくれた。よかった。怒ってなかったんだ。


 待って、そこはさっき私がいた場所――


「…………え?」


 理解をする前に現実が襲いかかる。今まさに彼が居たはずのところに車が侵入し、鈍い衝撃音と共に彼の姿が視界から消える。


 何が起こったの?


 車の進行方向を見れば、動きを止めた車の奥に倒れている人の姿が一人。それはさっきまで話をしていた相手に他ならなかった。


 目の前の現実に身体の震えが止まらない。


「嘘……」


 周りの人が何かを叫んでいるけど、それが何を言っているのかわからなかった。


 心臓の音がうるさい。震える足で一歩一歩彼のところへ足を進める。金属の重りでもつけられたかのように足が動かない。なんとかたどり着くも、地面に倒れた彼は微動だにせず、彼の周りには赤い液体が流れ、その範囲をどんどん拡大していく。それが血だとわからない私ではなかった。


「ねぇ……どうして……」


 私を助けたの? そう聞いても返事は返ってこない。


 私、酷いことを言ったのにまだ謝れてない。助けてくれたことに対するお礼も言えてない。私の気持ちだって……。


 また明日、会ったときに言おうと思ってたんだよ? 謝って、お礼を言って、また君と他愛もない話をして、笑いあいたいと思ってたんだよ。


 なのにどうして?


 私は力なくその場に崩れ落ちた。


 そんな私の目の前に、何かが転げ落ちていた。生徒手帳だ。


 神崎八尋。血の池の中にあった手帳を見て、私は初めて彼の名前を知った。


「やひろくん……八尋君!」


 知ったばかりのその名を必死に叫んでも、返事は一向に返ってこなかった。


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