第56話 彷徨う感情④

 病室が暇すぎてコツコツ勉強していたお陰か、随分行ってなかったにも関わらず特に授業でわからないところはなかった。


 やはり僕が求められていると改めて理解した俺は、神崎八尋であることに磨きをかけた。家族、クラスメイトの反応を見ながら日々神崎八尋の演技をブラッシュアップしていく。俺は僕のことを知らないが、たぶんどんどん僕でいられるようになってきたと思う。


 そうして僕として過ごす時間が増えて、どんどん神崎八尋になっていった俺の体に、ある日突然に異変が訪れた。


「おえええええええええ」


 家のトイレ。体の中のブツが逆流していく。その日を境に、俺は毎日家のトイレで人知れず吐くようになった。みんなが寝た後、誰もいない時、こんな姿を見られたら心配をかけてしまう。神崎八尋は完璧でなくてはならない。みんなの話を統合した神崎八尋像はそれはまあ完璧な人間だったから。


 だが、神崎八尋であればある程俺は思う。俺は誰なのだろうかと。俺も名目上は神崎八尋だ。でも、みんなが求めている男が、俺が演じている男こそ神崎八尋なんだ。じゃあ、神崎八尋を演じている俺は?


 俺がみんなが求める神崎八尋であればあるほど、俺は俺がわからなくなっていた。そのストレスが体にも現れている。


「ちょっとあんた……大丈夫⁉︎」


 ある日、長期休暇で実家に戻っている姉貴に吐いている姿を見られてしまった。


「……誰にも言わないでくれ」

「無理でしょ。死にそうな顔してる奴を放っておけない」

「ダメだ。神崎八尋は完璧でなくてはならない」

「あんた何言ってるのよ?」

「神崎八尋は人に弱さを見せたりしない。だからダメだ」

「それは昔のあんたでしょ。今のあんたがそこまでする理由はないわよ」

「今の俺ってなに? 俺は神崎八尋なんだろ? なら、俺は神崎八尋でなくてはならない。それをみんなが望んでいるんだから」

「八尋……あんた……」


 姉貴のあそこまで辛そうな表情を見たのはこれが初めてだった。なんで姉貴がそんな顔をするのか。俺にはもうわからなかった。


 神崎八尋であることへの使命感。俺の心は気づいた時にはとっくに壊れていた。


「高校では一人暮らしをさせて欲しい」


 冬の始まり、とうとう耐え切れなくなった俺は、家族が揃う場でそう告げた。


「お兄ちゃん⁉︎」

「八尋急にどうしたの⁉︎」


 母親と妹が慌てる中、父親と姉貴は真面目な顔で黙っていた。


「すこし、遠くに行きたくなったんだ……」


 願わくば、少しでも遠くへ。なるべく過去の俺を知らない人たちのところへ。


「お兄ちゃんどうして!?」

「それは――」

「六花達が今の八尋に見向きもしないからでしょ!」


 机を激しく叩き、姉貴が吠えた。


「六花達、八尋が昔のような感じで接してくれて嬉しそうだったよね。それが八尋を苦しめているとも知らずにさ!」

「なにそれ? わかるように説明してよお姉ちゃん!」

「あんた達、八尋が昔と違う雰囲気を出すと悲しい顔をしてたでしょ。家族にそんな顔をさせたくないって、八尋はずっと気を遣って昔の八尋であろうとしてたんだよ。それに気づいてる?」


 姉貴は妹達を睨みつける。


「え……」

「ずっと自分を殺してみんなのために昔の八尋であろうと苦しんでいた。知ってる? 八尋はもうずっと一人の時には嘔吐してたって?」

「姉貴――」

「あんたは黙ってて!」


 勢いに負けて口を噤む。


「それに気づかず、幸せそうにしてるあんたらを見てずっとムカついてた。でも八尋が我慢してるから私は特に何も言わないようしてた。この家は、誰も今の八尋を見ようとしていない!」


 反吐が出る、と姉貴は吐き捨てた。


「でも八尋、あたしはあんたの一人暮らしには反対。ここで逃げるのはきっとよくない。ゆっくり時間をかけてやり直した方がいいと私は思う」


 まだ怒りが収まらず、姉貴は椅子に乱暴に背中を預ける。


「姉貴……」

「わかった。八尋がそれを望むなら俺は止めない」

「お父さん‼︎」

「七海。来年から八尋はお前が今住んでる家に住まわせる。元々大学では家に帰ってくる予定だったんだ。なら、その後に八尋を住まわせても問題ないだろう」

「お父さんでも……」

「これは決定だ。八尋……悪かったな」


 申し訳なさそうに言う親父の顔を、俺は直視出来なかった。


 姉貴は納得いっていない様子だったが、親父には逆らえないようだ。


 俺のせいで家族が喧嘩している姿に、申し訳なくなる。それでも俺は限界だった。


 姉貴が通う高校に受かることを条件に、俺の一人暮らしが認められた。その日から、俺は家で僕を演じることをやめた。母さんと妹はこの一件以降どこか俺に対してよそよそしくなった。まだ、僕の幻影を追い求めているようで、なんだか申し訳ない気持ちになった。


 記憶喪失の俺。考えるのは記憶が戻った時、俺は俺でいられるのかということ。神崎八尋を演じている時の俺は、もはや俺ではない別の人格となっている。


 記憶が戻った時、みんなの知る神崎八尋が戻ってきたなら人格はどうなる? 俺の人格は、その時もまだ残っているのか。ひとつの体にも二つの人格なんてありえない。たぶんそうなったら最初の宿主の人格が帰ってくる。だから俺は本物が帰ってくるまでの仮初の存在なんだ。


 でも、仮にいつか俺が俺で無くなるとしても、その時までは俺として生きていたい。だから遠くへ行きたかった。


 俺は、俺自身を見てくれる世界に憧れて、神崎八尋を誰も知らない世界に飛び出して行きたかった。


 その力をもってして、俺は勉強に一層の力を入れて希望の高校に受かった。受験時には光り輝く天使と出会い、一目惚れした。初めての感情だった。


 高校に入学して1年が経って、まさかまさかの天使と同じクラスで、さらに隣の席だった。そして、その天使からの好感度は勘違いでなければ高かった。理由はわからなかったが、願ってもないことなので一抹の不安を残しつつも甘んじた。


 困っているイケメンを見つけた。変なギャルに絡まれていた。たまたま出くわした快活ガールもあのイケメンを探して困っているようだった。


 こんな時、神崎八尋なら見過ごしたりしない。いつか明け渡すその時のために、今は俺だとしても神崎八尋の価値を下げてはならない。だからイケメンを助けた。しかしイケメンに妙に驚かれた。俺はそんなことをする風に見えなかったのだろうか。


 迷子の少女を見つけた。バイトへ向かう途中、一人で泣いていた。周りに誰もいなく、なんとかするなら俺しかいない。こんな時、神崎八尋は見過ごしたりしない。だから俺は声をかけたところ邪険にされた。この歪んだ感情を見抜かれたのかと思ったが、単純に嫌われているらしかった。


 一人でなんとかしようと思ったが、どうにもならなそうな時に天使が降臨して、助力をしてくれた。べつに俺だけでやるよと断ったが、手伝うと言って聞かない天使と共に生意気ガールと冒険をした。


 ゴールには学校でよく見る快活ガールがいた。その日はいつもの元気がなく、しおらしい姿をしていたのが印象に残っている。これも人の姉ということか。


 俺のバイト先は天使の親、つまり神が経営していると知った。世間は狭いと思いつつ、この日から天使と夜の健全な交流が始まった。


 俺が俺でいられる時間。高校生活は俺でいても周りが悲しそうだったり困った顔をしないから、とても居心地のいい時間だった。


 みんなで遊びに行った時、新堂に出会った。昔の俺を知る人物。天使がいる手前、急に態度を変えられず俺は俺のまま彼と話したが、彼は特に気にする様子はなかった。だが、昔話に花を咲かせられても困るから早々にお引き取りいただいた。その目に映るのは、昔の俺だ。俺は再び、自分が神崎八尋の器に入った仮初の人格だということを思い出した。俺が俺でいられる時間が幸せで、忘れかけていた感情を取り戻した。


 俺の家には何もない。俺が俺の個性を出したところで、いつ消えるかもわからない存在なので無駄なことだ。趣味とか、そんなのは本物が帰ってきてから取り戻せばいい。俺は空っぽでいい。


 天使と二人で水族館に行った。天使はやたら俺への好感度が高く、もしかしたら今の俺を見てそう思ってくれているのではと淡い期待と不安を持ち始めていた頃のこと。そこで明かされた過去の話。実は俺は天使と知り合いだったらしい。


 まあ、そんなことだろうと思った。空っぽの器である自分が好かれているなんて考えること自体がおこがましかったんだ。仮初の分際で好きなんて感情を持つこと自体が間違っていたのかもしれない。


 だが、天使から渡された黒歴史ノートを読むと、過去の神崎八尋も彼女のことを思っていることがわかった。そうなると、俺が彼女を好きだと思った感情は、本当に俺のものだったのかと新たな疑問が生まれる。


 神崎八尋が元から持っていたものを、心が覚えていることを、俺は自分の感情として扱っていただけなのではないかと。はたして、どこまで俺が本当に思っていることなのかわからなくなった。俺の意志は俺のものなのか。違うのか。


 もういろいろわからなくなっていた。


 だから記憶が戻るなら早く戻って欲しい。


 そしてさっさと俺を解放してくれないか。


 俺は誰なんだよ。誰でもいいから教えてくれよ。

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