第55話 彷徨う感情③

 医者から説明されたのはたぶん俺が記憶喪失であると言うこと。記憶がないと言われれば、自覚があるのですぐに受け入れることができた。


 むしろ俺より家族の方が悲しんでいるように見えて、俺は自分が可哀想な状況に置かれているらしいことを理解した。


 俺は何も知らないからいいけど、他の人は俺を知っている分悲しみが大きいのかもしれない。


 その後しばらくは入院の日々が続いた。


 体の痛みは鎮痛剤で抑えつつ、時間が立てば少しは動けるようになった。体を鈍らせないためにも動けるなら動いた方がいいとはお医者様の談。


 記憶が無くなったからかわからないけど、面会は基本家族だけみたいで俺は少し安心した。俺を知っている人とどんな顔をして話せばいいかまだわからなかったから。


 実際病室にいても暇なだけなので、動けるようになってから、日中は屋上で風を感じながら街を眺めていた。知っているような、知らないような。景色を知識として覚えているが、そこであった何かはまったくわからない状態。


 夕方になれば必ず家族の誰かしらが来る。姉貴はどうにも遠くの学校に行っているらしく、来るのは母さんか妹が多かった。父さんは仕事なので休みの日しか来れない。姉貴も休みの日のどちらかは来てくれる。心配なのかわからないが、俺は愛されていることはわかる。いや、今の俺が愛されていると考えていいのかわからないけど。


「早く記憶が戻るといいね」


 家族は姉貴以外必ずその言葉を言ってくる。俺の記憶は戻った方がいいらしい。


 そして気づいたことがある。家族は俺が昔の俺と違うことを言うと悲しい顔をする。最初に一人称を俺にした時に面食らった顔をしていたので、家族の前では僕と言うようにした。


 暇潰しの足しにと、ある時姉貴が日記を持ってきた。俺の部屋から漁ってきたらしい。プライベートとはなんなのかを考えさせられるが、過去を知るのは俺自身を知るためにも大事かもしれない。


「……何この文章」


 開いてみて絶望。やたら詩的に書かれたキザったらしい内容。本当に記憶を無くす前の俺が書いたのかわからないほどに感性が違った。俺はこの日記を黒歴史ノートと名付けることにした。もう、今の俺には書けない素晴らしい文章の数々を称えてそう呼ぶことにした。


 とはいえ、過去を知るってのはいいことだと思い、家族に俺ってどんな人だったのかを聞いてみることにした。


 それについては妹が熱く語ってくれた。お兄ちゃんはこんなに凄い人なんだぞ、とまるで記憶にないエピソードをつらつらと語る。どれだけ盛られていようと俺にはわからないのをいい事に、お兄ちゃんをスーパーマンに仕立て上げようとしているのではと思った。


「お兄ちゃんはね、困っている人は絶対に見過ごさないの」


 ある時妹はそう言った。


「そ、そうなの?」


 俺のことなのに疑問系。まるで知らないのだから仕方ない。でもまたまたわかったことがある。妹、名前を六花りっかと言うが、彼女はお兄ちゃんが大好きだということ。


 姉貴の名前は七海。七海、八尋、六花。上から姉、俺、妹。何かがおかしいような感じがしたけど気にしないようにした。


「わたしが困った時はいつもスマートに解決してくれるんだよ」


 心なしか目が輝いていた。


 母親も言っていた。八尋は手がかからない自慢の息子だと。それを俺に言ったってどうしようもないのに。


 過去を知ろうとしたのは俺だが、神崎八尋の話を聞くたびに俺の心は少しずつ削れていった。


 早く記憶が戻るといいね。その言葉が呪いのように聞こえ始めてきたのはこの頃だ。まるで、俺はいらないと言われているような気になった。考えすぎだと思い、その感情の存在に気づきつつも俺は蓋をした。


 姉貴だけは唯一記憶が戻るといいねと言わなかった。それが少し嬉しかった。


 過去の話と黒歴史ノートの記述から、俺は神崎八尋がどのような男だったかを勉強するようにした。家族から聞いた俺の印象、日記から読み取れる俺の性格。それらから神崎八尋の人格を読み取って実践していく。


「僕もそろそろ退院だね」


 俺が僕らしくしている時、家族は安心した顔をする。悲しい顔をしているよりは安心した顔をしている方がいい。昔と違うことをすると、母さんたちは少し悲しそうな顔をするので、その顔を基準に俺はどんどん神崎八尋に戻っていった。


「あんたそれいつまで続けるの?」

「どうかした姉さん?」

「その話し方やめて気持ち悪い」

「仕方ねぇだろ。それを望まれているんだから」


 姉貴だけは俺の態度が気に入らないらしく、俺が神崎八尋になればなるほど嫌な顔をした。


 だから姉貴の前でだけは俺でいることにした。


「俺って言った時とか、以前と違うことをすると母さんと六花は悲しい顔をするんだよ」

「だからって今はあんたなんだからそれを受け入れるしかないでしょ」

「そうかもな。でもさ、悲しい顔はさせたくないだろ。家族なんだから」

「でも、それじゃあんたは……」

「みんなが望むなら俺はそれでいいよ。俺は何もないから」


 俺は空っぽだ。神崎八尋だと言われても、その実感がない。だって俺にとってその名前は音の集合体でしかないから。


 姉貴は少し寂しそうな顔をしていた。


 退院の日。姉貴が迎えに来てくれた。他の家族は家で待っているらしい。憂鬱だ。


 そんな姉貴はちょっと用事と言って病室を出ていき、しばらくして帰って来ると、姉貴は普段見られないような複雑な表情をしていた。迷い、後悔、そんな感情が滲み出ている。


「姉貴、なんか今日は複雑な表情してんな」

「ちょっとね……」


 それ以上姉貴は何も言わなかった。気にはなったけど、俺は特に訊くことはしなかった。そんな余裕はない。だって、これから俺は家に帰るんだから。 


 そして俺は退院して、姉貴に連れられる形で家に帰ってきた。少し足が震えた。久しぶりの我が家と言われても、なんの感情も浮かんで来ない。


 自分の部屋に通された。本棚にある漫画、机の上にある教材。ゲームなどが綺麗に整頓された部屋。俺の部屋らしいが、やはり実感はわかなかった。家もそう。他人の家、他人の部屋に入り込んでいる。それ以上の感想が出てこない。


 家に帰って来てまず感じたことは、どうしようもない疎外感だった。家族団欒だんらんの食卓も、俺はどこか第三者的なお客様の気分だった。


 またまた時間が経つと、俺は学校に行くことになった。


 クラスメートがひっきりなしに俺のところにやって来ては心配と労いの言葉をかけてくれた。


 試しに一人称を俺にしてみたけど、みんなが目を丸くするので冗談ということにした。やはり、求められているのは僕なのだろうか。だから俺は学校でも神崎八尋であろうと努めた。


 みんな俺が記憶喪失になったと知っている。クラスメイトにも俺がどんな人間だったのか聞くと、色々な思い出と一緒に俺の人柄を語ってくれた。楽しそうに思い出を語るクラスメイト。彼らにとっては良い思い出も、俺にしてみれば日記から得られた情報でしかなく、そこになんの思い入れもない。


 そうして神崎八尋を知る度に、俺の心は自分で気づかないほど少しずつ擦り減っていった。

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