第52話 ありがとう

「わかった」


 相原の提案を受け入れたものの、沈黙が場を支配する。


 話をすると思っていたのに、なにも話題がなく、気がつけばどっちがこの沈黙を破るかのチキンレースが開幕していた。沈黙が続けば続くだけしょうもない話は切り出し辛くなっていく。


 お話、するんだよね相原さん⁉︎ なんかこの沈黙辛くなってきたんですけど‼︎


 隣を見やれば、相原は真剣な表情で思案するように目を細めていた。その姿も美しい。相原美咲には人を惹きつける魔力が備わっていて、彼女を見ると視線が外せなくなってしまう。


 だから「神崎君」と相原が急にこちらを見て目が合った時、俺の心臓はビクッと震えあがった。


 やばい、ずっと見ていたことに気づかれたか?


「最近ね……やっと決心がついたんだ……」


 そんな俺を気にせず、相原は一つずつ言葉を探すように続ける。


「今の関係が、とても心地よかったから……私はずっと甘えてた」

「…………」


 なんの話をしようとしてるのか皆目見当がつかない。ただ、面白おかしい話をする雰囲気ではないことはわかるので、俺は黙って傾聴する。


「でもそれじゃあ神崎君は前に進めないって、そう思った。だから」

「相原?」


 彼女が何を切り出したいのかわからない。それでも、その真剣な眼差しに、俺は相原からの言葉を待つしかなかった。


 俺が前に進めないって、何が言いたいんだ?


 美咲ちゃんとしっかり話してきなさい。不意に姉貴が言っていた言葉が脳裏によぎった。


 どんな話か見当もつかない。それでも、理由はわからないけど少し嫌な予感がした。


「……私の大切な友達の話を聞いてくれる?」

「大切な友達?」

「そう。ある一人の男の子と私のお話」


 相原は呟き、その大切な友達と相原自身のことを懐かしむように話し始めた。


 その話は、俺の想像以上に重いものだった。相原が昔いじめられていたこと、その逃避先としてこの水族館でペンギンを見ていたこと。そして、ここで一人の男と出会って仲良くなったこと、そいつの助言のおかげで事態が好転していじめがなくなったこと。そして、事故に遭いそうな時そいつが身を呈して助けてくれたこと。かなりの大怪我だったが、今は元気にしていること。


「この水族館は……この場所は、私にとって特別な場所なの」

「その……いろいろ大変だったんだな」

「ううん、もう終わった話だから大丈夫だよ」

「そうか……」


 何を口にすれば良いのかわからず、曖昧に返してしまう。いじめられてました、今は解決しました。それは良かったねで済む話ではないと思う。人の心の傷の大きさはその人自身にしかわからない。だからこそ簡単によかったねで片付けてはいけない。


 かつての相原の心も体も救ったその男、話によれば今は同じ学校に通っているんだよな。


 ただ、相原の辛い過去はそれとして、どうして? という疑問は生まれる。


「でも、どうしてその話を俺に?」


 神崎君が前に進めない。今の話と俺がどう関係してくるのか全く意味がわからない。しかし、意味がわからないからこそ嫌な感じがして、滲み出た汗が頬を伝う。


「それはね……」


 相原が自分のカバンから一冊のノートを取り出し、それを俺の膝の上に置く。


「その大切な友達が、神崎君のことだからだよ」

「⁉︎」


 瞬間、俺は突然の衝撃に目を見開いて固まってしまった。


 脳内には様々な思考が駆け巡る。


 視界の端のブツに目がいく。この質素なノートには見覚えがある。黒歴史ノートだ。


 最初の1ページを開く。その日付は俺が中学3年生になる年のものだった。幻の中学3年生編。実在していたのか。


 そして、この黒歴史ノートの存在によって、なぜ相原がこんなに俺に好意的だったのか理解した。今日まで疑問に思っていたことが、この薄い紙束ひとつで全て繋がっていく。


 周りの音が、自分の心臓の鼓動さえも遠ざかっていく。心が、深く沈んでいく。


 この展開を考えなかったわけではない。だから過去の黒歴史ノートを何度も読み返しては相原美咲の存在を探した。でも出てこなかった。だから違うと思ってた。なんだ、俺の手元にないならそもそもわかるはずなどなかったのか。


 そうか……君の瞳に映る俺もまた。


 体の熱がスッと引いていく。


「相原……俺は――」

「知ってる」


 震える声を絞り出すも相原の凛とした声に遮られる。


「え……?」

「全部、知ってる」


 相原の手もなぜか震えていた。それでも意思の強い目が俺に向いている。いや、俺が恐れているからそう見えるだけなのか。とにかく、俺はたまらずに目を逸らした。


 知っている。何がとは言わなくても、それだけでわかる。ただ、全部が何を指すのかまではわからない。相原はどこまで知っているのか。でも、もうこれ以上は聞きたくない。


「突然こんなことを言っても、神崎君は困るだけだよね」

「わかってるなら……なんで言ったんだ?」


 言わなければ、知らなければ、今こんなに思考がぐちゃぐちゃになってない。


「……神崎君に、前を向いて欲しいから」

「…………」

「そして、ちゃんと私を見て欲しい」


 そう言った彼女の顔を、俺はまだ見れていない。


「だって、私は神崎君のことが――」

「相原!」


 自分でもびっくりするくらいの大声だった。


 だってその先の言葉を聞きたくなかったから。それは俺じゃない俺に向けたものだから。


「それ以上はダメだ……」

「神崎君……」

「それはダメなんだ相原……」


 今それを言われたら、もう俺は耐えられない気がした。だから俺は心を塞ぐ。


「その先の言葉は聞きたくない……」

「……わかった」


 どこまでも落ち着いた声で、相原は続ける。


「でもこれだけは言わせてね。ありがとう神崎君。あなたのおかげで今の私がいます。それだけは……覚えておいてほしいんだ」


 そのありがとうは、今まで言われたお礼の中で1番苦く、1番実感を得ないもの。


 相原の瞳に映っていた俺は、俺ではない俺。


 その現実に、俺の中の何かが音を立てて崩れていく。


 改めてわかった。どれだけ逃げようと、しょせん今の俺は器でしかなかったのだと。


 そう、それだけの話だ。少しでも期待した俺が馬鹿だった。最初からわかっていたことじゃないか。俺なんてチンケな存在が、天使と並び立てるはずなどなかったんだから。


 君が見ている俺もまた、過去の俺なのだから。

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