第45話 凡人の秘密

「で、姉貴はいつまでいんの? 気分いいから早く帰って欲しいんだけど?」

「え? あたし今日泊まるけど?」

「は?」

「言ってなかったっけ?」

「いや初耳だけど。本気で言ってんの?」

「もうお父さんにもお母さんにも言ってるし。なんなら八尋の様子しっかり見てこいって言われたし」

「まじかよ。親父もなにか言ってくれてもいいだろ」

「気を遣ってんのよあんたに」


 それを言われると何も言えなくなる。


 とにかく断っても無駄なことはわかった。はあ……幸せな気分が急降下。


 姉貴が最初から泊まる腹づもりだったのはすぐにわかった。パンパンのリュックからは着替えや歯ブラシ、自前のドライヤーからあれやこれやこんにちは。色んなお泊まりグッズが出てきた。ドライヤーなら俺の家にもあるけど、と言えばあんなポンコツと一緒にするなとのこと。人の家の私物をポンコツとか言うな。もとを正せばお前のお下がりだからな?


 晩御飯はコンビニで済ませた。相原もいないし、姉貴にはコンビニ程度がお似合いだろ。


 そして、なんと姉貴は昼ご飯と夜ご飯の代金をくれるという天変地異が起こりそうなことをした。明日の天気を間接的に悪くさせるつもりか?


 訊けば相原の前では弟に華を持たせてくれたらしい。いらねぇ気遣いだ。柄じゃねえだろそんなん。


 夜、姉貴は自前の寝袋を寝室で広げる。


「寝袋か、準備いいな」


 布団の用意はなく、姉貴は床かソファで寝てもらうかと考えていたが、それは杞憂だったようだ。


「だってあんた客用の布団持ってないでしょ?」

「御名答。姉貴わかってるじゃん」

「まあこれでもあんたの姉だからね」


 姉貴は自然な流れで俺のベットに横たわる。


「おい、そこは俺のベッドだぞ?」

「そうね。今日はあたしここで寝るから」

「は? じゃあ寝袋はなんのために敷いたんだよ?」

「あんた用に決まってるでしょ」

「決まってねぇよ! 友達ならともかくお前は普通気を遣う方だろ! 急に泊まりに来るなら寝床はお前が妥協しろ!」


 なんで今日突然泊まりに来たこいつのために俺が寝袋で寝なきゃならんのか。異議申し立てするぞ。


「じゃあ一緒に寝る?」

「妥協の仕方が間違ってるんだよなぁ」


 高校生にもなって姉と一緒に寝るとかないだろ。犯罪じゃんそれ。


「はあ……わかったよ」

「ものわかりがよろしい」


 電気を消して、俺は寝袋の中に体を突っ込んだ。


 …………案外悪くない。体が覆われてほのかにあったかく、その気になればすぐにでも寝れ、ないわこれ。やっぱ床かてぇよ。寝袋自体は悪くないかもしれない。でも床がだめ。硬すぎる。


「八尋起きてる?」


 まじ床硬すぎるんだが、となるべく痛くないポーズを探していると、暗闇から姉貴の声が聞こえて来る。


「床硬すぎて寝れない」


 闇に目が慣れてもベッドの上にいる姉の姿は見えない。この段差による格差が家族ヒエラルキーそのもの。俺の位置は間違いなく底辺。親父といい勝負して、俺がギリ底辺だ。


 そもそもここの家賃とか生活費とかくれる時点で俺は親父には勝てない。親父めっちゃ稼いでるんだなぁとつくづく思う。姉を私立の大学に通わせ、弟を一人暮らしさせながら高校へ通わせる。


 それでも家族を平気で養っているスーパースペックの親から生まれた俺と姉貴はこんな感じでポンコツより。勉強が出来るだけの金食い虫にしかなってない。残る妹に期待してもらうか。


「姉貴はさ、なんで急に俺を水族館に行かせようとしたわけ? 唐突過ぎない?」

「友達がくれたから最初はあんたと二人で行こうと思ってたんだけど、なんかちょうどいい相手がいそうだったからそっちにした。あのチケット明日までしか使えないのよ」


 そもそも姉貴と二人で水族館とか行きたくないんだが。姉貴は魚見るの絶対好きじゃないと思うし、魚の群れ見ても美味しそうかどうかでしか判断してなさそう。


 まあそれは置いておいて、


「期限短過ぎない?」


 今日渡されて期限明日とかどうなってんだよこのチケット。


「まあそれだからこそ貰えたようなもんだしね」

「何で俺を連れてこうとしたんだ? 友達いないのか?」

「八尋よりはいるわよ」

「じゃあ5人くらいはいるんだな」

「…………あんたどんだけ友達少ないのよ」

「4人もいれば充分だろ」

「まあそこはいいとして、そろそろ八尋のケツを叩きに行こうかと思って」

「なんだそれ。意味がわからん」

「だって、あんたまだ逃げ続けてるでしょ?」


 その言葉に心臓の辺りがキュッと締め付けられる。恋などではなく、図星を突かれたことによるもの。


 俺が黙っていると姉貴はさらに追撃する。


「あたしは反対だったんだよねあんたの一人暮らし。でもお父さんが言うなら止められないし。でもそのせいでまだ拗らせたまま。あんたはずっと立ち止まって後ろを向いている。今日改めてそう思った」

「…………」

「美咲ちゃん、良い子だよね。あんたには勿体ないくらい。あんなストレートな好意に気づいてないとは言わせないよ」

「…………」


 お互いの顔も見えない。反応がなければ、もしかしたら俺は寝ている可能性だってある。


 それでも姉貴は構わず話続ける。


「……記憶を失う前のあんたは、正直完璧過ぎて嫌いだった」


 暗い部屋の中、姉貴の優しい声が流れる。


「あたしは今の八尋の方が好きよ。だからいい加減、今の自分を受け入れなさい。八尋は八尋なんだから」

「…………」


 今の自分を受け入れる。姉貴の言葉を心の中で復唱した。


 俺は、中学3年生の途中までの記憶がない。一番初めに残っている記憶は、知らない天井と、その後やってきた他人の集まりだった。まあそれが俺の家族だったんだけどさ。


 黒歴史ノート。俺の失われし記憶を補完する書物。俺じゃない俺が書いたらしい何か。記憶の断片。


「気になることがあるなら美咲ちゃんとしっかり話してきなさい。それが……彼女のためでもあるんだから……」

「なんでそこで相原が出てくるんだよ」

「スゥ……スゥ……」

「いやどんなタイミングで寝てんだよ……」


 ぼやいても、返ってきたのは可愛らしい寝息だった。普段からこの寝息くらいお淑やかならいいのに。


「今の自分を受け入れる。最初からそれができてりゃ、こんなに悩んでねぇよ」


 小さな呟き。だけど静かな寝室には小さい声でもよく響いた。


 返事はなかった。

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