第44話 天使を誘いたい

「そ、それは……‼︎」

「ん? 八尋の日記。あんたは黒歴史ノートとか言ってたっけ?」


 目の前に開かれた数々の質素なノート。そのひとつひとつは俺が中学2年生まで付けていた日記に他ならなかった。


 心臓が痛い。なぜ黒歴史ノートがそこに。


「な、なぜここに……それは隠していたはず」


 姉貴は不敵に笑う。


「あたしの手にかかれば見つけるなど容易いのよ。あたしはあんたの姉だからね」

「いや何してんだよ⁉︎」


 これは勉強机の引き出しの奥の奥、さらには一度ダミーのプレートを挟んでさらに奥に隠していた秘蔵の代物。本気で探そうとしなければ、普通の人間にはまず見つけられない。


「さっきちゃんと言ったじゃん。帰ってきたら覚悟しなって」

「は…………まさか⁉︎ バナナ⁉︎」

「わかってるじゃない」


 バナナの恨みがここで帰ってくるのか。あんなんちょっぴり可愛げのある弟の冗談に決まってるだろうが。本気でバナナ買って来るなんて、まあ考えたけど本当に買ってこなかったし、これ俺が被害こうむってるだけじゃねぇか。辛い。


「姉に喧嘩を売った罰」

「一方的な蹂躙っていうんだよこれは」


 俺の精神にだけ大ダメージ。


「また勝ってしまった」

「戦いですらねぇよ……」


 目の前に広がる数多のノート。神崎八尋の歴史が独自の視点で描かれている超大作。しかし中二の時で時間が止まる辺り、俺も正気に戻ったのかもしれない。もしかしたら失われし幻の中学三年生編があるかもしれないが、それはまた別の話。まだ抜け切ってないかも。


「…………」


 そしてなによりもキツいのが相原が黒歴史ノートを興味津々に読んでいること。お帰りと言ってくれたものの、常に意識の半分は日記に向けられている。


 そんな集中して読むもんじゃないよそれ。


「あ、ごめん神崎君! つい!」


 俺の凝視する視線に気づいた相原が顔を上げる。


 つい、なんなんだろうか。面白くて、とかだったらまだ救われる。いや、面白いにも色々種類があるわけで、馬鹿にする様な面白いの可能性もあるのでは⁉︎ 中身の文体とか中々キモいしな。自分で読み返した時もちょっと引いた。


「うんうんわかるよ美咲ちゃん。これ最高に面白いよね!」


 こいつの言う面白いは絶対に馬鹿にする方だとわかる。


 姉貴は例えば、と言って日記のひとつを手に取る。


「今日は新堂との別れの日、彼は昔から泣き虫だった。中学2年が終わり、次の年度へ移る準備期間の今日もそれは変わらなかったーー」


「読み上げるなあああああああ‼︎」


 猫も驚く反射神経で姉貴から日記を取り上げる。


「お前は俺を殺す気か⁉︎」


 相原いるんだからな。相原いるんだからな!


 クラスの可愛い女の子の前で過去の黒歴史ノートを音読される男子高校生の気持ち考えろよ。死ぬぞ?


「いいじゃん別にあんたが書いたんだから。過去の自分を恨みなよ」

「は? ずっと恨んでるわ」


 吐き捨てるように言えば、一瞬姉貴が哀しげな表情をした。


「わ、私は素敵だと思うよ、日記!」

「その力技のフォローが今は痛い」

「う……ごめん」

「いいんだ……もういいんだ」


 相原は取って付けたようなフォローをしてくれたが、それが一番キツかった。日記燃やせばよかった。


 気を持ち直すため、一度キッチンに戻って置き去りにしてしまったパスタをレンジで温める。レンジから取り出すと食欲をくすぐる香りが鼻を抜け、少し元気になった。


 全部を温め終えたので、相原たちが待つテーブルへ運ぶ。その間に、姉貴たちには黒歴史ノートを片してもらった。もう見つかってしまったものは仕方ないので、隠したりはせず、机に備え付けの本棚に置く事にした。ノートが入っても隙間だらけなので斜めに倒れている。


 まあ今日相原が来たのはイレギュラーだが、それ以外を呼ぶつもりは今のところない。だからここに置いてもいいだろう。はは。


「美味しそう!」


 並んだパスタを見て相原が言う。よかった。俺のセンスは間違っていなかったようだ。サンキュー人類の叡智。数々の屍を積み上げた先に出来た知恵は素晴らしい答えを提供してくれたようだ。


「なんでも好きなのとっていいぞ。俺は余り物でいいから」

「ありがとう。どれにしようかな?」


 相原はどれにしようか悩む素振りを見せてから野菜をふんだんに使った和風パスタを選択した。


「姉貴は?」

「じゃあこれにする」


 姉貴はホワイトソースを使ったパスタ。なので俺は残りのミートソースを取る。


「「「いただきます」」」


 食への感謝を忘れず俺たちはパスタを食らった。さすが店のパスタ。レンジでチンしても変わらず美味い。店で食ったらもっと美味いんだろうなと思いながら完食。


 昼ご飯代を相原が払おうとするので、ここは俺にカッコつけさせてくれと言って断った。


 その後は適当に話をしたりゲームをしたりで気がつけば夕方。まだ外は明るいが、遠くの空は赤みがかかっていた。


「私そろそろ帰るね。楽しくてつい長居しちゃった」

「お、おう」

「その反応キモ……」


 相原はどうしてこう俺の胸を刺激する言葉を平然と言うのだろうか。姉貴も見習ってくれ。だが姉貴のマイナス分の言葉を加味しても圧倒的プラス。相原が楽しんでくれたなら黒歴史を暴かれた甲斐もあるか。いや、あれはやっぱりキツいわ。


「そういえば、明日あんた暇だよね」


 不意に姉貴が言う。


「そこはまず暇? って聞くところだろ。断定すんなよ」

「なんか予定あんの?」

「いやないけど」

「じゃあ合ってんじゃん。無駄なこと言わせないでよ」

「…………」


 なんで俺が怒られてんの? 人との会話の一般常識を説いたつもりだったんだけど。姉弟にはそれは通用しないってこと? まあ暇なのは確かなんだけどさ。むしろ暇じゃない方が珍しいけどさ。


「ほい」


 姉貴自分の財布から紙切れを2枚差し出して来る。


 受け取れば、それは地元では有名な水族館のチケットだった。


「なにこれ?」

「見てわかんないの? 水族館のチケット」

「それはわかるわ。なんで急に渡したんだよ」

「八尋、あんた美咲ちゃんの弁当ただでご馳走になったんだって?」


 突然ぶり返される問いに首を傾げる。


「まあ日頃のお礼にってことでいただいてしまったけど」

「男としてそれはどうなのよ? お返ししなきゃダメなんじゃない?」

「俺もお金払おうとしたけど受け取ってくれなかったし」

「はあ……そりゃそうでしょ。そういうとこはほんとダメね」


 そりゃそうなのか。正当な対価をお支払いしようとしただけなのにな。そういうもんなのか。


「こういうののお返しはお金じゃないの。だから弁当のお礼にって思うなら美咲ちゃんをエスコートしてあげなさいよ。美咲ちゃんも明日は暇だって言ってたよ」


 相原を見れば、彼女は俺が何かを切り出すのを期待しているような、そんな視線を俺に送る。


「相原が嫌じゃなければ俺もいいけど」

「あのさ、八尋」


 姉貴がため息混じりに呟く。


「美咲ちゃんが嫌じゃなければ、じゃなくてあんたはどうしたいのよ。ちゃんと自分の言葉で決めなさい」


 俺がどうしたいか。そんなことでこれを決めていいのか? 大事なのは俺の意思じゃなくて相原の意思じゃないのか? でも、俺の意思を言うのであれば。


「えっと、せっかくチケットくれるみたいだし、よかったら俺と水族館行かない? 俺はできたら相原と行きたいし」


 それは紛れもない俺の本心。相原は俺のこと好きかもとか、でもなぜだか分からなくてそれが怖いとか、色々な感情が渦巻いているけど、こんな可愛い女の子と出かけたくない男はいない。俺だってそれに例外はない。


 チケットを1枚相原へ差し出す。彼女は何も言わずにそのチケットをじっと凝視する。


「明日の集合は何時にしよっか?」


 1秒が体感10秒に感じられるゆったりとした世界の中、やっぱり嫌だと言われたらどうしようと悲観的なことを考えていると、彼女は俺の手からチケットを取っていつもの笑顔を向けてそう言った。


 俺の心は、どう言い繕っても彼女に奪われている。だって、彼女の笑顔を見ると目が釘付けになり、俺もなぜだか嬉しくなってしまうのだから。


「じゃあ、また明日ね」


 明日の集合時間と場所を詰めてから、相原は笑顔で帰って行った。


 また明日。まさか土曜日に聞けるとは。最高かよ。

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