第9話 バイト先での一幕

「神崎君はもう仕事に慣れてきたかな?」


 今日の営業が終了し、レジ締め作業をしているボスが優しい口調で言う。時刻は夜の9時過ぎ。飲食店にしては少し早い閉店に思うが、これがこの店のスタンダード。カフェレストランと謳っているので世間一般の晩御飯の時間を過ぎたあたりで閉店するとのこと。


「はい。ボスと先輩方のおかげで少しずつ慣れてきました」

「神崎君は相変わらず僕のことをボスと呼ぶんだね」


 ボスが苦笑い。ボスの本当の名前は悟さん。それ以上でもそれ以下でもない。


『初めまして、このレストランのオーナーの悟です』


 から始まった。別に知らなきゃいけない情報でもないので、わざわざ俺から聞くこともしなかった。ボスはボスだしな。


「杉浦さんからボスのことはボスと呼べと教わりましたので」

「杉浦君、変な呼び方を定着させようとしないでくれないかな。最近柳さんまで僕のことボスって言うようになってるんだよね……」


 ボスはキッチンで洗い物に勤しんでいる金髪の男、杉浦さんに苦言を呈す。


「絶対君たち二人が言い続けているせいだよ……」

「でもボスはボスですから。な、神崎?」


 次々と食器を洗いながら杉浦さんが言う。


「確かにボスはボスですからね」


 それには同意するしかない。バイトの初日、仕事の面倒を見てくれることになった杉浦さんからまず言われたこと、それは悟さんのことはボスと呼べ、だった。何の冗談かと思ったら杉浦さんは本当にボスのことをボスと呼んでいたものだから、それがここのルールだと思って俺も従うことにした。次に一緒になった柳さんは店長と呼んでいたが、俺としてもボスの響きがしっくり来ていたのでそのまま続けている。俺と杉浦さんがあまりに自然にボスと呼ぶものだから、最近柳さんまで呼び始めているらしい。異端が正常を侵食していく様を体感している。


「ま、柳がボスって言い始めたのは間違いなく神崎のせいですよ」

「ちょ⁉︎ 杉浦さん⁉︎」


 こんな会話をしながらも、杉浦さんの手は止まってないあたり、仕事は真面目にする人なのがわかる。


 ちなみに杉浦さんはこの店で一番歴の長いバイト。大学3年生のバンドマン。モテると思って音楽サークルに手を出したらしい。彼女はいない。本人がバンドをすればモテるのは嘘だと言ってたからいないと確信している。


「お前がさも当然のようにボスって言うから伝播したんだよ。柳もあれで流されやすいからな」

「杉浦さんに従っただけなんだけどなぁ」

「じゃあ今からでも直してくれてもいいんだよ?」

「それは無理ですね」


 ボスからの提案を速攻で否定すると、ボスは見るからに肩を落とした。


「ボスはボスですから」


 そう、何度でも言うがボスはボスなのだ。


「ほらな、そういうとこだよ」


 杉浦さんはニヤニヤとモテなそうな笑みを浮かべている。どういうところでしょうか。さっぱりわかりません。


「でもそういうところが神崎君だよね〜」


 それにしても、と店長は続ける。


「自慢じゃないけど、僕は人を見る目が他の人より優れていると思うんだよね」

「突然なに言いだすんですか。あと自慢ですよそれ」


 杉浦さんが突っ込みをいれる。


「杉浦君は見た目はアレだけど仕事は真面目でしっかり者だし」

「今ナチュラルにディスられたんだけど……」

「神崎君は物覚えも良いし真面目に働く」

「神崎もちゃんとディスってください」

「自分が言われたからって俺を巻き込まないでくださいよ! あとちゃんとディスるって何⁉︎」


 杉浦さんはブーブー文句を言っている。ボスの言うことはもっともなので俺も口は挟まない。


 襟足が肩にかかり、前髪は半分くらい目にかかっている。それ視界良好ですか? と聞きたくなるような髪型。耳には地味めな銀色のピアス。さすがに刺青はないが、杉浦さんは初見のお客さんには大抵萎縮されている。俺も初めてバイトで一緒になった時は驚いたものだ。しかし、ボスも言っていたが仕事は真面目にやっているし、教え方も上手い。くだらない冗談だって言うので、慣れてくれば普通に面倒見の良い先輩。本当にただ見た目が少し怖いだけ。バンドマンたるもの多少アウトローに行くべきだ、とは杉浦さん談。金髪の根元は黒くなっていて、俗に言うプリン状態。少しダサいが、それもまあアウトローなのだろう。


「神崎だって、探せばディスるとこあると思いまーす」


 杉浦さんは不満そうだ。ただ口調が棒読みっぽかったからそこまで本気で言ってるわけではないと思う。だがわざわざ欠点を探そうとするんじゃない。


「例えば、彼女がいない!」

「決めつけないでいただきたい!」

「じゃあいんの?」

「い…………ませんけど……杉浦さんは?」


 喉から言葉を無理矢理捻り出す。今、俺の中では天使八尋と悪魔八尋が戦っていた。正直に告白してしまった方がいいと言う天使八尋。口だけならなんとでも言えるからハッタリでもかました方が良いと言う悪魔八尋。この戦いは1秒が永遠に感じるほど激しい戦いを繰り返していた。そう、こんな無駄なことにだ。結局は天使が勝ったが無性に負けた気がしたので言葉が喉に詰まってしまった。


「い………………ない」


 俺がカウンター放つと、杉浦さんは非常に苦しそうに顔を歪ませる。い、からの間に色々な葛藤があったことが伺える。先輩の威厳を見せるか、正直な心で答えるか、俺には想像しかできない何かがそこにはあった。きっと俺と同じような熱く虚しい戦いを繰り広げていたことだろう。でも正直に答えるところが杉浦さんの根っこの部分を現している。


「二人ともなんでそんな苦しそうな顔してるのかな」

「攻撃したつもりが自分にとってもクリティカルだった反動ですよ」

「俺にはまだ隣を歩く女の子はいないと再認識させられた反動です」


 戦いとは常に虚しいもの。他人を傷つけず、ただ自分が一人であり隣を歩く女の子がいない現実に心を抉られた男が二人。どちらかと言えば杉浦さんの方がダメージを負っていた。最初に仕掛けてきたのはそっちなのに。歳を召した分蓄積されるダメージが大きいわけか。さりげなく年齢=彼女いない歴にしている俺。でもいた事あるんですかとは聞かない。もしいたことあるなら俺の心がもっと傷つくかもしれない。この前小学生の男女が仲良く並んで歩いているのを見ただけでなぜか心がキュッとなったもん。


「僕も妻と出会うまでは彼女できたことなかったから、そんなに焦ることないんじゃないかな」


 ボスは俺たちを慰めようとしてくれている。


「ちなみに、ボスはいくつの時に奥さんと出会ったんすか?」

「大学4年生の時だったかな」

「え、あと一年なんすけど……」


 杉浦さんはよりショックを受けたのか、手が完全に止まっていた。どうして自分から傷つきに行くのか、まさかドMだったりする?


「まあ後1年あるから」

「20年で一度も彼女が出来たことない奴が後1年で突然彼女できると思います?」


 その言葉にボスも苦い笑みを浮かべるしかなかったようだ。やっぱり彼女いない歴=年齢だったんだ。


「はあ……女の子降ってこないかな」


 杉浦さんはどこか諦め気味に漏らす。あまりに受動的すぎる発言に、そりゃこのままじゃ彼女はできないまま1年過ぎるだろうなと謎の確信を得る。


「もし降ってきたらどうするんですか?」

「美少女だったら受け止める」


 清々しいほど我欲に塗れた回答だった。たぶん、彼女ができないのはそういうとこだと思う。仕事は真面目なのに惜しい人だなぁ。


「美少女以外でも、受け止めたらそのまま彼女になってくれるかもしれないですよ?」

「神崎、空から女の子が降ってくるなんて非現実なことでくらい夢を見させてくれよ」

「ほんとに彼女が欲しいならまずは現実を見るべきなんだよなぁ」

「やめろ、その正論は俺に効く」

「はいはい、二人とも手が止まってるよ。ちゃっちゃと片付けて終わりにしよう」

「「イエスボス!」」

「そこは息ぴったりだね……」


 ボスのひと声でお互い自分の仕事に戻る。話が盛り上がると手が止まってしまうのは今後の反省点にしよう。フロアと食器の掃除が終わったところで、今日のバイトは終了した。


「じゃ、今日もお疲れさん」

「お疲れ様でした」


 店の前で挨拶をしてそれぞれ別れた。

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